コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

中原誠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 中原誠 十六世名人
名前 中原誠
生年月日 (1947-09-02) 1947年9月2日(77歳)
プロ入り年月日 1965年10月1日(18歳)
引退年月日 2009年3月31日(61歳)
棋士番号 92
出身地 宮城県塩釜市[1]
所属 日本将棋連盟(関東)
師匠 高柳敏夫名誉九段
弟子 小倉久史佐藤秀司高野秀行熊坂学甲斐智美
永世称号 十六世名人永世十段永世王位名誉王座永世棋聖
段位 九段
棋士DB 中原誠
戦績
タイトル獲得合計 64期
一般棋戦優勝回数 28回
通算成績 1308勝 782敗 3持将棋
2093対局 (0.6258)
竜王戦最高クラス 1組(18期)
順位戦最高クラス A級(29期)[注釈 1]
テンプレートを表示

中原 誠(なかはら まこと、1947年9月2日 - )は、将棋棋士。2009年3月、引退。十六世名人、および永世十段永世王位名誉王座永世棋聖という5つの永世称号を保持し、かつ、いずれも引退前から名乗る[注釈 2]。通算1308勝は羽生善治大山康晴谷川浩司加藤一二三に次ぎ歴代5位。通算タイトル獲得数64期は羽生、大山に次ぎ歴代3位

棋士番号は92。日本将棋連盟会長(2003年-2004年)。第1回川崎市文化賞受賞(1972年)。塩竈市民栄誉賞(1985年)。鳥取県気高郡鹿野町名誉町民(2004年)。気高郡勝谷村(その後合併して鹿野町、現鳥取市鹿野町宮方)生まれだが、生後1か月で転居した宮城県塩竈市を出身地とする。

戦歴

[編集]

24歳で大山康晴から名人位を奪取し、その後も防衛を続け9連覇。「棋界の(若き)太陽」[注釈 3]と呼ばれた。以後、大山康晴十五世名人の後継者として将棋界に一時代を築き、さらには米長邦雄加藤一二三谷川浩司らと数々の名勝負を繰り広げた。

デビュー・初タイトル

[編集]

初めは塩釜の佐貝正次郎に6枚落ちから丁寧に指導を受け[2]、仙台の石川孟司の指導を受ける[3]。石川の紹介で1956年に五十嵐豊一原田泰夫と対戦し、その他何人かの真剣師と対戦し腕を磨く。1957年9月末に石川の紹介で10歳で上京し、高柳敏夫門下に入門[注釈 4]、兄弟子に芹沢博文がいた。翌1958年4月に奨励会に6級で入会し、13歳、中学2年で初段になる[注釈 5]。三段時代に山田道美主催の山田研究会[注釈 6]に加入、芹沢の芹沢研究会にも加入する。

奨励会時代から将来を嘱望されていたが、プロ入り直前の関門である「三段から四段への壁(奨励会A組、現三段リーグ)」をなかなか乗り越えられずに[注釈 7]6期3年間も足踏みし、人間的にも苦悩したと語っている[注釈 8]。しかし、1965年秋18歳で桐山清澄を東西決定戦で破り、四段になってプロ入り後は、王座戦で3戦目から11連勝し、その後順位戦において4年連続で昇級・昇段を重ねていき、最速でA級八段となった。

1967年度後期、第11期棋聖戦山田道美八段[注釈 9]にタイトル初挑戦し、フルセットの末に敗退する。加藤と並んでの最年少挑戦記録として扱われた[注釈 10]。しかし半年後、1968年度前期の第12期棋聖戦では、強豪[注釈 11]を連破して連続で山田に挑戦すると、3勝1敗で勝利し初のタイトル・棋聖位を獲得する。20歳でのタイトル獲得は、当時大山の持っていた27歳での九段獲得の最年少タイトル獲得の記録を更新する快挙であった。

その後、大山康晴、山田を相手に2期防衛して棋聖3連覇。だが、3度目の防衛戦で内藤国雄に敗れ棋聖を失い無冠となる。

大山康晴に代わり第一人者へ

[編集]

1970年度、十段戦で大山を4-2のスコアで下し、大山の五冠独占の一角を崩す。さらに、直後の後期の第17期棋聖戦(中原3-大山0)でも大山をストレートで破り、初めて二冠となる。続く1971年度前期の第18期棋聖戦(中原3-大山1)で大山を相手に防衛に成功。これで棋聖位獲得通算5期となり、早くも永世称号の保持者となる(2024年に藤井聡太に抜かれるまで、史上最年少記録)。この2つの年度は、タイトルホルダーが大山と中原の2名だけという、まさに二強時代であった。

1971年度、A級2年目の第26期順位戦でA級順位戦史上初めて全勝し名人挑戦権を得て[4]、1972年の第31期名人戦七番勝負(中原4-大山3)で大山と戦う。フルセットの戦いの末に勝利し、棋界の頂点である名人位に初めて就く。この年度は、初めて三冠王となるとともに、大山を無冠に転落させた。なお、この後、大山が名人位に復位することは二度となかった[注釈 12]

ライバル達との対決

[編集]

1973年度からは、米長邦雄加藤一二三内藤國雄ら、大山康晴より若い、同じ世代の棋士達との戦いが主となる。特に、米長とはタイトル戦で数々の死闘を演じた。

1973年、第14期王位戦(中原4-内藤0)で内藤國雄から王位を奪い、初めて四冠王となる。しかし、直後の十段戦で捲土重来を期す大山に奪取される。それから1年間、三冠を防衛した中原は、翌年(1974年度)に十段を奪還して四冠に返り咲く。以降、中原と大山は、それぞれのタイトルを防衛し続け、1974年度から1977年度途中まで、

という構図が続き、中原は防衛戦で同世代のライバル達と当たる。大内延介と戦った1975年の名人戦(中原4-大内3、持1)では、途中2勝3敗となり角番に追い込まれるも、第7局で大内必勝の局面での大内の悪手(107手目▲7一角)に助けられて持将棋に持ち込み、薄氷の逆転防衛をする。翌1976年の第35期名人戦(中原4-米長3)でも防衛に成功して名人5連覇。永世名人十六世名人)の資格を得る。

1977年度後期の第31期棋聖戦(中原3-大山2)で大山からフルセットの末、棋聖を奪取し、大山に次いで史上2人目の五冠王となる。残るタイトルは棋王のみとなり、この年度、第3期棋王戦(中原0-加藤3)で加藤一二三に挑戦したが、ストレートで敗れ、全六冠制覇はならなかった。

