コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

北沢直吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
北沢直吉
きたざわ なおきち
生年月日 1901年9月25日
出生地 茨城県筑波郡大穂村大字長高野(現在のつくば市長高野)[1]
没年月日 1981年7月19日
出身校 東京商科大学(現在の一橋大学
プリンストン大学大学院
前職 外務大臣秘書官
所属政党日本自由党→)
民主自由党→)
自由党→)
自由民主党

日本の旗 内閣官房副長官(政務担当)
内閣 石橋内閣
第1次岸内閣
在任期間 1956年12月23日 - 1957年7月10日

選挙区 茨城県第3区 (中選挙区)
当選回数 7回
在任期間 1949年 - 1976年
テンプレートを表示

北沢 直吉 (きたざわ なおきち、1901年9月25日 - 1981年7月19日)は、日本外交官政治家衆議院議員外務省参与内閣官房副長官を務めた。

経歴

[編集]

茨城県筑波郡大穂村大字長高野(現在のつくば市長高野)生まれ。茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)から東京商科大学(現在の一橋大学)に進学し、1925年に卒業すると外務省に入る。入省して直ぐアメリカに赴任しプリンストン大学M.A.の学位を取得(1927年)、斎藤博大使の下で対米交渉の一員として加わるが斎藤大使の死去に伴い帰国する[2]。その後は香港中華民国との和平工作に従事するが、1941年に在中華民国(汪兆銘政権)大使館一等書記官北京総領事となり、1943年にはビルマ大使館参事官として赴任し、ビルマ首相のバー・モウが日本軍の敗走と共に亡命する際に案内役となった。[1][2]

終戦後、外務大臣官房に入り重光葵吉田茂外務大臣の下で秘書官を務めるが、バー・モウ逃亡幇助の容疑で一時期巣鴨拘置所勾留される。1947年の総選挙日本自由党公認で茨城県第3区から出馬するが落選、民主自由党公認で出馬した1949年の総選挙で初当選を果たす。以降3度の落選を挟んで衆議院議員を通算7期、この間石橋内閣第1次岸内閣内閣官房副長官を務める。アメリカとの外交経験のみならずアジアや中東との事情に明るいこともあって吉田茂に重用され、吉田退陣後は佐藤派福田派に属し親台湾派の重鎮として日中国交回復に反対した。また、筑波研究学園都市開発にあたっては地元出身者として反対派や地元関係者との折衝にあたった。

また、1952年から外務省参与を務め[3]中華民国香港タイインドネシアシンガポールセイロンインドパキスタンビルマを訪問するなどした[4]1955年から国土総合開発審議会委員[5]1976年の総選挙に落選し、政界を引退。1980年4月、勲二等旭日重光章を受章。

1981年、死去。

脚注

[編集]
  1. ^ a b 大穂町史編纂委員会 編(1989):324ページ
  2. ^ a b 北朝鮮、イラク問題について一私見(北沢仁)
  3. ^ 官報 本紙 第7796号 584頁
  4. ^ 官報 本紙 第7982号 263頁
  5. ^ 官報 本紙 第8687号 261頁

参考文献

[編集]
  • 大穂町史編纂委員会 編『大穂町史』つくば市大穂地区教育事務所、平成元年3月31日、445pp.
議会
先代
秋田大助
日本の旗 衆議院外務委員長
1968年 - 1970年
次代
田中栄一
先代
永田亮一
日本の旗 衆議院地方行政委員長
1963年
次代
森田重次郎
公職
先代
松本瀧藏
日本の旗 内閣官房副長官(政務担当)
1956年 - 1957年
次代
田中龍夫