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中川寛治

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中川寛治

中川 寛治(なかがわ かんじ、1897年明治30年)3月11日[1] - 1984年昭和59年)11月29日[1][2][3])は、大正から昭和期の実業家政治家衆議院議員富山県下新川郡泊町

経歴

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富山県[2][3]下新川郡泊町[1][4](現朝日町[1])で、綿商人・中川屋、中川彦吉[注 1]の長男として生まれる[1][5]。1909年(明治42年)家督を相続した[5]。1919年(大正8年)早稲田大学政治経済科を卒業した[1][2][3][4]。三菱海上保険会社に入社したが、1926年(大正15年)に退職して帰郷し農業を営む[1][5]

また、黒東銀行取締役、泊銀行取締役、泊通運取締役、泊郵便局長などを務めた[1][3]。1939年(昭和14年)9月、立憲民政党公認で富山県会議員に選出され、1期約3年間在任し、同副議長も務めた[1][3]。1939年、初代泊町警防団長に就任した[1][3]

1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙翼賛政治体制協議会の推薦を受け富山県第1区から出馬して当選し[1][2][4]、衆議院議員に1期在任した[3]。この間、大政翼賛会富山県支部常務委員、同理事、同協力会議員、同支部庶務部長、泊産業組合長、翼賛政治会政調文部・厚生兼務委員などを務めた[4]。1945年(昭和20年)3月、泊町長に就任し1946年(昭和21年)5月まで在任し戦後の復興に努めた[1][2]。1945年12月、日本進歩党の結成に参画し富山県支部幹部に就任[1][3]。その後、公職追放となった[6]

戦後は、三共運輸運輸取締役、泊タクシー社長、黒東土建工業社長、小川温泉社長、同会長、富山県人事委員会委員長などを務めた[1][2][3]

親族

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  • 母 中川すけ(中川周三郎長女)[5]

脚注

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注釈

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  1. ^ 彦吉は泊町肝煎を世襲する金森家から中川家に入籍した。『富山大百科事典 下巻』513頁。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『富山大百科事典 下巻』513頁。
  2. ^ a b c d e f 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』431頁。
  3. ^ a b c d e f g h i 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』439-440頁。
  4. ^ a b c d 『翼賛議員銘鑑』276頁。
  5. ^ a b c d 『人事興信録 第13版 下』ナ23頁。
  6. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、401頁。公職追放の該当事項は「推薦議員」。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年。
  • 『翼賛議員銘鑑』議会新聞社、1943年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『富山大百科事典 下巻』北日本新聞社、1994年。
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。

関連項目

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