中村彦次
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中村 彦次(なかむら ひこじ、1840年(天保11年1月)- 1911年(明治44年)11月18日[1])は、明治期の教育者、政治家。衆議院議員、官選島根県知事。名・庸、字・和叔、号・桐蔭、旧姓・鶴田[2]。
経歴
[編集]筑後国上妻郡前津村(現筑後市前津)で、庄屋・鶴田良右衛門の二男として生まれ、後に中村氏を称した。地元の私塾・継志堂で学ぶ。安政4年(1857年)に師・牛島栗斎に随行し8カ月間にわたり山陽から奥羽まで遊歴し見聞を広めた。その後、咸宜園で学んだ[2]。
王政復古後、国事に奔走するなかで、久留米藩に逃れてきた大楽源太郎に同調したため、久留米藩難事件に連座し明治4年(1871年)に禁獄一年の刑を受け名古屋の監獄に収監された[2]。
出獄後に帰郷。1875年4月から1877年12月まで羽犬塚小学校長を務めた。また、有志とともに山内村(現八女市山内)に変則中学中洲校を創立した。1878年10月、郡書記に就任。1887年12月、上妻・下妻郡長となり、1889年2月、生葉・竹野郡長に転じた[2]。
1890年7月、第1回衆議院議員総選挙に福岡県第5区から出馬するも落選。1892年2月の第2回総選挙で当選し、生葉・竹野郡長を依願退職[1][2]。その後、1894年9月、第4回総選挙でも当選し[1]、衆議院議員を二期務めた。1897年4月7日、島根県知事に就任[3]。簸川尋常中学校を設立[4]。1898年4月2日、知事を非職となり[2]、同年12月14日、依願免本官となり退官した[5]。
栄典
[編集]親族
[編集]- 長男 中村雄蔵(衆議院議員)[7]
- 次男 中村秀次郎(北京・筑紫洋行(筑紫弁館)留守居役。義和団の乱北京籠城戦義勇兵、1900年(明治33年)6月25日戦死)[8][9]
- 孫 増永元也(衆議院議員、玄洋社社員)[10]
脚注
[編集]- ^ a b c 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』457頁。
- ^ a b c d e f 『筑後市史』第二巻、63-65頁。
- ^ 『新編日本の歴代知事』781頁。
- ^ 『府県制の沿革と県政の回顧』73頁。
- ^ 『官報』第4639号、明治31年12月15日。
- ^ 『官報』第4172号「叙任及辞令」1897年6月1日。
- ^ 『稿本八女郡史』循吏伝35-37頁。
- ^ 水田栄雄『北京籠城』博文館、明治34-01-26、103頁頁。
- ^ “北京籠城日記”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2021年12月3日閲覧。
- ^ 石瀧豊美『玄洋社・封印された実像』海鳥社、2010年、玄洋社社員名簿58頁。
参考文献
[編集]- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 筑後市史編さん委員会編『筑後市史』第二巻、筑後市、1995年。
- 島根県編『府県制の沿革と県政の回顧』島根県、1940年。
- 福岡県八女郡編『稿本八女郡史』福岡県八女郡、1917年。
- 古賀幸雄監修『目で見る久留米・筑後・八女の100年』郷土出版社、2001年。