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野田正昇

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野田正昇

野田 正昇(のだ まさのり[1] / せいしょう[2]1876年明治9年)12月21日[3] - 1947年昭和22年)6月11日[1])は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家陸軍軍人衆議院議員、愛知県会議長、愛知県丹羽郡大口村長、陸軍歩兵少尉

経歴

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愛知県[1][4]丹羽郡大屋敷村[2]太田村、大口村を経て現大口町)で、代々庄屋を務めた[5]野田家当主・野田庄右衛門の長男として生まれる[6]。1886年(明治19年)家督を相続した[6]陸軍教導団に入団し日露戦争に従軍[5]。陸軍歩兵少尉に進み[4][5]陸軍幼年学校教官として務め予備役編入となった[5]。1907年(明治40年)早稲田大学専門部法律科を卒業[1][5][注釈 1]して帰郷し[5]、農業を営む[1]

丹羽郡養蚕組合長、同桑苗組合長、同農会長、愛知県養蚕業組合連合会長、同耕地協会副会長などを務めた[1]

政界では、1909年(明治42年)大口村会議員に選出[5]。1912年(明治45年)大口村長に就任し30年間在任した[1][2][5]。1923年(大正12年)9月、愛知県会議員に選出され4期在任し、同参事会員、同議長(2期)も務めた[1][2][5]。また、丹羽郡教育会長、丹羽郡町村長会長、愛知県町村会会長、愛知県教育会副会長、大政翼賛会愛知県協力会議長、愛知県翼賛壮年団副団長などにも在任した[1][4]

1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙翼賛政治体制協議会の推薦を受け愛知県第3区から出馬して当選し[6][7]、衆議院議員に1期在任した[1]。この間、翼賛政治会政調内務委員、同文部兼務委員などを務めた[4]。戦後、日本進歩党に所属し[1]、その後、公職追放となった[8]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『愛知県姓氏歴史人物大辞典』527頁では、早稲田大学法学部。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』491頁。
  2. ^ a b c d 『愛知県姓氏歴史人物大辞典』527頁。
  3. ^ 衆議院『第八十回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1942年、14頁。
  4. ^ a b c d 『翼賛議員銘鑑』311頁。
  5. ^ a b c d e f g h i 『中京名鑑』157頁。
  6. ^ a b c 『人事興信録 第14版 上』ノ17頁。
  7. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第21回』299頁。
  8. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、一般該当者名簿445頁。公職追放の該当事項は「翼壮県協議長」。

参考文献

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  • 『中京名鑑』名古屋毎日新聞社、1932年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第21回』衆議院事務局、1943年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
  • 『翼賛議員銘鑑』議会新聞社、1943年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 愛知県姓氏歴史人物大辞典編纂委員会『愛知県姓氏歴史人物大辞典』角川日本姓氏歴史人物大辞典23、角川書店、1991年。