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福原鐐二郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
福原 鐐二郎ふくはら りょうじろう
生年月日 (1868-08-13) 1868年8月13日慶応4年6月25日
出生地 伊勢国(現・三重県
没年月日 (1932-01-17) 1932年1月17日(63歳没)
出身校 帝国大学法科大学
所属政党 同成会
称号 正三位勲一等
子女 吉野(長男)
富士(長女・寺岡謹平妻)
満洲雄(三男)
幸雄(五男・水野勝成養子)
親族 福原銭太郎(兄)

日本の旗 貴族院議員
選挙区勅選議員
在任期間 1916年10月5日 - 1932年1月17日
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福原 鐐二郎(ふくはら りょうじろう、1868年8月13日慶応4年6月25日) - 1932年昭和7年)1月17日)は、明治時代から大正時代にかけての日本文部官僚蘇洲

文部次官東北帝国大学総長、学習院長、帝国美術院(日本芸術院の前身)院長、貴族院議員を歴任した。

経歴

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桑名藩士・福原資英の二男として生まれる。共立学校第一高等学校を経て、1892年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。逓信省試補となり官房兼郵務局勤務。1893年7月、内務省に移り内務属となる。同年11月、社寺局神社課長に就任し、以後、内務省参事官奈良県参事官、奈良県警察部長、鳥取県警察部長などを歴任。

1897年3月、文部省に転じ参事官に就任。1899年5月、文部省から教育行政法の研究のため派遣されヨーロッパに留学。1901年に帰国し、同年7月、兼文部省書記官となる。以後、総務局会計課長、専門学務局長、兼文部次官心得、文部次官、兼専門学務局長などを務め、1916年10月に退官した。

退官後の1916年10月5日、貴族院議員に勅選され[1]同成会に属し死去するまで在任した。1917年10月、第3代東北帝国大学総長、1922年11月、第14代学習院長に就任。

1924年8月、帝国美術院長となり1931年11月まで務めた。また1929年10月、学習院長退任に伴い宮中顧問官となった。

人物

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1911年2月から4月まで続いた 夏目漱石のいわゆる文学博士学位授与問題で、政府側における責任者の地位にあったのが、当時文部省専門学務局長の任にあった福原であった(漱石から福原への書翰も残されている[2])。

親族

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栄典

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位階
勲章等
外国勲章佩用允許

著作

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著書

脚注

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  1. ^ 『官報』第1256号、大正5年10月6日。
  2. ^ 『漱石全集』第16巻(1967年、岩波書店)
  3. ^ 『官報』第7020号、「叙任及辞令」1906年11月21日。
  4. ^ 『官報』第8486号「叙任及辞令」1911年10月2日。
  5. ^ 『官報』第1258号「叙任及辞令」1916年10月9日。
  6. ^ 『官報』第1276号「叙任及辞令」1916年11月1日。
  7. ^ 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。
  8. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  9. ^ 『官報』第1038号「叙任及辞令」1916年1月20日。
  10. ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
  11. ^ 『官報』第1455号「叙任及辞令」1931年11月4日。
  12. ^ 『官報』第996号「叙任及辞令」1915年11月26日。

参考文献

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関連文献

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外部リンク

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公職
先代
武井守正
美術審査委員会委員長
日本の旗 帝国美術院美術展覧会審査委員長
1919年 - 1923年
美術審査委員会委員長
1917年 - 1919年
次代
(委員長廃止)
先代
岡田良平
日本の旗 文部次官
1911年 - 1916年
次代
田所美治
先代
山川健次郎
日本の旗 教員検定委員会会長
1913年 - 1916年
次代
田所美治
先代
岡田良平
日本の旗 美術審査委員会委員長
1911年 - 1914年
次代
武井守正
先代
木場貞長
次官
日本の旗 文部次官心得
1906年
次代
澤柳政太郎
次官
学職
先代
北里柴三郎
所長
日本の旗 伝染病研究所長事務取扱
1914年 - 1915年
次代
青山胤通
所長
先代
(新設)
日本の旗 九州帝国大学工科大学長事務取扱
1911年
次代
中原淳蔵
学長