西村捨三
西村 捨三 | |
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生年月日 | 1843年8月24日 |
出生地 | 日本、近江国犬上郡 |
没年月日 | 1908年1月14日 |
出身校 | 藩校弘道館 |
称号 |
大日本帝国憲法発布記念章 勲三等瑞宝章 |
第4代 沖縄県令 | |
在任期間 | 1883年 - 1886年 |
第6代 大阪府知事 | |
在任期間 | 1889年 - 1891年 |
西村 捨三(にしむら すてぞう、天保14年7月29日〈1843年8月24日〉 - 明治41年(1908年)1月14日)は、日本の武士(彦根藩)、内務官僚、政治家。第4代沖縄県令、第6代官選大阪府知事、初代内務省警保局長などを務めた。
来歴
[編集]彦根藩士。彦根藩作事奉行・西村又次郎の三男。母親は捨三が生まれた翌年に没した[1]。
1857年(安政4年)から4年間藩校弘道館で学び、1861年(文久元年)、19歳で江戸に留学した。戊辰戦争では甲州方面、北関東各地を転戦し、流山では近藤勇の捕縛に立ち会う。1872年(明治5年)藩主井伊直憲の欧米巡行に随行する。1876年(明治9年)政府に入り、大久保利通の推挙により内務省奏任御用掛となる。少書記官、権大書記官、大書記官、庶務局長を経て、1881年(明治14年)、内務省警保局長に就任。1883年(明治16年)、沖縄県令に就任。沖縄県令時代には、北大東島、南大東島の調査に携わり、両島の日本領土編入に尽力した。1886年(明治19年)、内務省土木局長に就任。河川道路の改修に力を入れる。
1889年(明治22年)、大阪府知事に就任。特別市制が施行されたため、初代大阪市長代行も兼務した[2]。コレラの流行や新町の火災、水道建設の要望がおこり、その対応に尽力した。2年強の府知事在任期間には、大阪府立商品陳列所、勝山農学校(現大阪府立大学)の創設、木村長門守表忠碑の建碑などの業績を残した[3]。1891年(明治24年)に第1次松方内閣で農商務次官に就任、1893年3月に退官した[4]。
1897年(明治30年)、大阪築港事務所初代所長に就任。同年から開始した大阪築港工事に尽力した。就任から5年後、第一期工事がほぼ完成に向かっているとき、病気のため退職。1908年(明治41年)、66歳で死去した[5]。
栄典
[編集]エピソード
[編集]- 大久保利通と親交が深く、大久保が紀尾井坂の変で暗殺された後、金井之恭、奈良原繁らとともに、紀尾井坂に「贈右大臣大久保公哀悼碑」を建立した。
- 大東義徹らとともに近江鉄道の設立に深く関与し、設立後取締役を務めた。また、北海道炭礦鉄道社長でもあった。
- 四条畷神社の創建に関係し、京都の平安遷都千百年紀念祭の時代行列(時代祭)の創出、住吉神社の古神事「宝の市」の再興など、祭礼の近代化に貢献し、偉人の顕彰・建碑にも熱心だった。
- 死後従三位勲二等瑞宝章に叙せられた。
- 画家の柳原良平はひ孫にあたる。
- 大阪市港区の天保山公園に「西村捨三翁像」が建立されている。
- 明治天皇の覚えもめでたく、「捨三」と呼ばれていた。
- 西村捨三が亡くなった時、朝日新聞主筆だった西村天囚は「衣冠の俠客 酔処翁を送る」という追悼文を寄せた[8]。
主な著書
[編集]- 『治水汎論』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 「内地沖縄支那朝鮮図」
- 『御祭草紙』(口述)(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 大植寿栄一/編『西村捨三翁小伝』
脚注
[編集]- ^ 宮本又次他 (1968). 郷土史にかがやく人々. 大阪府、青少年育成大阪府民会議. pp. 110
- ^ 池尻一寛 (1987,11,10). 大阪市の群像第二巻. 関西新聞社. pp. 42
- ^ “大阪築港建設の功労者-西村捨三小伝”. 大阪港 172: P17‐23. (1986).
- ^ 宮本又次 (1968). 郷土史にかがく人々. 大阪府、青少年育成大阪府民会議. pp. 112-113
- ^ 藤本篤 (1984). なにわ人物譜. 清文堂. pp. 180
- ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
- ^ 『官報』第2701号「叙任及辞令」1892年6月30日。
- ^ 谷田啓一 (1986). “大阪築港建設の功労者-西村捨三小伝”. 大阪港 172: p.23.
公職 | ||
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先代 石田英吉 |
農商務次官 1891 - 1893 |
次代 斎藤修一郎 |