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大神田軍治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大神田軍治
おおかんだ ぐんじ
生年月日 1883年7月30日
出生地 日本の旗 日本 山梨県北都留郡巌村
(現・山梨県上野原市
没年月日 (1943-01-24) 1943年1月24日(59歳没)
所属政党 立憲民政党

選挙区 東京1区
当選回数 2回
在任期間 1932年2月20日 - 1936年1月21日
1942年4月30日 - 1943年1月24日

東京府会議員


東京市会議員

芝区会議員
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大神田 軍治(おおかんだ ぐんじ、1883年明治16年)7月30日[1] - 1943年昭和18年)1月24日[2])は、日本の政治家衆議院議員(2期)。

経歴

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山梨県北都留郡巌村[3]上野原町[4]を経て現上野原市)出身[注釈 1]。籍文学舎で漢学を学んだ[2][3]

芝区会議員[2]東京市会議員[2]、同参事会員、同議長[2]東京府会議員、同参事会員、帝都復興委員長などを経て[2]1932年(昭和7年)の第18回衆議院議員総選挙で東京1区(当時)から立憲民政党公認で立候補して初当選。 同年の東京府会市部会の正副議長選挙では、三木武吉が推薦した者を押しのける形で大神田が推薦した立候補者が当選したため、三木との間で激論を繰り広げた[5]

1934年(昭和9年)、第2次東京市会疑獄(瓦斯疑獄・市会議長選挙買収事件・市長選挙買収事件)により東京地方裁判所で懲役1年2ヵ月・追徴金6500円の判決を[6]、翌年の控訴審で懲役10ヵ月・追徴金3500円の判決を受け[7]1936年(昭和11年)の大審院判決で刑が確定[8]。これにより帝都復興記念章大礼記念章(昭和)を褫奪された[9]。同年の第19回衆議院議員総選挙で落選した。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では非推薦で立候補して当選。在職中の翌1943年(昭和18年)に死去した。

栄典

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著作

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  • 『日本はどうなる』国策協会、1939年。
  • 『日本はどうなる』第2輯、国策協会、1941年。
  • 『世紀の決戦 : 日本はどう発展するか』五車貿易出版部、1942年。

脚注

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注釈

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  1. ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』123頁では神奈川県出身。

出典

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  1. ^ 衆議院『第六十八回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1935年、1頁。
  2. ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』123-124頁。
  3. ^ a b 『翼賛議員銘鑑』82頁。
  4. ^ 『甲州古今人物辞書』79頁。
  5. ^ 三木武吉が脱党、東京支部内の紛争で『大阪毎日新聞』昭和7年8月3日(『昭和ニュース事典第3巻 昭和6年-昭和7年』本編p720 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  6. ^ 『昭和10年度版 時事年鑑』時事新報社、1934年、p.403
  7. ^ 『昭和11年度版 時事年鑑』時事新報社、1934年、p.405
  8. ^ 『昭和12年度版 時事年鑑』時事新報社、1936年、p.396
  9. ^ 官報 1937年02月03日 六九頁
  10. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。

参考文献

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  • 川手秀一編『甲州古今人物辞書』山梨協会本部、1938年。
  • 『翼賛議員銘鑑』議会新聞社、1943年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 院内会派編衆議院の部』大蔵省印刷局、1990年。