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坂井弘一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
坂井 弘一
さかい ひろいち
生年月日 (1929-03-21) 1929年3月21日
出生地 日本の旗 日本和歌山県日高郡南部町(現・みなべ町
没年月日 (2021-11-22) 2021年11月22日(92歳没)
死没地 日本の旗 日本和歌山県海南市
出身校 摂南工業専門学校(現・大阪工業大学電気工学科卒業

選挙区 和歌山県第1選挙区
当選回数 8回
在任期間 1969年 - 1993年

在任期間 1967年 -

選挙区 和歌山市
在任期間 1963年 -
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坂井 弘一(さかい ひろいち、1929年3月21日 - 2021年11月22日)は、日本政治家和歌山県日高郡南部町(現・みなべ町)出身。摂南工業専門学校(現・大阪工業大学電気工学科卒業。元衆議院議員(8期)。

経歴

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1929年3月21日、和歌山県日高郡南部町(現・みなべ町)に生まれる。

1948年、摂南工業専門学校(現・大阪工業大学)電気工学科を卒業する。

1963年和歌山市議会議員選挙に、公明政治連盟から立候補し、当選する。

1967年和歌山県議会議員選挙に立候補し、当選する。県議会議員に転出した。

1969年12月27日第32回衆議院議員総選挙に、和歌山1区から公明党公認候補として立候補し、初当選する(以降、連続8期)。

1976年ロッキード事件が明るみになり公明党内に設置されたロッキード問題調査委員会事務局長に就任。次いで国会内にロッキード問題調査特別委員会が設けられると、委員、理事を務めた[1]

1980年6月22日第36回衆議院議員総選挙に立候補し、当選する。社会党民社党推薦による選挙協力が成立した。

1985年、公明党政策審議副会長に就任し、社会党との社公連合政権構想において公明党の責任者を務める。

1989年5月、公明党国会対策委員長市川雄一の後任として、公明党国会対策委員長に就任する。

1990年11月、公明党国会対策委員長を退任する(後任は、神崎武法が就任)。

1993年7月、第40回衆議院議員総選挙に立候補せず、選挙地盤を公明党公認候補の西博義に譲り、政界を引退する。

1994年、公明党副委員長に就任する。

2021年11月22日16時33分、老衰のため和歌山県海南市の病院で死去[2]。92歳没。

役職歴

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  • 公明党政策審議副会長
  • 公明党国会対策委員長
  • 公明党副委員長

脚注

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  1. ^ 地元に帰れずあせる現職『朝日新聞』1976年(昭和51年)10月26日朝刊、13版、23面
  2. ^ 元公明党衆院議員の坂井弘一氏死去、92歳 - 時事ドットコム 2021年11月22日