江藤源九郎
江藤 源九郎(えとう げんくろう、1879年(明治12年)2月25日 - 1957年(昭和32年)5月3日[1])は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。衆議院議員。
経歴
[編集]東京府神田区で江藤源作(江藤新平の弟)、はま夫妻の二男として生まれる[1][2][注 1]。その後、父の転勤で奈良に移転[2]。奈良県尋常中学校(現奈良県立郡山高等学校)を経て[1]、1899年11月21日、陸軍士官学校(11期)を卒業[3]。1900年6月22日、陸軍歩兵少尉に任官し[3]、歩兵第38連隊付となる[1]。1904年3月から1905年1月まで日露戦争に出征した[1][2]。
以後、参謀本部副官、関東都督副官、台湾歩兵第1連隊大隊長、八代連隊区司令官、新発田連隊区司令官、歩兵第53連隊長、歩兵第38連隊長などを歴任[1][3]。1927年7月26日、陸軍少将に進み第6師団司令部付となり、同年12月15日、予備役に編入された[1][3]。
1932年2月、第18回衆議院議員総選挙で奈良県選挙区から出馬して当選し、その後、第21回総選挙まで連続4回の当選を果たした[4]。
1935年、貴族院で美濃部達吉の天皇機関説が問題になると、衆議院で最初に美濃部攻撃を行い、美濃部を不敬罪で告発[2][5][6]。憲法研究会を結成して機関説攻撃で活躍した[6]。
1937年、戦時思想戦同盟を結成し[6]、同年7月、赤松克麿らと日本革新党を結成し党総務委員長に就任[5][6]。1939年、同党が平沼内閣に反対を表明しながら、江藤が同内閣拓務参与官に就任したことから党内で批判が噴出し、総務委員長を辞任[6]。1942年の第21回総選挙(翼賛選挙)では非推薦であったが当選[6]。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[7]。
その他、帝国傷痍軍人会会長、大日本傷痍軍人会顧問を務めた[4]。
著作
[編集]- 『西園寺・牧野両重臣に与ふ』政治批判社、1933年。
- 『危機将に迫る! : 岡田内閣の正体を見よ!』政治批判社、1934年。
- 『台湾地方自治制即行反対論』政治批判社、1934年。
- 『戦時思想戦の実際 : 社大党の本質を論じ尾崎氏の思想に及ぶ』江藤源九郎、1938年。
親族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 源九郎の娘、鈴木鶴子の著作『江藤新平と明治維新』(朝日新聞社、1989年)338頁では「はじめての男子」。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 臼井勝美・高村直助・鳥海靖・由井正臣編『日本近現代人名辞典』吉川弘文館、2001年。
- 朝日新聞社編『現代日本朝日人物事典』朝日新聞社、1990年。
- 堀幸雄『最新 右翼辞典』柏書房、2006年。ISBN 4760130233