長内健栄
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長内健栄 おさない けんえい | |
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生年月日 | 1886年8月18日 |
出生地 |
日本 青森県南津軽郡大光寺村 (現・青森県平川市) |
没年月日 | 1961年12月10日(75歳没) |
出身校 | 早稲田大学政治経済科 |
所属政党 |
(立憲民政党→) (無所属→) (翼賛政治会→) (大日本政治会→) (日本進歩党→) 自由党 |
親族 | 父・長内建美(大光寺村長) |
選挙区 | 青森県第2区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1942年 - 1945年12月18日 |
大光寺村会議員 | |
在任期間 | 1914年 - ? |
長内 健栄(おさない けんえい、1886年〈明治19年〉8月18日[1] - 1961年〈昭和36年〉12月10日[2])は、日本の政治家、農業経営者[2]。衆議院議員、大光寺村長。
経歴
[編集]青森県南津軽郡大光寺村(現平川市)で、初代大光寺村長・長内建美の長男として生まれる[3][4]。東奥義塾3年時に東京の錦城中学校に転じ、1909年(明治42年)、早稲田大学政治経済科を卒業した[2][3]。
その後帰郷して、1914年(大正3年)、大光寺村会議員に当選[3]。その後、大光寺村長、消防組頭、青森県会議員を歴任[2][3]。立憲政友会支持一色であった大光寺村において、立憲民政党に入党し、同党南津軽郡分所幹事、同青森県支部幹事を務めた[3]。
1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に青森県第2区から翼賛政治体制協議会(翼協)の推薦を受けずに出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた[2][3]。当選後は翼賛政治会に所属した[5][注釈 1]。この間、濁酒づくりの公認を求めて有名となった[3]。のち、自由党青森県第一支部長を務めた[2]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 衆議院『第八十回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1942年、20頁。
- ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』156頁。
- ^ a b c d e f g 『青森県人名事典』118頁。
- ^ 人事興信所編『人事興信録』第14版 上、オ257頁。
- ^ 『衆議院議員党籍録 第1回帝国議会~第92回帝国議会 224コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『衆議院議員党籍録 第1回帝国議会~第92回帝国議会 244コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『衆議院議員党籍録 第1回帝国議会~第92回帝国議会 249コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
参考文献
[編集]- 東奥日報社編『青森県人名事典』東奥日報社、2002年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『翼賛議員銘鑑』議会新聞社、1943年。
- 人事興信所編『人事興信録』第14版 上、1943年。