村松愛蔵
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村松 愛蔵 | |
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生年月日 |
1857年3月27日 (安政4年3月2日)[1] |
出生地 | 三河国渥美郡田原村(現愛知県田原市田原町)[1] |
没年月日 | 1939年4月11日(82歳没)[1] |
死没地 | 東京市麻布区宮村町[2] |
出身校 | 東京外国語学校露語科[1] |
所属政党 | 恒心社→三陽自由党→公道協会→立憲自由党→立憲政友会[1] |
配偶者 | きみ(旧姓・清水)[3] |
選挙区 | 愛知県郡部[1] |
当選回数 | 4[1] |
村松 愛蔵(むらまつ あいぞう、安政4年3月2日(1857年3月27日) - 昭和14年(1939年)4月11日)は、日本の政治家、キリスト教伝道者、社会事業家[1]。
来歴
[編集]藩校成章館(現愛知県立成章高等学校)で伊藤鳳山から儒学を学ぶ。16歳で上京。東京外国語学校ロシア語学科に入学。レフ・メーチニコフの門下生となる[4]。板垣退助の思想に影響を受け、帰郷後、鈴木孝之助、広中鹿次郎たちと「恒心社」を結成[5]。
自由民権運動に加わり、私擬憲法「日本国憲法草案」を起草、愛岐日報に発表した[6]。飯田事件により投獄されたが、1889年大赦により出獄した[7]。
下宿先の娘きみと結婚後、1894年(明治27年)自由党から衆議院選挙に立候補するが落選。1898年に初当選し衆議院議員を4期務めた[1][5]。日本製糖汚職事件により1909年に政界を引退[7]、しかし村松は献金の出所を知らなかったという[5]。これにより勲四等を褫奪された[8]。服役中にキリスト教徒である妻のきみより差し入れられた聖書を読みキリスト教に回心する[5]。翌1910年に救世軍に入ってキリスト教の伝道や社会事業に携わった[1]。田原市立田原中部小学校校庭付近に、生誕の屋敷跡を示す立札がある[9]。墓所は城宝寺にあり、渡邉崋山の墓と隣接している[5]。ほか多磨霊園の救世軍士官墓地にも墓碑銘がある。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 吉川弘文館 1992, p. 684.
- ^ 教育委員会 1978, p. 860.
- ^ 教育委員会 1978, p. 851.
- ^ 渡辺雅司「土着的革命としての明治維新 : メーチニコフの日本観の先駆性」『総合文化研究』 2009年 12号 p.6-29, 東京外国語大学総合文化研究所
- ^ a b c d e “民衆の自由の獲得と愛に生きた人 村松愛蔵”. (公財)愛知教育文化振興会 (2017年7月3日). 2019年5月16日閲覧。
- ^ 教育委員会 1978, p. 841-842.
- ^ a b “村松 愛蔵(むらまつあいぞう)―自由民権運動の指導者―”. www.apec.aichi-c.ed.jp. 2019年4月18日閲覧。
- ^ 官報 1909年09月21日 三六五頁
- ^ 教育委員会 1978, p. 840.
参考文献
[編集]- 国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典 第13巻』吉川弘文館、1992年。ISBN 4-642-00513-7。
- 田原町文化財保護審議会・田原町史編さん委員会 編集『田原町史 下巻』田原町 田原町教育委員会、1978年。
- 小澤耕一 著『村松愛蔵 回天の志士』村松愛蔵のつどい、1987年。
- 河合光治 編『村松愛蔵研究 代議士より救世軍士官に』不明、1990年。