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神田山陽

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

神田山陽(かんだ さんよう)は、講談師名跡。当代は三代目。本項では二代目について述べる。


二代目 神田かんだ 山陽さんよう
本名 浜井はまい ひろむ
生年月日 1909年8月31日
没年月日 (2000-10-30) 2000年10月30日(91歳没)
出身地 中華人民共和国の旗 中国大連市
師匠 六代目一龍斎貞山
大島伯鶴
初代神田山陽
八代目桂文楽内輪
弟子 三代目神田松鯉
二代目神田愛山
神田陽子
神田すみれ
神田紫
神田紅
神田香織
神田茜
神田昌味
名跡 1. 品川連山
(1939年 - 1948年)
2. 三代目神田小伯山
(1948年 - 1955年)
3. 二代目神田山陽
(1955年 - 2000年)
活動期間 1935年 - 2000年
活動内容 講談師
所属 神田派
講談組合

二代目 神田 山陽(かんだ さんよう、1909年8月31日 - 2000年10月30日)は、講談師。本名:浜井 弘

経歴

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中国大連生まれ、生後すぐに東京に移住[1]。書店・出版社の「大阪屋号書店[2][3]」の社長の嗣子として生まれる。

日本大学予科から同大学商業学部経済学科に入学するが、ダンスに熱中したため、自然放校となる[1]。趣味が高じて、ダンスの教師を務めたこともあった[4]

1935年大谷内越山の一人一話会に入会し、1939年、独立格として品川連山の名で高座に上る[1]六代目一龍斎貞山大島伯鶴初代神田山陽に師事するが、戦後に相次いで師匠を亡くす[1]1942年講談組合真打に昇進[1]。1948年、三代目神田小伯山を襲名し、八代目桂文楽一門として落語協会に加入する[1]。1955年、二代目神田山陽を襲名[1]。1956年、落語協会から芸術協会(現落語芸術協会)に移る[1]

1970年、講談協会会長に就くが、1972年、講談協会が多数決で解散と決まり、日本講談協会を設立する[1]。1980年、再び講談協会が設立され副会長に就く[1]。1991年、講談協会を退会し、再び日本講談協会を結成する[1]

1997年、講談界で初めて要記録無形文化財に認定された[1]。2000年10月30日、腎不全のため死去。91歳没。

人物

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趣味は将棋で、戦前には若手棋士を集めたトーナメントのスポンサーになったこともあった[4]。また、NHK将棋講座NHK杯将棋トーナメントの司会を務めたことがある。1996年、第3回大山康晴賞を受賞。

私費を投じて講談界再興に尽力し、女流講談の育成や多くの演目の伝承に貢献した[1]。晩年は多くの女流棋士が手厚く介護したという[1]

著書

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弟子

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太字は現役。

山陽死後他門下へ移籍

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廃業

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  • 品川連生(神田錦陽)
  • 神田照山
  • 神田東陽
  • 神田南陽
  • 神田とまと
  • 神田まさる

詳細不明の弟子

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  • 神田好山 - 刺青を入れており、逗子の海岸で自殺した。

外部リンク

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 吉田修『東都講談師物語』中央公論事業出版、2017年6月、164-172頁。 
  2. ^ 2016年解散した大阪屋とは無関係。
  3. ^ 湯原健一「大阪屋号書店小史」『愛知大学国際問題研究所紀要』第153号、愛知大学国際問題研究所、2019年2月、87-124頁、ISSN 05157781NAID 120006622321 
  4. ^ a b 加藤治郎原田泰夫『[証言]将棋昭和史』(執筆)田辺忠幸毎日コミュニケーションズ P.31
  5. ^ 神田伯山 (2021年1月7日). “神田伯山「大師匠・神田山陽は『講談界の革命家』だった!」”. 婦人公論.jp. 中央公論新社. 2021年4月1日閲覧。
  6. ^ リンク先は解説ほぼ全文である。