第34回衆議院議員総選挙
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第34回衆議院議員総選挙 | |||
---|---|---|---|
内閣 | 三木内閣 | ||
任期満了日 | 1976年(昭和51年)12月9日 | ||
公示日 | 1976年(昭和51年)11月15日 | ||
投票日 | 1976年(昭和51年)12月5日 | ||
選挙制度 | 中選挙区制[注釈 1] | ||
改選数 | 511( 20) | ||
議席内訳 | |||
有権者 | 満20歳以上の日本国民 | ||
有権者数 | 7792万6588人 | ||
投票率 | 73.45%(1.69%) | ||
各党別勢力 | |||
党順 | 第1党 | 第2党 | 第3党 |
画像 | |||
党色 | |||
党名 | 自由民主党 | 日本社会党 | 公明党 |
党首 | 三木武夫 | 成田知巳 | 竹入義勝 |
就任日 | 1974年12月 | 1968年11月 | 1967年2月 |
前回選挙 | 271 | 118 | 29 |
選挙前議席 | 265 | 112 | 30 |
獲得議席 | 249 | 123 | 55 |
増減 | 16 | 11 | 25 |
得票数 | 2365万3626票 | 1171万3009票 | 617万7300票 |
得票率 | 41.78% | 20.69% | 10.91% |
得票率増減 | 5.07% | 1.21% | 2.45% |
党順 | 第4党 | 第5党 | 第6党 |
画像 | |||
党色 | |||
党名 | 民社党 | 日本共産党 | 新自由クラブ |
党首 | 春日一幸 | 宮本顕治 | 河野洋平 |
就任日 | 1971年4月 | 1958年8月 | 1976年6月 |
前回選挙 | 19 | 38 | 新党 |
選挙前議席 | 19 | 39 | 5 |
獲得議席 | 29 | 17 | 17 |
増減 | 10 | 22 | 12 |
得票数 | 355万4076票 | 587万8192票 | 236万3985票 |
得票率 | 6.28% | 10.38% | 4.18% |
得票率増減 | 0.7% | 0.11% | |
選挙状況 | |||
| |||
< 1972年1979年 > | |||
第34回衆議院議員総選挙(だい34かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1976年(昭和51年)12月5日に日本で行われた国会(衆議院)議員の総選挙である。
概説
[編集]戦後初の衆議院議員の任期4年満了に伴う総選挙で、(2024年)現在に至るまで日本国憲法の下で唯一の任期満了による(解散を伴わない)総選挙[注釈 2][注釈 3]でもある。また、各新聞ではロッキード選挙という呼び方が広く使われた。
前回の第33回衆院選は、1972年、田中内閣によって行われた。その後田中角栄首相は金脈問題の政局化を受けて1974年12月に退陣し、1975年からはロッキード事件への田中関与の疑いが表面化した。田中を継いだ三木武夫首相はロッキード事件追及への積極姿勢を示し、田中派のみならずそのライバル福田派も含めた自民党内の大多数から反発を受けた(三木おろし)。
1976年7月27日の田中逮捕の前後には法務大臣の稲葉修(主流派である中曽根派)が軽口を叩いて積極姿勢を見せたため、三木に加えて稲葉に対する田中派の感情的反発も生じた。三木は衆議院解散・総選挙を経ることによる党内指導力回復を画策したが、その意図を封じるため党内は解散阻止の声に満ち、遂に三木は首相が持つ衆議院解散権を封じられたまま衆議院の任期満了を迎えた。
なお、田中内閣は1974年に衆議院での小選挙区比例代表並立制導入を含む公職選挙法改正案(定数520、小選挙区310+都道府県比例代表210)の提出を目指したが、以前に小選挙区制法案を提出した鳩山一郎と同様、カクマンダーという批判を浴びて断念した。その結果、この総選挙も従来通り中選挙区制で行われた。また、大都市部での有権者増加に伴い、定数是正が行われ、総数は491から511へと20議席増加した。