その後は中原の相対的な不調と、米長・加藤の充実もあり、彼らとのタイトル戦での対戦は五分に近い成績となりタイトル数は漸減する。加藤一二三と対戦した、1982年度(第40期)名人戦では、持将棋・千日手を合わせて俗に「十番勝負」と呼ばれた名勝負となったが、3勝4敗で名人位を明け渡す。名人連覇は9期で終わった。

次世代との対決

[編集]

1980年代半ばごろからは、谷川浩司55年組高橋道雄中村修南芳一塚田泰明らとのタイトル戦での勝負が主となり、保持するタイトル数が三冠ないしは無冠となっていく。

1985年度、第43期名人戦(中原4-谷川2)で、前々期に史上最年少名人となっていた谷川から名人位を奪取して復位。翌1986年の第44期名人戦では大山が挑戦者の名乗りを挙げたが、中原が防衛(中原4-大山1)。二人がタイトル戦の舞台で顔を合わせたのは、これが最後となった。

1987年度、第35期王座戦(中原2-塚田3)で王座を塚田泰明に奪われ、名人のみの一冠となる。さらには、翌年度(1988年度)、第46期名人戦(中原2-谷川4)で谷川に名人を奪われ、無冠の「前名人」となる。しかし、同年度の第36期王座戦(中原3-塚田0)で塚田から王座を奪還し、後期/第53期棋聖戦(中原3-田中2)では弟弟子である田中寅彦から棋聖を奪い、二冠に復帰。

1990年度、第48期名人戦(中原4-谷川2)で名人を谷川から奪還し、2度目の復位を達成するとともに三冠となる。しかし、前期/第56期棋聖戦(中原2-屋敷3)で屋敷伸之に棋聖位を奪われ、史上最年少タイトル記録達成を許す。さらに第38期王座戦(中原1-谷川3)では谷川に敗れ、名人位のみの一冠となる。

1992年度、第50期名人戦(中原4-高橋3)では高橋道雄の挑戦を受けたが、出だしで1勝3敗を喫してしまう。当時までは名人戦では3連勝で逆転した例はなかったが、そのジンクスを破って防衛した。しかしながら、得意であるはずの矢倉戦となった第1・2・4局ですべて負けたことは話題となった。

1993年、第51期名人戦(中原0-米長4)は、米長邦雄と6度目の名人戦となったが、ストレート負けで初めて米長に名人位を明け渡し、史上最年長名人の記録達成を許すとともに、虎の子の一冠であった名人位を失う。同年度の王将戦では挑戦者となるが、谷川の前に敗れる(中原2-谷川4)。これが、中原にとって最後のタイトル戦登場となった。

1994年のNHK杯戦で、米長との決勝を制して優勝。これが、最後の公式棋戦優勝であった(非公式棋戦では、達人戦において2001年-2002年の連続優勝を含め、4度優勝している)。

2000年度のA級順位戦は、2勝7敗の成績で陥落が決まる。これにより永世名人資格保持者がA級から陥落する史上初の事態となった(後に谷川浩司森内俊之、羽生善治が記録)。A級陥落後はB級1組で2期だけ指した後、フリークラス宣言をし、フリークラスに転出した。永世名人資格者がB級1組で指すのもフリークラスで指すのも前例がないことであった[注釈 13]が、その後も2000年度の竜王戦1組優勝、2003年度の竜王戦挑戦者決定三番勝負進出、2004年の王位リーグ入り、2007年の棋聖戦での挑戦者決定トーナメント進出など、各棋戦の上位に顔を出すことがしばしばあった。

中原と羽生善治のタイトル戦の番勝負はついに実現しなかった。無冠となった後の1994年度前期の第64期棋聖戦では、谷川浩司との挑戦者決定戦に敗れ、羽生棋聖への挑戦権を逃した。同年度の第53期順位戦では7勝2敗の1位タイとなるも、森下卓とのプレーオフに破れ、羽生名人への挑戦権を逃した。1996年度の第22期棋王戦では、挑戦者決定二番勝負で森下卓に敗れ、羽生棋王への挑戦権を逃した。また、森内俊之と戦った2003年度竜王戦決定三番勝負にも1勝2敗で敗れた。結果として、これが羽生とのタイトル戦を実現する最後のチャンスであった。なお、一般棋戦の決勝で羽生と当たったのは、1988年度のNHK杯戦のみである(羽生が名人経験者全4名を破って優勝し、話題となった)。

引退

[編集]

2008年8月12日、王将戦二次予選準決勝で、A級八段の木村一基に勝った後の感想戦の最中に身体に異変を起こし、病院に緊急搬送される。脳内出血と診断され、即、入院となった。その後、2009年3月31日まで休場することが発表された。この休場による最初の不戦敗の相手も木村一基であった[5][6]

その後、棋戦復帰を目指してリハビリを続けていたが回復が思わしくなく、将棋に関わる活動ができないと判断して、同日をもっての引退届を日本将棋連盟に提出。連盟理事会はこれを受理したことを、3月11日に発表[7]2016年5月30日付『日本経済新聞』「私の履歴書」によると、入院中に大腸がんが見つかり、治療に専念するために引退を決断したとしている。

発表当日、中原本人の記者会見[8]が行われた。左の手足に不自由を抱え、右手に杖を持って記者会見場に姿を現した中原であったが、元気そうに、淡々とした口調で「43年という長い期間、タイトル戦など多くの勝負の舞台を踏ませていただき、十分に勝負を堪能した。その点で悔いはない」と述べた。ただし、「悔いがあるとすれば(挑戦を逃した2003年の)竜王戦挑戦者決定戦。羽生さんと一度タイトル戦を戦ってみたかった」ともコメントしている[9][注釈 14]

休場中ではあるが、竜王戦1組在籍のままでの引退である[注釈 15]

引退後の活動について、「棋戦の解説、評論活動を行っていきたい」としている。日本将棋連盟は、多年にわたる中原誠の将棋への功績を評価し、2009年4月1日から70歳の誕生日を迎える2017年まで『名誉棋士会長』を委嘱した[7]。その後、3回目の役員変更となる2011年4月11日に辞退するまで務めた[10]。また2009年より、JR武蔵新城駅そばの「新城子供将棋教室」において、弟子の佐藤秀司と共に不定期にタイトル戦の大盤解説会を開いている。

