ノート:渡邊千冬
渡邉・渡邊・渡辺
[編集]アジア歴史資料センターで検索すると、渡辺千秋が「渡邉」と署名している公文書が出てくるのですが、なぜ「渡邊」で項目を立てたのでしょうか。...などと、意地悪な質問はしませんが(←渡辺千秋の場合と勘違い)、日本の歴史人物名の漢字表記について、現在、Wikipedia‐ノート:記事名の付け方/過去ログ10#日本の歴史人物名の漢字表記で議論しています。ここをご覧の方々も、おいでください。--rshiba 2010年3月2日 (火) 13:21 (UTC)
慶應義塾との関連
[編集]一粒さんによる「慶應義塾幼稚舎、慶應義塾高等学校を経て → 新制高校はこの時代には存在しません。以下の慶應のデジタルアーカイブの参照もよく分からないのですが、東京府などの尋常中学経由共立学校などの進学予備校等から大学予備門入学では?」というコメントアウトを[1]より、こちらへ転記します。
- 「氏は幼にして慶應義塾に入りて研鑽の苦を積み、後ち高等学校を経て法科大学に進み首尾能く卒業して法学士の称号を受く」(慶應義塾出身名流列伝)
- 「曾て慶應義塾に学び、順次高等学校を経て帝国大学法科大学を卒へ、法学士の称号を得」(実業家人名辞典、古林亀治郎編刊、1911年)
慶應義塾幼稚園舎に入ったとすると、年代からみて『慶應義塾入社帳』(福澤諭吉研究センター編、慶應義塾、1986年)に名前が出ているはずですから、図書館で確認できます。1890年1月に慶應義塾に大学部が出来ると、それまでの大学入学直前レベルの英学校であった本来の慶應義塾は「普通部」となります。この後の「普通部」の名称の義塾内での変遷については『慶應義塾百年史』(慶應義塾編刊、1958年-1969年)の通史編に記述があります。もともとの加筆者がこの辺を調べてなかったということでしょう。渡辺千冬は、慶應義塾の普通部から第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部へ進んだと理解するのが順当でしょう。近代デジタルライブラリーで明治44年版の『人事興信録』を見てみましたが、法科大学卒業前の経歴は記されていませんでした。--rshiba 2010年4月17日 (土) 13:20 (UTC)