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河野金昇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
河野金昇

河野 金昇(こうの きんしょう、1910年2月1日[1] - 1958年3月29日[2])は、日本の政治家愛知県選出の衆議院議員海部俊樹の師匠として知られている。

経歴

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東京都出身[2]。幼少時に足を負傷し、治療が不十分であったために障害が残った。金昇の親は、障害者となった息子を不憫に思い、兄弟の中で金昇だけを大学に進学させてあげたという。1933年昭和8年)早稲田大学専門部を卒業する。その後、政治を志し、大学の先輩に当たる中野正剛の門下となり、中野が主宰する東方会に入る。1942年(昭和17年)の総選挙(いわゆる翼賛選挙)において地元愛知県から東方会(翼協非推薦)で立候補するが、落選した[3]1943年(昭和18年)中野が東條英機内閣を「戦時宰相論」で批判すると、10月に東方会の同志共々、特高に検挙され、中野は自刃するという悲運に見舞われた。

戦後、東久邇宮内閣の嘱託を経て[2]、1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙愛知県第1区から無所属で立候補し、当選する(のち選挙区は愛知県第3区)。以後当選6回。所属会派は無所属倶楽部[4]協同民主党[5]国民協同党[6]→新政治協議会[7]→国民協同党[8]国民民主党[9]改進党[10]日本民主党[11]1955年(昭和30年)の保守合同で、自由民主党三木派に参加。中野譲りの剛直で清廉潔白な正義感として知られ、自宅は、地元の一宮市の工場の2階を借り、終生借家住まいの代議士であった。大臣顕官には就かなかったが、清貧と情熱に惚れ込む支持者が多かったという。

この間、協同民主党遊説部長、国民協同党中小企業部長、国民民主党副幹事長、党務局長、改進党副幹事長、日本民主党総務を務め[2]、国会内では衆議院海外同胞引揚に関する特別委員長となり[2]第二次鳩山内閣運輸政務次官に就任した[2]

1958年(昭和33年)3月29日に急死。妻・河野孝子が一期務め、その後、河野の秘書であった海部俊樹が跡を継いだ[12]

脚注

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  1. ^ 衆議院『第九十回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1946年、14頁。
  2. ^ a b c d e f 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』258頁。
  3. ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』128頁。
  4. ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』521頁。
  5. ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』523頁。
  6. ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』539頁。
  7. ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』583頁。
  8. ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』589頁。
  9. ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』590頁。
  10. ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』606頁。
  11. ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』639頁。
  12. ^ 『政治とカネ 海部俊樹回顧録』海部俊樹著 2010年 新潮社

参考文献

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  • 日本国政調査会編『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』国政出版室、1977年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 院内会派編衆議院の部』大蔵省印刷局、1990年。
議会
先代
天野久
日本の旗 衆議院海外同胞引揚に関する特別委員長 次代
若林義孝