棋風

[編集]

全盛期は本格派の居飛車党で、「自然流」と称された(「攻めるべき時に攻め、受けるべき時に受ける、まるで大河の流れるような自然な指し回し」原田泰夫)。玉の堅さよりも盤面全体の支配を重視する独特の大局観が特徴で、入玉も得意としていた[11]。また、「桂使いの名手」と言われるほど桂馬の使い方が巧みであり、中原の勝局には桂の好手が現れることが多い。

振り飛車戦の玉頭位取りに代表される様に、理想形を目指しそれを阻止しに来たところを咎める教科書通りの勝ち方が多かった。大山戦での「振り飛車破り」、大内戦での「穴熊破り」、内藤戦での「対空中戦法」と、相手の得意戦法を次々と打ち破った。

1982年度の第40期名人戦で失冠してから棋風が変わり[12]中原流相掛かり横歩取り中原囲い中原流急戦矢倉などの独創的な戦法を編み出した。

1992年度の高橋道雄との第50期名人戦において矢倉戦で1局も勝てずに失冠しかけたころからは、前述の相掛かり、横歩取り中原囲い、短期間ながら名人戦にも採用した中原飛車、後手矢倉において中原流急戦矢倉、対振飛車における6五歩戦法などを用いて勝率を保った。

1996年に中原流相掛かり・中原流横歩取り・中原囲いで升田幸三賞を受賞している。

名人戦では大悪手を二回指している(第31期名人戦第3局対大山戦での▲8五金の見落とし、第48期名人戦第2局対谷川戦の△2五桂打はタダで取られるのをうっかりした)。また第37期名人戦第4局では米長を相手に▲5七銀という歴史的妙手を指して勝っている。

引退前の数年間は「形勢楽観派」の代表的棋士とされ、対戦相手や控え室の棋士たちほとんどが「互角または中原不利」と考えている局面でも、局後の感想では「あの局面では自分が良かったと思う」と語ることが多かった。

人物・エピソード

[編集]

現役のまま永世称号を名乗る

[編集]

1994年、当時の肩書きであった「前名人」を失う際、それまでの実績からして「九段」とは呼べないということで、特例で「十六世名人」を現役のうちから襲位させるかどうか話し合いが行われた。その結果、十六世襲位は見送られたが、代わりに「永世十段」を名乗ることで落ち着いた。

2007年9月2日、還暦を迎えたことにより、規定により「名誉王座」も名乗る。

2007年11月17日(将棋の日)、永世名人資格を取得して30年が経過したのを機に、また、森内俊之が十八世名人の資格を得たことや引退の期日(規定による)をあと数年に控えていることもあり、理事会が十六世名人襲位を提案し本人が了承。前倒しで現役のまま襲位した[注釈 16][13]。1993年に無冠となってから、実に14年後のことであった。

2008年4月1日、60歳となってからの新しい年度を迎えた際には新たに「永世棋聖」「永世王位」を名乗ることとなった。永世王位を名乗る棋士は中原が初めて。

なお、十六世名人襲位後の公式戦は、襲位翌年に病気休場で引退したため、16局8勝8敗(この他、休場不戦敗で5敗)に終わったが、名人在位者との対局は、2007年度が森内俊之名人、2008年度は羽生善治名人が各1局行われ、いずれも中原が十六世名人としての勝利を挙げている。

2024年7月1日、藤井聡太棋聖(21)=竜王・名人・王位・王座・棋王・王将との7冠=が中原誠の23歳11カ月の最年少記録を53年ぶりに更新し、21歳11カ月で史上6人目の「永世棋聖」(通算5期)の資格を獲得した。藤井棋聖にとって2020年に棋聖戦で初タイトルを獲得以来、自身初の永世称号獲得となった。[14]

会長として

[編集]

二上達也の後を受けて2003年5月より日本将棋連盟会長に就いたが、在任1期限りで2005年5月に会長職を米長邦雄に譲り中原は副会長に就いた。2007年5月の棋士総会において理事選挙に出馬せず、理事・副会長職を退任した。

林葉直子邸「突入」録音テープ記者会見

[編集]

1994年から1998年の間に林葉直子(元女流棋士)邸の留守番電話に「今から突入しまーす」「お前みたいなのは早く死んじまえ! エイズにでも何でも早くかかっちゃえばいいんだよ!」などの本人の肉声が録音されたテープが1998年にテレビのワイドショーなどで公開された。中原は自宅の庭で記者会見に応じ、事実関係を認めた[15]

その他のエピソード

[編集]
  • 四段から六段の時代、そのあまりの強さから「鉄腕アトム」のあだながついた[16]
  • 負けず嫌いであり、素人相手に指す時でも決して手加減をしないと言われている。
  • 田中角栄自民党総裁に出馬した際、「五五角」と扇子に揮毫(きごう)して贈ったことがある。
  • 親友の棋士池田修一が三段の時に、肺結核を発症し故郷で治療のため長期離脱していたのだが、当時四段から五段で先にプロ棋士になっていた中原が入院中だった池田の生活費を毎月支援していた。[17]
  • 趣味は囲碁と音楽鑑賞(クラシック音楽)、大リーグテレビ観戦。囲碁については2016年現在も将棋連盟の囲碁部に籍を置いている[18]。2019年1月、アマ六段免状を贈呈される[19]
  • クラシック音楽についてはプロ入り間もない頃に名曲喫茶に入り浸って以来の趣味で、将棋ファンであった山本直純とも交流があり、駒音コンサートで指揮棒を振ったこともある[20]
  • 詰将棋創作も得意としており、名人に就位している間も自作の詰将棋を雑誌に寄稿したりしていた[注釈 17]
  • 月刊少年ジャンプ連載の実録シリーズにて「若き王将」のタイトルで取り上げられる。
  • 少年時代のあだ名はマコロン。当時使っていた眼鏡が仙台銘菓「まころん」に似て、丸いものだったからとも。
  • 大盤解説での口癖は「驚いたね」が知られる。予想に反して意外な手を指したとき発するのだが、それは「好手」であるより「悪手」であることが多い。

弟子

[編集]

棋士となった弟子

[編集]
名前 四段昇段日 段位、主な活躍
小倉久史 1988年10月1日 八段
佐藤秀司 1990年10月1日 八段、一般棋戦優勝1回
高野秀行 1998年4月1日 六段
熊坂学 2002年4月1日 六段

