中越義幸
中越 義幸(なかごし[1] / なかごえ[2] よしゆき、1894年(明治27年)9月23日[1][3] - 1978年(昭和53年)3月1日[1][2])は、大正から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員、高知県高岡郡檮原村長、同東津野村長。
経歴
[編集]高知県[2]高岡郡西津野村越知面[1](檮原村[4]を経て現檮原町[1])で、中越義隆、光子の二男として生まれる[1][5]。1915年(大正4年)高知県立農林学校(現高知県立高知農業高等学校)を卒業[2][4]。1921年(大正10年)家督を相続した[5]。農業を営む[3]。
檮原村農会技手に就任[4]。その後青年学校教員となる[4]。檮原村産業組合理事、檮原村信用組合長、高岡郡畜産組合長、高岡郡教育会長、檮原村警防団長、高知県椎茸組合長、高知県森林組合連合会常務理事、同副会長、同県大政翼賛会組織部長、同会事務局長などを務めた[1][2][4][5]。
政界では、1921年5月、檮原村会議員となり1922年(大正11年)7月まで在任[1]。高知県会議員(4期1927-1942)、同参事会員、檮原村助役、檮原村長(1932-1941)、東津野村長(1942-1945)などを務めた[1][2][4]。1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙で高知県第2区に翼賛政治体制協議会推薦で出馬して当選[1][5][6]。のち、日本進歩党に所属し、衆議院議員に1期在任した[2]。この間、翼賛政治会政調文部、農林兼務委員などを務めた[4]。戦後、1947年(昭和22年)に公職追放となった[7]。
追放解除後、檮原教育委員(1952-1955)、高知市議会議員(1967-1971)に在任[1]。その他、高知相互銀行(現・高知銀行)檮原支店長、県教育委員、高知市戦災都市計画復興審議会委員、同都市計画保留地処分審議委員、県農業教育近代化推進委員長、高知市戦災復興審議会長、県老人クラブ連合会長などを務めた[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
- 『翼賛議員銘鑑』議会新聞社、1943年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第21回』衆議院事務局、1943年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『高知県人名事典 新版』高知新聞社、1999年。