戦後、四国出身の首相が臨んだ衆院選は2022年現在、この選挙と次の第35回衆議院議員総選挙、その次の第36回衆議院議員総選挙(衆参同日選挙)[注釈 4]のみである。
選挙データ
[編集]内閣
[編集]任期満了日
[編集]選挙名
[編集]公示日
[編集]投票日
[編集]改選数
[編集]- 511( 20)
選挙制度
[編集]- 投票方法
-
- 秘密投票、単記投票、1票制
- 選挙権
-
- 満20歳以上の日本国民
- 被選挙権
-
- 満25歳以上の日本国民
- 有権者数
-
- 77,926,588(男性:37,724,016 女性:40,202,572)
同日実施の選挙等
[編集]- 国民投票
選挙活動
[編集]党派別立候補者数
[編集]党派 | 計 | 内訳 | 男性 | 女性 | 公示前 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
前 | 元 | 新 | ||||||
自由民主党 | 319 | 244 | 22 | 53 | 315 | 4 | 265 | |
日本社会党 | 162 | 103 | 17 | 42 | 159 | 3 | 112 | |
公明党 | 84 | 28 | 11 | 45 | 84 | 0 | 30 | |
日本共産党 | 128 | 38 | 0 | 90 | 116 | 12 | 39 | |
民社党 | 51 | 17 | 5 | 29 | 48 | 3 | 19 | |
新自由クラブ | 25 | 5 | 0 | 20 | 25 | 0 | 5 | |
諸派 | 17 | 0 | 2 | 15 | 16 | 1 | 0 | |
無所属 | 113 | 4 | 4 | 105 | 111 | 2 | 4 | |
合計 | 899 | 430 | 61 | 399 | 874 | 25 | 474 | |
出典:『朝日選挙大観』 |
選挙結果
[編集]自民党は反三木派の力が強く、党内が事実上分裂した選挙戦になった。結果、政治腐敗への批判を受けた自民党は敗北し、1955年の結党以来初めて、公認候補の当選者数が衆議院での過半数を割った。実際には保守系無所属議員の追加公認で過半数を確保したが、選挙敗北の責任を取って辞任した三木を継いだ福田赳夫内閣は、1940年代以来の「与野党伯仲国会」の運営を迫られることになった。この総選挙を期に与党自民党出身者が衆議院正副議長を独占する1961年以来の慣行が終わり、野党第1党出身者が副議長に就任することとなった。三木内閣の現職閣僚のうち、農林大臣の大石武一、自治大臣の天野公義、科学技術庁長官の前田正男の3名が議席を失ったほか、衆議院副議長の秋田大助をはじめ、赤城宗徳・小平久雄・黒金泰美・植木庚子郎・大橋武夫・小山長規・野原正勝・有田喜一などの閣僚経験者が落選した。
野党では社会党の議席が増加したが、定数増とロッキード事件の追い風を考えると党内に勝利感はなかった。この選挙で元委員長の佐々木更三・勝間田清一や副委員長の赤松勇・江田三郎、政策審議会長の堀昌雄といった党幹部が落選した。党内では全野党共闘路線を志向する委員長の成田知巳と社公民路線を進める副委員長の江田との間で抗争が激化した。江田はその後社会党を離党して社会市民連合への道を歩んだ。
言論出版妨害事件の影響を受けた前回総選挙で党史上初の大敗を喫した公明党は躍進し、1955年以降では自民・社会両党以外で初めて、予算案の組み替え動議を単独で提出できる51議席を突破した。民社党も前回総選挙の敗北からほぼ回復した。
共産党は逆に敗北し、議席数は前々回並みの水準に戻された。共産党は前回総選挙での躍進で自らが主張する民主連合政権の到来が近づいたと評価したが、社会党に対する共闘拡大の呼びかけはかえって反発を呼び、自共対決への警戒感で保守層の反共意識が目覚めた事、前回はブームに乗って取り込めた反自民の浮動票が新自由クラブに流れた事等が大きく響いた。他の理由として、日本共産党スパイ査問事件が、この年に発行された「日本共産党の研究」や国会などで取り上げられたことが挙げられる。