(2023年4月1日現在)

女流棋士となった弟子

[編集]
名前 女流プロ入り日 段位、主な活躍
甲斐智美 1997年4月1日 女流五段、女王1期、女流王位4期、倉敷藤花2期、一般棋戦優勝2回、A級在籍2期

(2023年7月3日現在)

昇段履歴

[編集]
  • 1958年 : 6級(奨励会入会)
  • 1961年 : 初段
  • 1965年10月01日 : 四段(関東奨励会三段優勝、東西決戦で桐山清澄に勝利)=プロ入り
  • 1967年04月01日 : 五段(順位戦C級1組昇級)
  • 1968年04月01日 : 六段(順位戦B級2組昇級)
  • 1969年04月01日 : 七段(順位戦B級1組昇級)
  • 1970年04月01日 : 八段(順位戦A級昇級)
  • 1973年11月03日 : 九段(九段昇段規定30点)[注釈 18]
  • 2009年03月31日 : 引退

主な成績

[編集]
通算成績[21][22]
対局数2093(タイトル戦の持将棋3局を含む)
1308勝782敗 勝率0.6258(引退時点で1308勝は史上2位の成績)

タイトル・永世称号

[編集]

登場・連覇の 太字 は歴代最多記録。

詳細は下の年表を参照。他の棋士との比較は、タイトル獲得記録将棋のタイトル在位者一覧を参照

タイトル 獲得年度 登場 獲得期数 連覇 永世称号(備考)
竜王 0
名人 1972-1981, 1985-1987,
1990-1992[注釈 19]
18回 15期
(歴代2位)
9連覇
(歴代2位)
十六世名人
2007年11月17日襲位
王位 1973-1978, 1980-1981 11回 8期 6連覇 永世王位
2008年4月1日就位
王座 1983-1986, 1988-1989
(一般棋戦時代の優勝10回)
8回 6期
(歴代2位)
4連覇
(歴代2位タイ)
名誉王座
2007年9月2日就位
棋王 1979 3回 1期
王将 1972-1977, 1984 13回 7期 6連覇
棋聖 1968前後-1969前,
1970後-1972前,
1977後-1979前後, 1982後,
1988後-1989前後
23回 16期
(歴代1位タイ)
5連覇 永世棋聖
2008年4月1日就位
旧タイトル 獲得年度 登場 獲得期数 連覇 永世称号(備考)
十段 1970-1972, 1974-1979,
1982-1983
15回 11期
(歴代1位)
6連覇
(歴代1位タイ)
永世十段
1994年4月1日就位
登場回数合計91、獲得合計64期歴代3位)、7タイトル生涯グランドスラム達成(旧十段戦含む)
01位 099期 (138回)
2位 80期 (112回)
3位 64期 (091回)
4位 31期 (045回)
5位 27期 (057回)
6位 26期 (027回)
7位 019期 (048回)
8位 13期 (037回)
9位 12期 (025回)
10位 08期 (024回)

(番勝負実施分のみ)
08期
(05期)
(011回)
(008回)
太字*は現役棋士、(括弧の数字)はタイトル戦登場回数
(記録は 第37期竜王戦2024年度〉終了まで、番勝負終了前を除く)

一般棋戦優勝

[編集]

通算28回(歴代3位)

  • 王座戦(一般棋戦時代) - 10回(1969-1974・1976-1979年度)
  • NHK杯 - 6回(1974・1977・1982・1987・1992・1994回年度)
  • 早指し将棋選手権 - 3回(1972後期・1973後期・1985年度)
  • 日本シリーズ - 1回(1981年度)
  • オールスター勝ち抜き戦(5勝以上) - 3回(1984・1987-1988回年度)
  • 将棋連盟杯争奪戦 - 1回(第3回)
  • 古豪新鋭戦 - 1回(第11回)
  • 最強者決定戦 - 1回(第11回)
  • 名将戦 - 2回(第1・2期)

将棋大賞

[編集]
  • 将棋大賞は、最優秀棋士賞5回、升田幸三賞1回(「中原流横歩取り」、「中原囲い」の戦法を編み出したことによる)など。

在籍クラス

[編集]

第30期までの順位戦の期数は、名人戦の期数に対して5期のずれがあった。1年のブランクの後、主催が朝日新聞社から毎日新聞社に代わった第36期から名人戦と順位戦の期数がそろえられた。このため、第31-35期の順位戦は存在しない。つまり、中原のA級以上在籍は29期連続である。なお、第30期と第36期は、名人9連覇の途中に当たる。

  • 竜王戦 1組在籍通算18期(第1-9, 13-15, 17-22期)(第1期本戦シード、第22期休場を含む)
  • 順位戦 A級以上 29期連続(30年連続)、通算29期(第25-30…36-58期)
順位戦・竜王戦の在籍クラスの年別一覧
開始
年度
(出典)順位戦
出典[23]
(出典)竜王戦
出典[24]
名人 A級 B級 C級 0 竜王 1組 2組 3組 4組 5組 6組 決勝
T
1組 2組 1組 2組
1965 20 四段昇段前
1966 21 C211 12-0
1967 22 C111 11-1
1968 23 B213 11-1
1969 24 B114 10-3
1970 25 A 10 4-4
1971 26  A06  8-0
1972 27 名人 --
1973 28 名人 --
1974 29 名人 --
1975 30 名人 --
1976 第31-35期の順位戦は回次省略
1976 36 名人 --
1978 37 名人 --
1979 38 名人 --
1980 39 名人 --
1981 40 名人 --
1982 41 A 01 7-2
1983 42 A 02 5-4
1984 43 A 05 6-2
1985 44 名人 --
1986 45 名人 -- 棋戦創設前
1987 46 名人 -- 1 1組 2-2 決勝T
シード
1988 47 A 01 5-4 2 1組 0-1 4-0
1989 48 A 05 6-3 3 1組 0-1 3-1
1990 49 名人 -- 4 1組 -- 1-2
1991 50 名人 -- 5 1組 0-1 3-1
1992 51 名人 -- 6 1組 -- 2-2
1993 52 A 01 6-3 7 1組 -- 1-2
1994 53 A 03 7-2 8 1組 1-1 4-0
1995 54 A 02 4-5 9 1組 -- 1-3
1996 55 A 06 4-5 10 2組 -- 1-2
1997 56 A 06 5-4 11 2組 -- 2-2
1998 57 A 05 2-6 12 2組 -- 4-1
1999 58 A 08 2-7 13 1組 0-1 4-0
2000 59 B102 6-6 14 1組 -- 2-2
2001 60 B107 4-8 15 1組 -- 0-3
2002 61 F宣 16 2組 3-2 3-1
2003 62 F宣 17 1組 -- 2-2
2004 63 F宣 18 1組 -- 1-2
2005 64 F宣 19 1組 -- 2-2
2006 65 F宣 20 1組 0-1 3-1
2007 66 F宣 21 1組 -- 2-2
2008 67 F宣 22 1組 -- 休場
2009年3月31日付で引退 22 2009年3月31日付で引退
順位戦、竜王戦の 枠表記 は挑戦者。右欄の数字は勝-敗(番勝負/PO含まず)。
順位戦の右数字はクラス内順位 ( x当期降級点 / *累積降級点 / +降級点消去 )
順位戦の「F編」はフリークラス編入 /「F宣」は宣言によるフリークラス転出。
竜王戦の 太字 はランキング戦優勝、竜王戦の 組(添字) は棋士以外の枠での出場。

