端山忠左衛門
表示
端山 忠左衛門(はしやま ちゅうざえもん、1845年(弘化2年11月[1][注 1])- 1915年(大正4年)9月21日[1])は、明治時代の政治家、実業家。染色家。新聞経営者。衆議院議員(1期)。幼名は虎次郎[2]。
経歴
[編集]尾張国知多郡、のちの植大村(愛知県知多郡阿久比村を経て現阿久比町)に生まれる[2]。生家は染色業、農業を生業とした[2]。7歳の時、村の蓮慶寺の住職に従い儒学および仏学を修め、のち岡崎の曾我耐軒の高弟伊藤玄甫の門に入り漢籍を修めた[2]。ほか、倫理学、洋学を学んだ[2]。1877年(明治10年)改良染色法を学ぶため大阪の朝陽館に入ったのち、1879年(明治12年)名古屋に染色織工場を建設した[3]。まもなく府県会の創設に伴い愛知県会議員に挙げられ、同議長、常置委員、郡部会議長などを務めた[3]。
1882年(明治15年)9月、議員を辞したのち同志を募り東海新聞社を組織し、愛知新聞社の印刷機を譲り受け東海新聞(毎日新聞中部本社の前身紙のひとつ)を発刊する[4]。ついで翌年の1883年(明治16年)県会補欠選挙で県議に返り咲いた[5]。ほか、阿久比村戸長、同村会議員、南設楽郡長、愛知地方森林会議員、山林会副会頭、尾三水産会評議員、愛知県沿海漁業組合頭取、知多紡績専務取締役などを歴任した[1]。1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では愛知県第7区から出馬し当選[1]。衆議院議員を1期務めた[1]。在職中は巴倶楽部に所属した[1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『日本帝国国会議員正伝』215頁では弘化2年5月生。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 木戸照陽 編『日本帝国国会議員正伝』田中宋栄堂、1890年 。
- 衆議院、参議院 編『議会制度七十年史 第11』大蔵省印刷局、1962年 。