この総選挙での勝者は新自由クラブだった[独自研究?]。1976年6月に河野らが自民党の政治腐敗体質を批判して離党・結成したこの党は、総選挙前には衆議院議員が5人だったが、清新な保守党のイメージが有権者に強く支持され、改選議席数の3倍を超える当選者を出した。特に首都圏では圧勝で、河野や田川がいる神奈川県では全5選挙区で公認候補が当選した。
ロッキード事件の逮捕者では田中角栄と橋本登美三郎は当選したが、佐藤孝行は落選した。また、灰色高官とされた二階堂進や加藤六月などは当選した。
なお、共産党の敗北に影響され、この選挙での女性当選者は6人にとどまった[注釈 5]。これは、1946年の第22回衆議院議員総選挙で女性参政権が認められて39人が当選して以来、議員数、議席比率(1.2%)ともに最低で、この記録はその後も破られていない[1]。
党派別獲得議席
[編集]党派 | 獲得 議席 |
増減 | 得票数 | 得票率 | 公示前 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
自由民主党 | 249 | 16 | 23,653,626 | 41.78% | 265 | ||||||
日本社会党 | 123 | 11 | 11,713,009 | 20.69% | 112 | ||||||
公明党 | 55 | 25 | 6,177,300 | 10.91% | 30 | ||||||
民社党 | 29 | 10 | 3,554,076 | 6.28% | 19 | ||||||
日本共産党 | 17 | 22 | 5,878,192 | 10.38% | 39 | ||||||
新自由クラブ | 17 | 12 | 2,363,985 | 4.18% | 5 | ||||||
諸派 | 0 | 45,114 | 0.08% | 0 | |||||||
無所属 | 21 | 17 | 3,227,463 | 5.70% | 4 | ||||||
欠員 | 0 | 17 | - | - | 17 | ||||||
総計 | 511 | 20 | 56,612,765 | 100.0% | 491 | ||||||
有効投票数(有効率) | - | - | 56,612,765 | 98.91% | - | ||||||
無効票・白票数(無効率) | - | - | 623,857 | 1.09% | - | ||||||
投票者数(投票率) | - | - | 57,236,622 | 73.45% | - | ||||||
棄権者数(棄権率) | - | - | 20,689,966 | 26.55% | - | ||||||
有権者数 | - | - | 77,926,588 | 100.0% | - | ||||||
出典:総務省統計局 |
- 投票率:73.45%(前回比: 1.69%)
- 【男性:72.81%(前回比: 1.80%) 女性:74.05%(前回比: 1.59%)】
党派別当選者内訳
[編集]党派 | 計 | 内訳 | 男性 | 女性 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|
前 | 元 | 新 | |||||
自由民主党 | 248 | 196 | 19 | 33 | 247 | 1 | |
日本社会党 | 123 | 83 | 12 | 28 | 121 | 2 | |
公明党 | 55 | 25 | 10 | 20 | 55 | 0 | |
民社党 | 29 | 15 | 3 | 11 | 29 | 0 | |
日本共産党 | 17 | 14 | 0 | 3 | 15 | 2 | |
新自由クラブ | 17 | 5 | 0 | 12 | 17 | 0 | |
無所属 | 21 | 3 | 2 | 16 | 20 | 1 | |
合計 | 511 | 342 | 46 | 123 | 505 | 6 | |