年度別成績

[編集]
公式棋戦成績
年度 対局数 勝数 負数 勝率 備考 (出典)
1965年度 9 7 2 0.7780 [25]
1966年度 39 32 7 0.8210 [25]
1967年度 55 47 8 0.8550 [25]
1968年度 55 43 12 0.7820 [25]
1969年度 50 35 15 0.7000 [25]
1970年度 75 56 19 0.7470 [25]
小計
1965-1970
283 220 63 [25]
年度 対局数 勝数 負数 勝率
1971年度 54 40 14 0.7410 [25]
1972年度 51 37 14 0.7250 [25]
1973年度 43 31 12 0.7210 [25]
1974年度 66 47 19 0.7120 [25]
1975年度 53 34 18 0.6540 持将棋1を対局数に含む[25]
1976年度 53 33 20 0.6230 [25]
1977年度 54 35 19 0.6480 [25]
累計
1965-1977
656 477 179 [25]
1978年度
(4/01-12/12)
30 23 7 [25]
累計
500勝まで
686 500 186 0.7290 [25]
1978年度 0.0000
1979年度 0.0000
1980年度 0.0000 持将棋1を対局数に含む
小計
1971-1980
累計
1965-1980
年度 対局数 勝数 負数 勝率
1981年度 0.0000
1982年度 0.0000 持将棋1を対局数に含む
1983年度 0.0000
1984年度 0.0000
1985年度 0.0000
1986年度 0.0000
1987年度 0.0000
1988年度 0.0000
1989年度 0.0000
1990年度 52 27 25 0.519 [26]
小計
1981-1990
累計
1965-1990
年度 対局数 勝数 負数 勝率
1991年度 44 26 18 0.5910 [27]
1992年度 50 28 22 0.5600 [28]
1993年度 53 29 24 0.5470 [29]
1994年度 53 31 22 0.5840 [30]
1995年度 44 24 20 0.5450 [31]
1996年度 52 33 19 0.6350 [32]
1997年度 43 21 22 0.4880 [33]
1998年度 39 21 18 0.5380 [34]
1999年度 43 20 23 0.4650 [35]
2000年度 48 26 22 0.5416 [36]
小計
1991-2000
累計
1965-2000
年度 対局数 勝数 負数 勝率
2001年度 37 12 25 0.3243 [37]
2002年度 18 6 12 0.3333 [38]
2003年度 28 14 14 0.5000 [39]
2004年度 21 8 13 0.3809 [40]
2005年度 20 9 11 0.4500 [41]
2006年度 18 7 11 0.3889 [42]
2007年度 19 8 11 0.4211 [43]
2008年度 11 5 6 0.4545 [44]
小計
2001-2008
通算
1965-2008
2093 1308 782 0.6258 持将棋3を対局数に含む

記録(歴代1位のもの)

[編集]
  • 棋聖位在位 - 16期(大山康晴・羽生善治と並び、1位タイ)
  • 棋聖戦トーナメント16強以上[注釈 20] - 71期(第8期第9期、および第11期から第79期までの69期連続[注釈 21]が該当)
  • 年度最高勝率 - .855(47勝8敗)(1967年度)
  • 四段昇段から永世称号資格取得までの最速記録 - 5年10か月
  • 最年少実力制永世名人資格獲得 - 28歳9か月
  • 順位戦A級全勝 - 1971年(この年は休場者がいたため8戦。他に森内俊之、羽生善治、渡辺明が9戦全勝を達成している)
  • 年度勝率7割超 - 10年連続

その他、大山康晴以来史上2人目の1300勝を達成している(2007年9月27日)。

主な対戦相手との勝敗

[編集]
対戦相手 対局 タイトル戦
塚田正夫 004 004 000
升田幸三 012 009 003
大山康晴 162 107 055 獲得16 敗退04
二上達也 042 029 013 獲得02 敗退01
山田道美 022 015 007 獲得02 敗退01
加藤一二三 109 067 041 獲得05 敗退04
有吉道夫 058 041 017 獲得03 敗退01
内藤國雄 071 047 024 獲得04 敗退02
米長邦雄 187 106 080 獲得14 敗退06
大内延介 043 028 014 獲得01 敗退00
桐山清澄 051 034 017 獲得03 敗退00
勝浦修 035 026 009 獲得01 敗退00
森安秀光 038 022 016 獲得01 敗退01
森雞二 042 030 012 獲得02 敗退00
淡路仁茂 013 011 002 獲得01 敗退00
青野照市 036 027 009 獲得01 敗退00
田中寅彦 023 012 011 獲得01 敗退00
谷川浩司 098 042 056 獲得03 敗退03
高橋道雄 045 030 015 獲得01 敗退00
中村修 030 015 015 獲得00 敗退02
島朗 032 016 016
南芳一 026 012 014 獲得01 敗退00
塚田泰明 032 021 011 獲得01 敗退01
森下卓 030 013 017
羽生善治 029 010 019
佐藤康光 029 012 017
森内俊之 035 017 018
屋敷伸之 021 011 010 獲得01 敗退01
丸山忠久 022 007 015
郷田真隆 031 006 025
渡辺明 004 001 003

※加藤、米長、大内との対局数は、タイトル戦での持将棋各1局ずつ含む。

※米長との187対局は、同一カード対局数の歴代1位記録

日本将棋連盟表彰

[編集]

