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原脩次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
原脩次郎
はら しゅうじろう
生年月日 1871年7月1日明治4年5月14日
出生地 日本の旗 日本京都府綾部町(現・綾部市
没年月日 (1934-03-06) 1934年3月6日(62歳没)
出身校 東京法学院中退
前職 実業家
所属政党立憲国民党→)
立憲同志会→)
憲政会→)
立憲民政党
称号 勲二等瑞宝章
親族 原彪(長男・土浦市長、衆議院議員)

日本の旗 第9代 鉄道大臣
内閣 第2次若槻内閣
在任期間 1931年9月10日 - 1931年12月13日

日本の旗 第3代 拓務大臣
内閣 第2次若槻内閣
在任期間 1931年4月14日 - 1931年9月10日

選挙区 (茨城県郡部第4区→)
(茨城県郡部第7区→)
(茨城県郡部第8区→)
(茨城県第6区→)
茨城県第3区
当選回数 6回
在任期間 1912年5月15日 - 1920年5月10日
1924年5月10日 - 1932年2月20日
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大礼服の原

原 脩次郎(はら しゅうじろう、1871年7月1日明治4年〉5月14日 - 1934年昭和9年〉3月6日)は、明治から昭和期の実業家政治家衆議院議員拓務大臣鉄道大臣

経歴

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現在の京都府綾部市で原虎好の二男として生まれる。1884年(明治17年)3月に綾部小学校を卒業し、その後、1886年(明治19年)まで代用教員を務める。1892年(明治25年)、弁護士事務所に入り、1893年(明治26年)、東京法学院に入学するも後に退学。

1896年(明治29年)、台湾新竹法院雇となり、裁判官心得に進む。1901年(明治34年)6月、台南県弁務署長に就任。同年11月、台湾総督府警視・保安課長に就任し、1904年(明治37年)12月に退職した。

その後、実業家に転じ、1906年(明治39年)12月、台湾東部拓殖支配人となる。1910年(明治43年)8月、台東拓殖合資会社を設立し代表社員に就任。さらに、台東拓殖製糖株式会社取締役花蓮港電気株式会社社長などを務めた。

政界にも進出し、妻の実家のある茨城県から1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙に出馬し当選。1920年大正9年)の総選挙で一度落選するものの1924年(大正13年)の総選挙で返り咲き、1932年(昭和7年)2月の総選挙で落選するまで6回の当選を果たした。

1931年(昭和6年)4月、第2次若槻内閣の拓務大臣に就任。同年9月、鉄道大臣に異動し、同年12月に内閣総辞職となるまで在任。その他、立憲民政党総務、顧問を務めた。

家族

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栄典

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伝記

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  • 富岡福寿郎『原脩次郎先生』弘文社、1935年。

脚注

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  1. ^ 内田藤雄 歴史が眠る多磨霊園
  2. ^ 『官報』第1310号「叙任及辞令」1931年5月15日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度七十年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1962年。
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。


公職
先代
松田源治
日本の旗 拓務大臣
第3代:1931 - 1931
次代
若槻禮次郎
先代
江木翼
日本の旗 鉄道大臣
第9代:1931 - 1931
次代
床次竹二郎
先代
坂崎半也
台南県蕃薯藔弁務署長
1901年 - 1901年
次代
廃止