出典:『朝日選挙大観』 |
政党
[編集]
|
| |
議員
[編集]当選者
[編集]自民党 社会党 公明党 民社党 共産党 新自由クラブ 無所属
補欠当選等
[編集]年 | 月日 | 選挙区 | 選出 | 新旧別 | 当選者 | 所属党派 | 欠員 | 所属党派 | 欠員事由 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1976 | 12.24 | 千葉3区 | 繰上補充 | 新 | 千葉千代世 | 日本社会党 | 水田三喜男 | 自由民主党 | 1976.12.22死去 |
1977 | 1.21 | 愛知4区 | 繰上補充 | 新 | 稲垣実男 | 自由民主党 | 浦野幸男 | 自由民主党 | 1977.1.16死去 |
- | 広島3区 | (未実施) | 内海清 | 民社党 | 1977.7.1死去 | ||||
福島2区 | (未実施) | 湊徹郎 | 自由民主党 | 1977.7.19死去 | |||||
福井全県区 | (未実施) | 坪川信三 | 自由民主党 | 1977.11.20死去 | |||||
山梨全県区 | (未実施) | 内田常雄 | 自由民主党 | 1977.12.29死去 | |||||
1978 | - | 兵庫2区 | (未実施) | 刀祢館正也 | 新自由クラブ | 1978.1.8死去 | |||
三重1区 | (未実施) | 川崎秀二 | 自由民主党 | 1978.2.22死去 | |||||
茨城3区 | (未実施) | 丹羽喬四郎 | 自由民主党 | 1978.3.30死去 | |||||
富山2区 | (未実施) | 佐野憲治 | 日本社会党 | 1978.4.4死去 | |||||
沖縄全県区 | (未実施) | 西銘順治 | 自由民主党 | 1978.11.14辞職[辞 1] | |||||
広島1区 | (未実施) | 萩原幸雄 | 自由民主党 | 1978.11.29死去 | |||||
1979 | 1.14 | 京都2区 | 補欠選挙 | 元 | 谷垣専一 | 自由民主党 | 山田芳治 | 無所属 | 1978.3.15退職[辞 2] |
新 | 玉置一弥 | 民社党 | 玉置一徳 | 民社党 | 1978.11.26死去 | ||||
- | 埼玉3区 | (未実施) | 鴨田宗一 | 自由民主党 | 1979.2.8死去 | ||||
佐賀全県区 | (未実施) | 保利茂 | 自由民主党 | 1979.3.4死去 | |||||
香川1区 | (未実施) | 成田知巳 | 日本社会党 | 1979.3.9死去 | |||||
岩手1区 | (未実施) | 中村直 | 自由民主党 | 1979.3.14退職[辞 3] | |||||
秋田1区 | (未実施) | 川口大助 | 日本社会党 | 1979.3.14退職[辞 4] | |||||
東京1区 | (未実施) | 麻生良方 | 無所属 | 1979.3.14退職[辞 5] | |||||
栃木1区 | (未実施) | 船田中 | 自由民主党 | 1979.4.12死去 | |||||
福岡1区 | (未実施) | 森田欽二 | 自由民主党 | 1979.4.13死去 | |||||
出典:戦後の補欠選挙 |
初当選
[編集]- 計124名
- ※:参議院議員経験者
- 自由民主党
-
- 34名
- 日本社会党
-
- 28名
- 公明党
-
- 20名
- 民社党
-
- 11名
- 日本共産党
-
- 3名
- 新自由クラブ
-
- 12名
- 無所属
-
- 16名
返り咲き・復帰
[編集]- 計46名
- 自由民主党
-
- 19名
- 日本社会党
-
- 12名
- 公明党
-
- 10名
- 民社党
-
- 3名
- 無所属
-
- 2名
引退
[編集]- 計34名
- 自由民主党
-
- 21名
- 日本社会党
-
- 9名
- 公明党
-
- 2名
- 民社党
-
- 2名
落選
[編集]- 計99名
- 自由民主党
-
- 49名
- 日本社会党