日本将棋連盟以外の表彰等は「#その他表彰等」参照

勝数表彰
現役勤続表彰

その他表彰等

[編集]

年表

[編集]
氏名は対戦相手。 赤いマス目  はタイトル獲得(奪取または防衛)。 00永世 はタイトル獲得に加え永世称号・名誉称号の資格獲得。

o : 勝ち、 x : 負け、 j : 持将棋、s : 千日手による日程繰り延べ(当日指し直しの場合は記載せず)。
 - は棋戦不参加または開始前・終了後(該当年度未実施)の棋戦等。

 黄色いマス目  は、一般棋戦「王座戦」の優勝(タイトル戦昇格以前。「名誉王座」称号獲得要件に含まれるためタイトルの欄にも記載)。

年度 名人
4-6月
棋聖
6-7月
12-2月
王位
7-10月
王座戦
(一般棋戦)
十段
10-1月
王将
1-3月
棋王
2-3月
一般棋戦
優勝
将棋大賞 備 考
1965 1965年10月1日 四段昇段(18歳)
1966
<第25期>

C級2組
(第21期)
C1昇級
<第8期> <第7期>

 
<第14回>
(一般棋戦)
 
<第5期>

 
<第16期>

 
順位戦 C級1組へ昇級
<第9期>
1967 C級1組
(第22期)
B2昇級
    古豪新鋭 年度勝率最高記録0.855(47勝8敗)、
順位戦 B級2組へ昇級
山田道美
ooxxx
1968 B級2組
(第23期)
B1昇級
山田道美
xooo
初タイトル(20歳)
順位戦 B級1組へ昇級
大山康晴
oxoo
1969 B級1組
(第24期)
A級昇級
山田道美
ooo
有吉道夫
xoo
優勝
王座 順位戦 A級へ昇級
(デビューから4年連続昇級でA級入り)
内藤國雄
oxxx
1970 A級
(第25期)
A級残留
  二上達也
oo
優勝
大山康晴
oooxxo
大山康晴
xooxoxx
王座
連盟杯
八段昇段(A級八段1年目)
年度56勝(自己最高)
大山康晴
ooo
1971 A級
(第26期)
挑戦者
大山康晴
ooxo永世
大山康晴
xoxxoox
加藤一二三
oo
優勝
大山康晴
xooxoo
王座
最強者
永世称号資格獲得(永世棋聖
・最年少記録(当時23歳11か月)
・最速記録(四段昇段後5年10か月)
二上達也
oxoo
1972 <第31期>
大山康晴
oxxoxoo
内藤國雄
ooxo
内藤國雄
oo
優勝
大山康晴
oooxo
大山康晴
oooo
王座
早権(後期)
名人初挑戦で獲得
(24歳で名人は当時史上最年少)
有吉道夫
ooxxx
1973 加藤一二三
oooo
内藤國雄
oooo
大野源一
oo
優勝
大山康晴
xooxoxx
米長邦雄
oxxooo
王座 名将
早権(後期)
<第1回>
勝率1位
連勝
九段昇段、
四冠(史上2人目)
1974 大山康晴
xooxoxo
米長邦雄
oxoxoo
大山康晴
oxo
優勝
大山康晴
oxooo
米長邦雄
oxooxxo
王座 NHK 最優秀
1975 大内延介
xoosxxojo
内藤國雄
oxoxoo
桐山清澄
xx
大山康晴
oooo
有吉道夫
ooxoo
<第1期>
0
名将 最優秀
年度 名人
4-6月
棋聖
6-7月
12-2月
王位
7-10月
王座戦
(一般棋戦)
十段
10-1月
王将
1-3月
棋王
2-3月
一般棋戦
優勝
将棋大賞 備 考
1976 <第35期>
米長邦雄
oxxooxo永世
<第28期> <第17期>
勝浦修
xoooxo
<第24回>
桐山清澄
oo
優勝
<第15期>
加藤一二三
oxsooxxo
<第26期>
大山康晴
oxxooo
<第2期>

 
王座 <第4回>
最優秀
実力制永世名人資格の最年少記録
(28歳9か月)
<第29期>
1977 (実施されず)   米長邦雄
xoooxo永世
(1997年制定)
大内延介
oo
優勝
加藤一二三
xoxooxo
有吉道夫
oxoxoo
加藤一二三
xxx
王座 NHK 最優秀 五冠(史上2人目)= 棋聖戦(後期)
(六冠独占は逃す)
大山康晴
xxooo
1978 <第36期>
森雞二
xoxosoo
有吉道夫
ooo
大山康晴
oxooo
大内延介
oo
優勝
米長邦雄
oooxxxo
加藤一二三
oxxxx
王座 タイトル戦連続登場 11回(歴代3位)
(第18期王位戦~第28期王将戦)
二上達也
oxoo
1979 米長邦雄
xxoooo
加藤一二三
oxoo
米長邦雄
oxxoxosx
大内延介
oo
優勝
米長邦雄
ooxoo
米長邦雄
oxoo
王座
淡路仁茂
ooo
1980 米長邦雄
oxjooo
米長邦雄
xxox
米長邦雄
oooo
大山康晴
xx
加藤一二三
xoxxx
米長邦雄
xxox
 
1981 桐山清澄
oooxo
二上達也
xxx
大山康晴
oxooxxo
大山康晴
oxooxsxx
日本シ
 
1982 加藤一二三
joxoxsxosx
第41期
A級残留
  内藤國雄
xooxxx
<第30回>
( ここまで
一般棋戦
)

加藤一二三
oxoxoo永世
NHK 最優秀
最多勝利
最多対局
12年ぶりの無冠
永世十段獲得
森雞二
oxoo
年度 名人
4-6月
棋聖
6-7月
12-2月
王位
7-10月
王座
9-10月

(タイトル戦)
十段
10-1月
王将
1-3月
棋王
2-3月
一般棋戦
優勝
将棋大賞 備 考
1983 A級残留 森安秀光
ooxxx
<第31期>
内藤國雄
oxo
桐山清澄
xoxooo
 
1984 A級
挑戦者
森安秀光
xxooo
米長邦雄
xooxxox
米長邦雄
oxooo
勝抜(5連勝)
1985 <第43期>
谷川浩司
oooxxo
谷川浩司
xooo
米長邦雄
oxxoxox
中村修
xxxoox
早権 名人復位
1986 大山康晴
ooxoo
桐山清澄
ooo
中村修
oxxoxx
1987 米長邦雄
xxoooo
塚田泰明
ooxxx
<第26期>
 
