三沢寛一
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三沢寛一 みさわ かんいち | |
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生年月日 | 1882年9月1日 |
出生地 |
日本 長野県上伊那郡沢岡村 (現・長野県伊那市) |
没年月日 | 1968年7月15日(85歳没) |
出身校 | 京都帝国大学法科大学卒業 |
前職 | 福岡県内務部長 |
所属政党 | 無所属 |
称号 | 紀元二千六百年祝典記念章 |
在任期間 | 1937年7月 - 1945年7月 |
官選 第29代 島根県知事 | |
在任期間 | 1931年8月21日 - 1931年12月18日 |
官選 第19代 山形県知事 | |
在任期間 | 1926年9月 - 1927年5月 |
三沢 寛一(みさわ かんいち、1882年(明治15年)9月1日[1] - 1968年(昭和43年)7月15日[2])は、日本の文部・内務官僚、政治家、北海道札幌市長、山形県知事、島根県知事、札幌観光協会長[3]。
来歴・人物
[編集]長野県上伊那郡沢岡村(現伊那市)[4]に三沢八百吉の二男[1]として生まれる。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)[4]、第一高等学校を経て、1907年、京都帝国大学法科大学卒業。1908年11月、文官高等試験行政科試験に合格して文部省(現在の文部科学省)に入省し、専門学務局属となる[5]。
文部省で4年間勤務したのち、東北帝国大学事務官を経て1912年に29歳で東北帝国大学農科大学(のちの北海道大学)の初代事務官に就任(当時の学長は佐藤昌介)。法学講師嘱託もこなした。その後、宮城県理事官、広島県理事官、千葉県警察部長、兵庫県産業部長、宮城県内務部長、愛知県書記官・内務部長、福岡県書記官・内務部長などを歴任[1]。山形県知事[6]、名古屋市助役、島根県知事[7]を歴任。1931年12月18日に島根県知事を休職[8]。1932年2月5日、依願免本官となり退官した[9]。
1937年、札幌市長に就任。1945年、札幌市長を退任した。後任は上原六郎。
市長在任中は1940年開催予定であった札幌オリンピックの開催返上、円山町との合併、札幌飛行場の設置、函館市を抜いて北海道内人口1位を史上初めて達成するなど重要事業を担った。ほかに、札幌観光協会の会長、大日本体育会北海道札幌市支部長などを務めた。
戦後、公職追放を経てから[10]、その後帰郷して、信濃宮奉賛会長となり宗良親王の顕彰を行った[4]。
略歴
[編集]栄典
[編集]- 1940年(昭和15年)11月10日 - 紀元二千六百年祝典記念章[11]
著作
[編集]- 述『教育行政法要義』広島県私立教育会、1916年。
- 編『吏道経典』小山書店、1940年。
- 『天皇制護持論』玄文社、1946年。
- 『国民信念:国家天皇及愛国心』錦正社、1964年。
親族
[編集]出典
[編集]- ^ a b c 『新編日本の歴代知事』197頁。
- ^ a b 『朝日新聞』(東京本社発行)1968年7月16日朝刊、15面の訃報より。
- ^ 札幌観光協会ホームページ
- ^ a b c 『長野県歴史人物大事典』676-677頁。
- ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』192頁。
- ^ 山形県ホームページ 第2代以降の官選知事
- ^ 『新編日本の歴代知事』790頁。
- ^ 『官報』第1493号、昭和6年12月19日。
- ^ 『官報』第1529号、昭和7年2月6日。
- ^ 公職追放の該当事項は「翼賛道支部長」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、345頁。NDLJP:1276156。)
- ^ 『官報』第4445号・付録「辞令二」1941年10月31日。
参考文献
[編集]- 「札幌市史」
- 「新札幌市史」
- 赤羽篤外編『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年。
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。