今井嘉幸
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今井 嘉幸(いまい よしゆき、1878年(明治11年)5月25日[1] - 1951年(昭和26年)6月30日[2])は、衆議院議員[3]、弁護士[3][4]。法学博士[3][4]。
経歴
[編集]愛媛県周桑郡小松町南川(現在の西条市)生まれ[1]。今井角次の二男[4]。1897年に愛媛県立松山中学校[5]を、1900年に第一高等学校[6]を卒業し、1904年7月に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した[7]。さらに同大学院で国際法を専攻[8]。修了後、東京地方裁判所判事[9][10]に任命された。1908年、清の招聘[11]で判事在職のまま天津の北洋法政学堂で司法制度を教授した[1]。
1914年、帰国して判事を退官し[12]、大阪で弁護士の業務に就く[13]。同年12月24日に法学博士の学位を授与された[14]。
→「Category:法学博士取得者」を参照
1916年、中華民国での護国戦争に際し、雲南軍政府の招きで軍務院の顧問に就任した[1]。
1917年の第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした[15]。普選運動に加わり[16]、「普選博士」と呼ばれたという[17]。1918年には吉野作造らと黎明会の結成にも関わった[18]。その後は社会大衆党の顧問を務めた[19]。
1942年の第21回衆議院議員総選挙で再び議員に返り咲いた[20]。
人物
[編集]趣味は俳句、柔道、水泳[1]、南画[4]。住所は神戸中山手通[3][4]。
家族
[編集]- 今井家
著書
[編集]- 『法典叢書』第1巻・第2巻(東京国民書院、1912年)- 高橋其三・笠井健太郎と共著
- 『支那に於ける列強の競争』(冨山房、1914年)
- 『支那国際法論』(丸善、1915年)
- 『民法学通論』(有斐閣書房、1916年)
- 『普選を中心として - 政治、労働、社会問題の一般的批判』(内外出版、1921年)
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e 『大日本博士録 第1巻』発展社、1921年、pp.法博162-163
- ^ 衆議院・参議院編『議会制度七十年史 衆議院議員名鑑』1962年、pp.60-61
- ^ a b c d 『日本紳士録 第24版』神戸7頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年1月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g 『人事興信録 第12版 上』イ278頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年2月1日閲覧。
- ^ 『愛媛県立松山中学校一覧 明治43年9月』愛媛県立松山中学校、1910年9月、p.78
- ^ 『第一高等学校一覧 自明治33年至明治34年』第一高等学校、1901年、p.198
- ^ 『東京帝国大学一覧 従明治37年至明治38年』東京帝国大学、1907年12月、p.(95)
- ^ 『東京帝国大学一覧 従明治37年至明治38年』東京帝国大学、1907年12月、p.(9)
- ^ 『官報』第7376号、明治41年1月31日、p.531
- ^ 『職員録 明治39年(甲)』印刷局、〔1906年〕、p.362
- ^ 『官報』第7393号、明治41年2月21日、p.461
- ^ 『官報』第536号、大正3年5月14日、pp.342-343
- ^ 『日本辯護士名簿 大正15年7月現在 日本弁護士協会録事法曹公論号外』日本辯護士協會、1926年、p.261
- ^ 『官報』第738号、大正4年1月20日、pp.362-363
- ^ 『自第7回至第13回衆議院議員総選挙一覧』衆議院事務局、1918年12月、p.82,
- ^ 弘田勝太郎「關西に於ける普選運動」『普選運動史及普選の心得』而立社、1925年、85-86頁。
- ^ 朝日新聞社神戸支局 1967
- ^ 住谷悦治 1967
- ^ 『社会大衆党報告書. 昭和7・8年度』社会大衆党書記局、1933年12月、p.66
- ^ 『第21回衆議院議員総選挙一覧』衆議院事務局、1943年5月、p.363
- ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、154頁。NDLJP:1276156。