NHK
勝抜(6連勝)
年度 名人
4-6月
棋聖
6-7月
12-2月
王位
7-10月
王座
9-10月
十段 王将
1-3月
棋王
2-3月
一般棋戦
優勝
将棋大賞 備 考
竜王
10-1月
1988 <第46期>
谷川浩司
oxxxox
<第47期>
A級残留
<第52期> <第29期>


 
<第36期>
塚田泰明
ooo
<第1期>


 
<第38期>


 
<第14期>


 
勝抜(6連勝)
(前年度から
 12連勝)
<第16回>


 
羽生と決勝で当たったのは、
この年度のNHK杯戦のみ
<第53期>
田中寅彦
oxxoo
1989 A級
挑戦者
南芳一
xooo
青野照市
xoxoo名誉
(1996年制定)
竜王戦1組優勝
屋敷伸之
xooxo
1990 <第48期>
谷川浩司
oxoxoo
屋敷伸之
ooxxx
谷川浩司
xoxx
二度目の名人復位
屋敷に史上最年少タイトル記録を許す
 
1991 米長邦雄
oooxo
1992 高橋道雄
xxoxooo
NHK
1993 <第51期>
米長邦雄
xxxx
第52期
A級残留
谷川浩司
xxoxox
米長に史上最年長名人記録を許す
1994 A級残留 <第64期> NHK 永世十段を名乗る
<第65期>
1995 第54期
A級残留
<第66期> 升田賞 竜王戦1組優勝
(羽生が七冠独占を達成した年度)
1999 第58期 A級
B1降級
第58期順位戦でA級から陥落
2000 第59期
B級1組 残留
竜王戦1組優勝
2001 第60期
B級1組 残留
2002 フリークラス
宣言
2002年度よりフリークラス転出(宣言)
2003 羽生とのタイトル戦に一歩届かず(竜王戦)
2008 特別賞 2009.3.31引退
合計 登場18回
獲得15
 
登場23回
獲得16
 
登場11回
獲得08
 
登場08回
獲得06
(優勝10回)
(十段戦)
登場15回
獲得11
登場13回
獲得07
 
登場03回
獲得01
 
一般棋戦
優勝28回

(歴代3位)
タイトル戦登場合計91回
うち獲得64期
歴代3位
永世
称号
十六世名人
2007.11.17
に襲位
永世棋聖
2008.4.1
から名乗る
永世王位
2008.4.1
から名乗る
名誉王座
2007.9.2
から名乗る
永世十段
1994.4.1
から名乗る


著書

[編集]

十六世名人でかつ日本将棋連盟会長であったこともあり、著書は大変多い。入門書も多く著述している。ここでは一例を挙げる。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 名人15期を含む
  2. ^ 1994年4月1日に「永世十段」、2007年9月2日に「名誉王座」、同年11月17日に「十六世名人」を、2008年4月1日に「永世棋聖」および「永世王位」を名乗る。参考リンクは以下に列挙(いずれも日本将棋連盟の「お知らせ」より)。
  3. ^ 2008年正月にNHK教育テレビで放送された「お好み対局」にて、中原自身が語るところによると、「棋界の太陽」は原田泰夫による命名とのこと。
  4. ^ 直接対局したのは1回香落ち3局だけ
  5. ^ 谷川浩司、羽生善治も13歳で初段。
  6. ^ 山田道美関根茂宮坂幸雄富沢幹雄中原誠
  7. ^ 日本大学桜丘高等学校に在学していたため、両立にも苦しんだ。
  8. ^ 漫画『実録シリーズ傑作選/若き王将』など、複数の書籍で読むことができる。
  9. ^ 中原は「山田研究会」の生徒でもあった。
  10. ^ 当時加藤一二三が持っていた、タイトル挑戦の最年少記録の数日遅れであるが、当時は細かい差については気にされていなかった。
  11. ^ 2次予選で升田幸三九段、本戦1回戦で二上達也八段、準決勝で大山康晴名人王将十段王位を含め四冠)、挑戦者決定戦で板谷進六段
  12. ^ 大山は、この後も1974年度・第33期名人戦(中原4-大山3)と1986年度・第44期名人戦(中原4-大山1)と2度登場しており、いずれも中原への挑戦であったが、敗退している。
  13. ^ (永世名人ではないが)名人経験者がA級からの降級後も現役で指し続けた前例としては、塚田正夫と加藤一二三のB級1組、米長邦雄のフリークラス(B級1組への降級が決まったときにフリークラス宣言)があった。
  14. ^ この件に関しては引退後のインタビューでも度々後悔を口にしている。
  15. ^ 2017年度末現在、60歳代で竜王戦1組に在籍した経験がある棋士は、大山康晴と中原の2名のみである。
  16. ^ これ以前にも永世名人襲位の話が出ていたようだが、まだ名乗るには早いと判断して断ったと、『将棋世界』2008年1月号の中(インタビュー冒頭、38ページ)で明かしている
  17. ^ 中学の時出題した9手詰めは、塚田正夫が詰ませなかった。
  18. ^ 九段昇段時は名人在位中であり、その後はタイトル称号・前名人・永世十段・永世名人などで呼称されており、「中原誠九段」と呼称されたことは一度もない。
  19. ^ 1977年度は名人戦を開催せず。
  20. ^ 棋聖戦66~80期はリーグ進出、それ以外は決勝T進出。
  21. ^ 棋聖戦は第65期までは年2期開催であり、この連続記録は中原が五段時代の20歳から引退前の61歳まで40年余りに渡って続いた記録である。