-
- 21名
- 松浦利尚 (宮崎1)
- 公明党
-
- 2名
- 民社党
-
- 2名
- 日本共産党
-
- 24名
- 無所属
-
- 1名
- 佐藤孝行(北海道3)
記録的当選・落選者
[編集]- 最年少当選者 :中村喜四郎(無所属・茨城3区) 27歳7ヶ月
- 最高齢当選者 :船田中(自民・栃木1区) 81歳7ヶ月
- 最多得票当選者 :田川誠一(新自ク・神奈川2区) 203,647票
- 最少得票当選者 :村山達雄(自民・新潟3区) 37,107票
- 最多得票落選者 :多田光雄(共産・北海道1区) 114,840票
- 最多当選 :三木武夫(自民・徳島全県区)15回(連続)、船田中(自民・栃木1区)15回
選挙後
[編集]国会
[編集]- 衆議院議長選挙(1976年12月24日 投票者数:505 過半数:253)
- 保利茂 (自民党) :503票
- 無効 : 2票
- 衆議院副議長選挙(1976年12月24日 投票者数:507 過半数:254)
- 三宅正一(社会党) :505票
- 無効 : 2票
- 内閣総理大臣指名選挙(1976年12月24日)
- 衆議院議決(投票者数:508 過半数:255)
- 内閣総理大臣指名選挙(1978年12月6日)
- 衆議院議決(投票者数:491 過半数:246)
- 衆議院議長選挙(1979年2月1日 投票者数:439 過半数:220)
政党
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 一部(奄美群島選挙区)は改選数1の小選挙区制であった。
- ^ 大日本帝国憲法下では、第7回(1902年)、第10回(1908年)、第11回(1912年)、第21回(1942年)が任期満了に伴う総選挙である。
- ^ 2021年の第49回衆議院議員総選挙は手続き上は衆議院を解散した上で選挙が行われたものの、投票日は当初の議院任期満了日より後となった。また、1967年(第31回)、1990年(第39回)、2000年(第42回)、2009年(第45回)の選挙は、いずれも任期満了が予定されている年に行われた。
- ^ 首相の大平正芳は選挙期間中に死去。
- ^ 内訳は自民党1人(山口シズエ)、社会党2人(土井たか子、金子みつ)、共産党2人(小林政子、藤原ひろ子)、無所属1人(田中美智子=「革新共同」として共産党と統一院内会派)。
当選者注釈
[編集]- 自由民主党
- 日本社会党
- 公明党
- 民社党
- 新自由クラブ
- 社会民主連合
- 無所属
- 辞職
出典
[編集]- ^ “(2) 女性議員数の推移、「平成13年度女性の政策・方針決定参画状況調べ」内”. 内閣府男女共同参画局. 2018年5月20日閲覧。
- ^ 『官報号外』昭和53年12月6日 第86回国会 衆議院会議録第1 p.2。
- ^ 『官報号外』昭和53年3月15日 第84回国会 衆議院会議録第13号 p.3。
- ^ a b c 『官報号外』昭和54年3月15日 第87回国会 衆議院会議録第14号 p.6。
関連項目
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年
- 上条末夫 (1990年3月). “衆議院総選挙における女性候補者” (PDF). 駒沢大学法学部研究紀要. 駒沢大学. 2020年4月2日閲覧。
- 石川真澄・山口二郎著『戦後政治史』岩波新書、2010年
- 神田広樹 (2014年6月). “戦後主要政党の変遷と国会内勢力の推移” (PDF). 国立国会図書館. 2019年10月閲覧。
- 佐藤令 (2005年12月). “戦後の補欠選挙” (PDF). 国立国会図書館. 2016年5月26日閲覧。
外部リンク
[編集]- 衆院選 自民党初の単独過半数割れ - NHK放送史
- 衆議院議員総選挙の定数,立候補者数,選挙当日有権者数,投票者数及び投票率(明治23年~平成17年) - 総務省統計局アーカイブ
- 衆議院議員総選挙の党派別当選者数及び得票数(昭和33年~平成5年) - 総務省統計局アーカイブ