渡邊千冬
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渡邊 千冬󠄀 | |
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渡辺千冬の肖像写真 | |
生年月日 | 1876年5月1日 |
出生地 | 日本・筑摩県 |
没年月日 | 1940年4月18日(63歳没) |
死没地 | 日本・東京府東京市京橋区 |
出身校 | 東京帝国大学法科大学仏法科 卒業 |
前職 | 実業家 |
所属政党 |
(立憲政友会→) 無所属 |
称号 |
正三位 勲一等瑞宝章 |
配偶者 | 渡辺 芳子 |
親族 |
父・渡辺千秋(宮内大臣) 叔父(養父)・渡辺国武(大蔵大臣) |
在任期間 | 1939年8月26日 - 1940年4月18日 |
第32代 司法大臣 | |
内閣 |
濱口内閣 第2次若槻内閣 |
在任期間 | 1929年7月2日 - 1931年12月13日 |
選挙区 | 子爵議員 |
在任期間 | 1920年8月19日 - 1939年8月26日 |
選挙区 | 長野県郡部区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1908年5月16日 - 1912年5月15日 |
渡辺 千冬(わたなべ ちふゆ、旧字体:渡邊 千冬󠄀 [注 1]、1876年(明治9年)5月1日 - 1940年(昭和15年)4月18日[1])は、明治期の政治家、実業家。書家としての号は「無劔(むけん)」。
経歴
[編集]筑摩県筑摩郡松本(現・長野県松本市)生まれ。子爵渡辺国武の養子で、実父は帝室林野局長官や宮内大臣などを歴任した伯爵渡辺千秋(国武の兄)。幼少時は慶應義塾などで学び、帝国大学法科大学(のちの東京帝国大学法学部)卒業。日本興業銀行を経て、日本製鋼所に入り取締役。1908年(明治41年)長野から衆議院議員に当選。1920年(大正9年)襲爵後、同年8月19日、補欠選挙で貴族院議員に選出され[2]、研究会に所属して1939年(昭和14年)8月26日まで在任[1][3]。濱口内閣、第2次若槻内閣にて司法大臣を務める。大阪毎日新聞社取締役、1939年、枢密顧問官となり、他に関東國粹会総裁となる。
書家としては隷書に優れ、将棋駒に「無劔」という書体のものがある。
栄典
[編集]- 位階
- 1896年(明治29年)5月11日 - 従五位[4][5]
- 1906年(明治39年)5月21日 - 正五位[4]
- 1918年(大正7年)5月30日 - 従四位[4]
- 1925年(大正14年)12月15日 - 正四位[4]
- 1929年(昭和4年)7月15日 - 従三位[4]
- 1931年(昭和6年)8月1日 - 正三位[4]
- 1940年(昭和15年)4月18日 - 従二位[6]
- 勲章等
- 1920年(大正9年)11月1日 - 銀杯一組[4]
- 1928年(昭和3年)11月10日 - 大礼記念章(昭和)・金杯一個[4]
- 1929年(昭和4年)8月1日 - 勲二等瑞宝章[4][7]
- 1931年(昭和6年)5月1日 - 帝都復興記念章[4]
- 1932年(昭和7年)10月1日 - 朝鮮昭和五年国勢調査記念章[4]
- 1934年(昭和9年)4月29日 - 旭日重光章・昭和六年乃至九年事変従軍記章[4]
- 1939年(昭和14年)10月26日 - 勲一等瑞宝章[8]
- 外国勲章佩用允許
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 三田商業研究会編 編『慶應義塾出身名流列伝』実業之世界社、1909年(明治42年)6月、249-250頁 。(近代デジタルライブラリー)
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
外部リンク
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公職 | ||
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先代 原嘉道 |
司法大臣 第32代:1929年 - 1931年 |
次代 鈴木喜三郎 |
日本の爵位 | ||
先代 渡邊國武 |
子爵 渡邊(國武)家第2代 1919年 - 1940年 |
次代 渡邊武 |