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西村捨三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
西村 捨三
生年月日 1843年8月24日
出生地 日本近江国犬上郡
没年月日 1908年1月14日
出身校 藩校弘道館
称号 大日本帝国憲法発布記念章
勲三等瑞宝章

沖縄県の旗 第4代 沖縄県令
在任期間 1883年 - 1886年

在任期間 1889年 - 1891年

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西村 捨三(にしむら すてぞう、天保14年7月29日1843年8月24日〉 - 明治41年(1908年1月14日)は、日本武士彦根藩)、内務官僚政治家。第4代沖縄県令、第6代官選大阪府知事、初代内務省警保局長などを務めた。

来歴

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彦根藩士。彦根藩作事奉行・西村又次郎の三男。母親は捨三が生まれた翌年に没した[1]

1857年(安政4年)から4年間藩校弘道館で学び、1861年(文久元年)、19歳で江戸に留学した。戊辰戦争では甲州方面、北関東各地を転戦し、流山では近藤勇の捕縛に立ち会う。1872年(明治5年)藩主井伊直憲の欧米巡行に随行する。1876年(明治9年)政府に入り、大久保利通の推挙により内務省奏任御用掛となる。少書記官、権大書記官、大書記官、庶務局長を経て、1881年(明治14年)、内務省警保局長に就任。1883年(明治16年)、沖縄県令に就任。沖縄県令時代には、北大東島南大東島の調査に携わり、両島の日本領土編入に尽力した。1886年(明治19年)、内務省土木局長に就任。河川道路の改修に力を入れる。

1889年(明治22年)、大阪府知事に就任。特別市制が施行されたため、初代大阪市長代行も兼務した[2]コレラの流行や新町の火災、水道建設の要望がおこり、その対応に尽力した。2年強の府知事在任期間には、大阪府立商品陳列所、勝山農学校(現大阪府立大学)の創設、木村長門守表忠碑の建碑などの業績を残した[3]。1891年(明治24年)に第1次松方内閣で農商務次官に就任、1893年3月に退官した[4]

1897年(明治30年)、大阪築港事務所初代所長に就任。同年から開始した大阪築港工事に尽力した。就任から5年後、第一期工事がほぼ完成に向かっているとき、病気のため退職。1908年(明治41年)、66歳で死去した[5]

栄典

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エピソード

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西村捨三銅像絵葉書(大阪市立図書館デジタルアーカイブ

主な著書

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脚注

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  1. ^ 宮本又次他 (1968). 郷土史にかがやく人々. 大阪府、青少年育成大阪府民会議. pp. 110 
  2. ^ 池尻一寛 (1987,11,10). 大阪市の群像第二巻. 関西新聞社. pp. 42 
  3. ^ “大阪築港建設の功労者-西村捨三小伝”. 大阪港 172: P17‐23. (1986). 
  4. ^ 宮本又次 (1968). 郷土史にかがく人々. 大阪府、青少年育成大阪府民会議. pp. 112-113 
  5. ^ 藤本篤 (1984). なにわ人物譜. 清文堂. pp. 180 
  6. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
  7. ^ 『官報』第2701号「叙任及辞令」1892年6月30日。
  8. ^ 谷田啓一 (1986). “大阪築港建設の功労者-西村捨三小伝”. 大阪港 172: p.23. 
公職
先代
石田英吉
日本の旗 農商務次官
1891 - 1893
次代
斎藤修一郎