高橋権六
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高橋 権六(權六、たかはし ごんろく、1890年(明治23年)12月9日[1] - 1972年(昭和47年)3月4日[2])は、大正から昭和期の実業家・政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]福岡県[2]八女郡、現在の八女市で酒造家の家に生まれる[3]。1918年(大正7年)明治学院普通部を卒業[2][3]。
若いときから院外団に加わった[3]。福岡県会議員に選出され2期在任し[2][3]、同参事会員、八女郡教育会評議員も務めた[2]。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙から1947年(昭和22年)第23回総選挙まで立候補を続けたがいずれも落選[3]。同年の福岡県知事選挙でも落選した[3]。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙(福岡県第3区、無所属)で当選[3][4]。当時の地元新聞に「同情票で勝利」と分析した記事が掲載された[3]。その後の総選挙で2回連続落選し、政界を引退した[3]。
実業界では、八女郡製穀業組合長、福岡県製穀業組合連合会専務理事、八洲土木社長などを務めた[2]。
国政選挙歴
[編集]- 第17回衆議院議員総選挙(福岡県第3区、1930年2月、立憲民政党)落選[5]
- 第20回衆議院議員総選挙(福岡県第3区、1937年4月、中立)落選[6]
- 第22回衆議院議員総選挙(福岡県第1区、1946年4月、無所属)落選[7]
- 第23回衆議院議員総選挙(福岡県第3区、1947年4月、無所属)次点落選[8]
- 第24回衆議院議員総選挙(福岡県第3区、1949年1月、無所属)当選[4]
- 第25回衆議院議員総選挙(福岡県第3区、1952年10月、自由党)落選[9]
- 第26回衆議院議員総選挙(福岡県第3区、1953年4月、無所属)落選[9]