丹羽久章
表示
丹羽 久章 にわ きゅうしょう | |
---|---|
| |
生年月日 | 1914年10月31日 |
出生地 | 愛知県名古屋市 |
没年月日 | 1985年8月23日(70歳没) |
出身校 | 高等小学校 |
所属政党 |
(国民民主党→) (日本民主党→) 自由民主党 |
親族 | 兄・丹羽兵助(衆議院議員) |
選挙区 | 旧愛知1区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 |
1967年1月29日 - 1972年11月13日 1976年12月10日[1] - 1979年9月7日 |
選挙区 | 名古屋市北区選挙区 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1951年4月30日 - 1963年 |
丹羽 久章(にわ きゅうしょう、1914年10月31日[2] - 1985年8月23日)は、日本の政治家。自由民主党所属の元衆議院議員(3期)。元愛知県議会議員(4期)。
衆議院議員を12期務めた丹羽兵助は兄。
経歴
[編集]愛知県名古屋市出身[3]。名古屋市の高等小学校卒業。1951年、愛知県議会議員選挙に名古屋市北区選挙区から立候補し、初当選[4]。愛知県議会副議長、丸久交通社長などを歴任。
1963年11月の第30回衆議院議員総選挙に旧愛知1区から自由民主党公認で立候補したが落選。次の1967年の第31回衆議院議員総選挙で初当選。
1969年に再選。1972年の総選挙では無所属・日本共産党推薦の新人、田中美智子に敗れ落選。1976年、定数が3から4に増えた旧愛知1区で3期目の当選。
この間第1次田中角栄内閣で通商産業政務次官、福田赳夫改造内閣で国土政務次官を歴任した。
1979年の総選挙では公明党新人の柴田弘に敗れ落選。1980年の総選挙に落選。
1983年6月の第13回参議院議員通常選挙で自民党は海部郡選出の吉川博県議を擁立するが、同じ河本派の海部俊樹に担がれて丹羽も党公認で立候補[5]。次々点で落選。同年12月の総選挙では無所属で立候補し落選。引退を決める。
1985年8月23日、死去。70歳没。1986年の第38回衆議院議員総選挙に息子の丹羽章夫が無所属で立候補するが、7,200票(得票率1.6%)で落選した。
脚注
[編集]- ^ 衆議院議員総選挙一覧表衆議院
- ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、950頁。
- ^ “丹羽 久章 (ニワ キュウショウ)”. コトバンク. 2018年12月11日閲覧。
- ^ 『愛知県議会史 第九巻』愛知県議会、1981年3月16日、360頁。
- ^ 『朝日新聞』1989年8月3日付朝刊、22面、「愛知では反主流、江崎氏との確執有名 総裁確実の海部氏【名古屋】」。
参考文献
[編集]- 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
公職 | ||
---|---|---|
先代 佐藤守良 |
国土政務次官 1979年 |
次代 保岡興治 |
先代 稲村佐近四郎 林田悠紀夫 |
通商産業政務次官 安田隆明と共同 1972年 |
次代 塩川正十郎 矢野登 |