石坂豊一
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石坂豊一 いしさか とよかず | |
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生年月日 | 1874年5月3日 |
出生地 |
日本 富山県新川郡大崎野村 (現・富山県滑川市) |
没年月日 | 1970年5月5日(96歳没) |
出身校 |
富山県尋常中学校卒業 (現・富山県立富山高等学校) |
前職 | 樺太庁長官官房主事兼地方課長 |
所属政党 |
(無所属→) (立憲政友会→) (日本自由党→) (自由党→) (日本民主党→) 自由民主党 |
称号 |
従三位 勲一等瑞宝章 |
子女 | 長男・石坂修一 |
選挙区 | 富山県選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1947年5月3日 - 1959年5月2日 |
選挙区 |
(富山県第3選挙区→) 富山県第1選挙区 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 |
1924年5月10日 - 1930年1月21日 1932年2月20日 - 1937年3月31日 1939年5月10日 - 1942年4月29日 |
在任期間 | 1944年3月1日 - 1946年12月4日 |
石坂 豊一(石坂 豐一[1]、いしさか とよかず、1874年(明治7年)5月3日[2] - 1970年(昭和45年)5月5日)は、日本の政治家。富山市長、衆議院議員(5期)、参議院議員(2期)。
経歴
[編集]1874年富山県新川郡大崎野村(現・滑川市大崎野)に10人兄弟の末っ子として生まれる。中学進学は家計上困難だったが、姉の力添えで1892年に富山県尋常中学校(現・富山県立富山高等学校)を卒業。同期に山田孝雄。税関監吏補試験に合格して神戸税関に勤務しながら京都の同志社で学ぶ。1897年に中退して帰郷し、郡書記、富山県属、婦負郡長などを務め、上司だった永井金次郎が樺太庁長官に就任したのを機に招聘され、樺太庁長官官房主事兼地方課長を歴任する。
1924年の第15回衆議院議員総選挙に富山1区から立候補して初当選。以来通算5期務める。立憲政友会総務、斎藤内閣文部参与官など務めるが、1942年の翼賛選挙では非推薦となったため落選した。落選後の1944年富山市長に就任。富山空襲からの復興に尽力した。
戦後の1947年の第1回参議院議員通常選挙で富山県選挙区から自由党公認で立候補して当選、2期務めた。1959年に引退。1964年春の叙勲で勲一等瑞宝章受章(勲二等からの昇叙)[3][4]。1970年5月5日死去、96歳。死没日をもって正五位から従三位に叙され、銀杯一組を賜った[1]。
最高裁判事を務めた石坂修一は息子[3]。孫には工業技術院長の石坂誠一[3]、インテック社長の金岡幸二がいる。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』(衆議院、1990年)
公職 | ||
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先代 森勇 |
富山県(旧)富山市長 1944年 - 1946年 |
次代 尾山三郎 |
議会 | ||
先代 中川幸平 |
参議院懲罰委員長 1956年 |
次代 河合義一 |
先代 新設 |
参議院建設委員長 1948年 - 1950年 |
次代 中川幸平 |
先代 山本慎平 |
衆議院請願委員長 | 次代 坂東幸太郎 |
名誉職 | ||
先代 宇垣一成 |
最年長参議院議員 1956年4月 - 1959年5月 |
次代 一松定吉 |