藤生安太郎
藤生 安太郎(ふじお やすたろう、1895年(明治28年)8月21日[1] - 1971年(昭和46年)12月7日[1][2])は、大正から昭和期の柔道家、政治家、雑誌編集者。衆議院議員。講道館柔道七段[2][3]。
経歴
[編集]佐賀県[2][3]東松浦郡、のちの唐津市[4]で藤生利太郎の長男として生まれる[1][5]。1898年(明治31年)家督を相続[5]。1918(大正7年)東京外国語学校(現東京外国語大学)支那語科を卒業した[1][2][3]。一年志願兵として入営し、陸軍歩兵伍長となった[4][6]。
その後、新潟県立村上中学校(現新潟県立村上高等学校)、陸軍士官学校、警視庁、東京高等学校、拓殖大学の嘱託教師・柔道師範を務めた[1][2][3][5][7]。この間、北白川宮永久王、竹田宮恒徳王、朝香宮鳩彦王、李王の柔道師範となる[4][6]。
衆議院議長秘書を務め[1][2]、1932年(昭和7年)2月、第18回衆議院議員総選挙に佐賀県第2区から立憲政友会公認で出馬して初当選[1][2][3]。以後、第21回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続4期在任した[1][2]。この間、米内内閣・逓信参与官、逓信省委員、翼賛政治体制協議会政調逓信委員・厚生兼務委員などを務めた[1][2][6]。1938年(昭和13年)武道振興に関する建議案を提出し、国家総動員体制に対応した戦技武道への改編を推進した[3]。また、大日本清風会を設立して専務理事となり、『武道公論』を創刊して国策武道の振興を主張した[3]。
戦後、翼賛政治体制協議会推薦議員のため公職追放となった[3][8]。追放解除後、佐賀県全県区から第25回、第26回、第27回総選挙に立候補したがいずれも落選した[9]。その他、国政審議調査会理事長となり月刊雑誌『道義』を主宰し、日本地熱調査会常務理事、国際発明社長、観光審議会委員なども務めた[2]。
著作
[編集]- 『四股をふんで国策へ』大日本清風会、1938年。
- 『武道としての相撲と国策』大日本清風会、1939年。
- 『相撲道の復活と国策』大日本清風会、1939年。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i 『佐賀県大百科事典』720頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』553頁。
- ^ a b c d e f g h 『剣道事典 技術と文化の歴史』365頁。
- ^ a b c 『衆議院議員略歴』312頁。
- ^ a b c 『人事興信録 第11版 下』フ77頁。
- ^ a b c 『翼賛議員銘鑑』347頁。
- ^ 『粛正選挙代議士名鑑』214頁。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、56頁。公職追放の該当事項は「推薦議員」。
- ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』361-362頁。
参考文献
[編集]- 『粛正選挙代議士名鑑』選挙粛正中央会編纂部、1936年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員略歴 第1回乃至第19回』衆議院事務局、1936年。
- 人事興信所編『人事興信録 第11版 下』人事興信所、1937年。
- 『翼賛議員銘鑑』議会新聞社、1943年。
- 『佐賀県大百科事典』佐賀新聞社、1983年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 中村民雄『剣道事典 技術と文化の歴史』島津書房、1994年。
- 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。