土川弥七郎
土川 弥七郎(つちかわ やしちろう、慶応元年9月5日〈1865年10月24日〉 - 1943年〈昭和18年〉2月26日)は、明治・大正時代に活動した愛知県一宮市の政治家・実業家である。政界では一宮市会議員・初代議長や愛知県会議員・議長を歴任。実業界では一宮銀行・一宮貯蓄銀行頭取や一宮電気初代社長を務めたほか、家業として油商を営んだ。
「弥七郎」の名は父の名を継いだもので、襲名前は「覚太郎」と名乗った。甥に名古屋鉄道(名鉄)社長を務めた土川元夫がいる。
経歴
[編集]慶応元年9月5日(新暦:1865年10月24日)、先代土川弥七郎の長男として生まれた[1]。襲名前の名は覚太郎で、1899年(明治32年)3月家督相続ののち翌年7月名を弥七郎に改めた[1]。土田家は愛知県一宮市(旧・中島郡一宮町)において代々油商を営む家である[2]。天保6年(1835年)生まれの先代弥七郎は株式会社一宮銀行(1881年発足)の初代頭取を務めたほか公職では1890年(明治23年)から翌年にかけて初代一宮町長を務めた[3]。
1901年(明治34年)、父も務めた一宮町会議員に当選した[4]。政界では続いて1903年(明治36年)9月中島郡会議員に当選し、郡会議長として1907年(明治40年)9月まで務めた[5]。さらに同年9月の愛知県会議員選挙では中島郡選挙区から立候補して当選する[6]。党派は立憲政友会で、1911年(明治44年)9月にかけて1期4年のみ務めた[6]。県会では1907年10月から議員任期満了まで議長に任ぜられている[6]。県会議員退任後は一宮町会以外の議員は務めず町政に専念した[2]。
実業界では1904年(明治37年)7月に一宮銀行・一宮貯蓄銀行の取締役に選ばれた[7]。両銀行で頭取を務めたが、1915年(大正4年)5月に両銀行とも愛知銀行へ事業譲渡して消滅している[4]。この間、佐分慎一郎らとガス会社一宮瓦斯(1909年設立・後の尾州電気)や電力会社一宮電気(1912年設立)を設立し、うち一宮電気では初代社長を務めた[8]。
1921年(大正10年)11月、市制施行に伴う第1回一宮市会議員で市会議員に当選し、初代市会議長に推された[9]。市会議員当選はこの1回のみで、1925年(大正14年)11月の第2回選挙以後再選はされていない[10]。
その他、一宮商工会議所の常議員を1921年の発足から1941年(昭和16年)3月に辞任するまで20年にわたって務めた[11]。1943年(昭和18年)2月26日に死去[4]、77歳没。
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 『人事興信録』第4版、人事興信所、1915年、ツ10頁。NDLJP:1703995
- ^ a b 飯田吉之助 著『一宮市史』巻之下、一の宮新聞社、1924年、252頁。NDLJP:978709
- ^ 『一宮市史』巻之下、47・139-140頁
- ^ a b c 『愛知県議会史』第二巻、愛知県議会事務局、1957年、210-211頁
- ^ 『一宮市史』巻之下、194頁
- ^ a b c 『愛知県議会史』第一巻、愛知県議会事務局、1953年、53・483頁
- ^ 「商業登記」『官報』第6321号、1904年7月26日。NDLJP:2949640/11
- ^ 『一宮市史』巻之下、145-151頁
- ^ 『一宮市史』巻之下、199-203頁
- ^ 『一宮市史』上巻、一宮市役所、1939年、336-337頁。NDLJP:1261399
- ^ 『一宮商工会議所二十一年史』、一宮商工会議所、1943年、261頁。NDLJP:1067813
- ^ 「ストのない名鉄 土川社長大いに語る」『実業の世界』第59巻第6号、実業之世界社、1962年6月、89-94頁。NDLJP:2272992/53