岩田宙造
表示
岩田 宙造 いわた ちゅうぞう | |
---|---|
| |
生年月日 | 1875年4月7日 |
出生地 | 日本・山口県熊毛郡立野村(現・光市) |
没年月日 | 1966年2月22日(90歳没) |
出身校 |
旧制山口高等学校卒業 東京帝国大学法科大学法律学科(英法)卒業 |
称号 |
法学博士 正三位 勲一等瑞宝章 |
配偶者 | 岩田華奈子 |
子女 |
長男:岩田永俊 次男:岩田健次郎 |
在任期間 | 1931年12月12日 - 1946年9月30日[1] |
第46代司法大臣 | |
内閣 |
東久邇宮内閣 幣原内閣 |
在任期間 | 1945年8月17日 - 1946年5月22日 |
岩田 宙造(いわた ちゅうぞう、1875年(明治8年)4月7日[2] - 1966年(昭和41年)2月22日[3])は、明治から昭和期の弁護士、政治家(貴族院議員)。正三位、勲一等瑞宝章。法学博士。
経歴・人物
[編集]1875年、山口県熊毛郡立野村(現・光市)に樋山彦七の二男として生まれ[2]、岩田金蔵の養子となる[2]。樋山家は江戸時代、代々庄屋をつとめた家柄だった[4]。1898年(明治31年)東京帝国大学法科大学法律学科(英法)卒[2]。同期に、湯浅倉平などがいる。
1901年(明治34年)に東京日日新聞社入社。1902年(明治35年)弁護士開業[2]、東京築地に岩田宙造法律事務所(現在の岩田合同法律事務所)を開設。後に、宮内省、日本銀行、日本郵船、東京海上火災、三菱銀行、日本勧業銀行の各顧問弁護士に就任。1931年(昭和6年)12月12日に貴族院勅選議員に任じられた[5]。そして、内閣顧問や行政査察使を同時に兼任した。
1945年(昭和20年)東久邇宮内閣で司法大臣就任。幣原内閣時は留任。1946年(昭和21年)2月には、大審院長に細野長良、検事総長に木村篤太郎、司法次官に谷村唯一郎を起用した[6]。同年5月に公職追放される[7]。 1953年(昭和28年)追放解除[8]。同年より日本弁護士連合会会長。1958年(昭和33年)に学士会第3代理事長。1961年(昭和36年)には国民政治協会の前身の国民協会初代会長に就任した。墓所は多磨霊園。
栄典
[編集]- 1940年(昭和15年)11月10日 - 紀元二千六百年祝典記念章[9]
家族・親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 毎日通信社編『東京社会辞彙』毎日通信社、1913年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 『私の履歴書4』 日本経済新聞社 1957年 1-58頁
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
外部リンク
[編集]
|
|
|