出典

[編集]
  1. ^ 棋士データベース 十六世名人 中原誠”. 日本将棋連盟. 2017年6月27日閲覧。
  2. ^ (Paid subscription required要購読契約)中原誠(将棋名誉王座) 私の履歴書(2)縁台将棋 - 日本経済新聞”. www.nikkei.com. 2023年5月14日閲覧。
  3. ^ (Paid subscription required要購読契約)中原誠(将棋名誉王座) 私の履歴書(7)受験の壁 - 日本経済新聞”. www.nikkei.com. 2023年5月14日閲覧。
  4. ^ 中原誠十六世名人が振り返る 1972年、初挑戦の名人戦七番勝負”. 毎日新聞. 毎日新聞社 (2022年4月2日). 2022年6月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月11日閲覧。
  5. ^ 中原 誠十六世名人の不戦敗に関する件|将棋ニュース|日本将棋連盟
  6. ^ 中原 誠十六世名人の休場について|将棋ニュース|日本将棋連盟
  7. ^ a b 中原誠十六世名人が引退へ|将棋ニュース|日本将棋連盟
  8. ^ 中原十六世名人が引退表明 61歳「潮時と思い決意」」『MSN産経ニュース』2009年3月11日。2009年3月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。
  9. ^ 中原誠十六世名人「羽生さんと戦いたかった」」『スポニチ Sponichi Annex ニュース』2009年3月11日。2009年3月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。
  10. ^ 「棋士会」役員変更のお知らせ|将棋ニュース|日本将棋連盟
  11. ^ 第24回朝日オープン将棋選手権本戦第17局 「『中原先生、入玉が好きだからなあ』。控室では真部一男八段や佐藤義則八段らがテレビに映るこの将棋を見てあれこれ話していた。」
  12. ^ 『将棋世界』2008年1月号 p.41
  13. ^ 中原 誠永世十段・名誉王座が永世名人(十六世名人)を襲位”. 日本将棋連盟 (2007年11月9日). 2024年8月30日閲覧。
  14. ^ 中原誠十六世名人、自身の最年少記録塗り替えての永世称号獲得の藤井聡太棋聖に「お見事です」/将棋”. SANKEI DIGITAL INC.. 2024年12月17日閲覧。
  15. ^ exciteニュース「林葉直子と中原誠の不倫騒動 将棋界に炸裂した「文春砲」」近添真琴  2016年10月20日
  16. ^ 奥山紅樹『前進できぬ駒はない!』(晩聲社)P.209
  17. ^ 将棋世界1991年7月号、池田修一六段(当時)の「師匠と弟子の物語 花村と私(上)」(将棋ペンクラブ 中原人情流)より
  18. ^ 中原誠十六世名人も参加、将棋連盟囲碁部の活動に潜入 - 日本将棋連盟・2016年10月7日
  19. ^ 中原誠十六世名人、のめり込んだ囲碁の魅力「白黒ハッキリさせないのが難しさ」スポーツ報知 2019年1月15日
  20. ^ 中原誠(24)駒音コンサート”. 日本経済新聞 (2016年5月25日). 2022年1月13日閲覧。
  21. ^ 中原誠十六世名人が引退「悔いはない」」『スポニチ Sponichi Annex ニュース』2009年3月11日。2009年3月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。
  22. ^ 現役棋士通算成績(2009年3月27日対局分まで)」『日本将棋連盟』。2009年3月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。
  23. ^ 名人戦・順位戦」『日本将棋連盟』。
  24. ^ 竜王戦」『日本将棋連盟』。
  25. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 近代将棋 1979年2月』。 - 国立国会図書館デジタルコレクション収蔵
  26. ^ 1990年度成績 - 日本将棋連盟(2012年9月25日時点のアーカイブ)
  27. ^ 1991年度成績 - 日本将棋連盟(2012年9月25日時点のアーカイブ)
  28. ^ 1992年度成績 - 日本将棋連盟(2012年9月25日時点のアーカイブ)
  29. ^ 1993年度成績 - 日本将棋連盟(2012年9月25日時点のアーカイブ)
  30. ^ 1994年度成績 - 日本将棋連盟(2012年9月25日時点のアーカイブ)
  31. ^ 1995年度成績 - 日本将棋連盟(2012年9月25日時点のアーカイブ)
  32. ^ 1996年度成績 - 日本将棋連盟(2012年9月25日時点のアーカイブ)
  33. ^ 1997年度成績 - 日本将棋連盟(2012年9月25日時点のアーカイブ)
  34. ^ 1998年度成績 - 日本将棋連盟(2012年9月25日時点のアーカイブ)
  35. ^ 1999年度成績 - 日本将棋連盟(2012年9月25日時点のアーカイブ)
  36. ^ 2000年度成績 - 日本将棋連盟(2012年9月25日時点のアーカイブ)
  37. ^ 2001年度成績 - 日本将棋連盟(2012年9月25日時点のアーカイブ)
  38. ^ 2002年度成績 - 日本将棋連盟(2012年9月25日時点のアーカイブ)
  39. ^ 2003年度成績 - 日本将棋連盟(2012年9月25日時点のアーカイブ)
  40. ^ 2004年度成績 - 日本将棋連盟(2012年9月25日時点のアーカイブ)
  41. ^ 2005年度成績 - 日本将棋連盟(2012年9月25日時点のアーカイブ)
  42. ^ 2006年度成績 - 日本将棋連盟(2012年9月25日時点のアーカイブ)
  43. ^ 2007年度成績 - 日本将棋連盟(2012年9月25日時点のアーカイブ)
  44. ^ 2008年度成績 - 日本将棋連盟(2012年9月25日時点のアーカイブ)
  45. ^ 近代将棋 1979年2月号』50-55頁。 - 国立国会図書館デジタルコレクション収蔵
  46. ^ 佐藤康光棋聖、通算600勝(将棋栄誉賞)達成」『日本将棋連盟』。2003年8月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。
  47. ^ 羽生善治、公式通算800勝達成」『日本将棋連盟』。2003年2月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。
  48. ^ 近代将棋 1992年3月号「プロ棋界最前線(武者野勝巳)」』近代将棋社、196–199頁。 - 国立国会図書館デジタルコレクション収蔵
  49. ^ 記録室日本将棋連盟オリジナルの2000年3月2日時点におけるアーカイブhttps://web.archive.org/web/20000302150735/http://www.shogi.or.jp:80/kiroku/kiroku-menu.htm 
  50. ^ 近代将棋 1999年9月号「将棋連盟広報室」』近代将棋社、187頁https://dl.ndl.go.jp/pid/6047373/1/94  - 国立国会図書館デジタルコレクション収蔵
  51. ^ 近代将棋 1991年1月号』近代将棋社。 - 国立国会図書館デジタルコレクション収蔵
  52. ^ 第31回「将棋の日」感謝状・表彰状贈呈者」『日本将棋連盟』。2005年11月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。
  53. ^ 中原 誠十六世名人が紫綬褒章を受章|将棋ニュース|日本将棋連盟

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]