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田中魁秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 田中魁秀 九段
名前 田中魁秀
生年月日 (1947-03-02) 1947年3月2日(77歳)
プロ入り年月日 1969年10月1日(22歳)
引退年月日 2015年12月31日(68歳)
棋士番号 104
出身地 大阪府枚方市
所属 日本将棋連盟(関西)
師匠 本間爽悦八段
弟子 福崎文吾阿部隆長沼洋佐藤康光小林裕士
段位 九段
棋士DB 田中魁秀
戦績
一般棋戦優勝回数 1回
通算成績 1441対局 659勝782敗 (勝率0.457)
竜王戦最高クラス 2組(4期)
順位戦最高クラス B級1組(3期)
2016年1月14日現在
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田中 魁秀(たなか かいしゅう、1947年3月2日 - )は、将棋棋士。棋士番号104。大阪府枚方市出身。本間爽悦門下。2015年12月31日引退[1]

棋歴

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王位戦でも活躍し、第12期(1970 - 71年度)・第14期・第18期と予選を勝ち抜きリーグ入り。白組で参加した第14期では全勝の中原誠に敗れたのみで3勝1敗の成績を挙げ、残留に成功した。

中堅時代は棋界でも最難関と言われた十段リーグの予選(通過枠は僅か2名)を勝ち抜き参戦する活躍を見せた。(1980年度、リーグの結果は勝浦修及び米長邦雄に1勝ずつ挙げたのみで陥落。)

40代になると、健康上の理由に伴う不戦敗が増え、1988年から1997年にわたり計11回の不戦敗を記録した。

還暦を迎えて以降も、トーナメントプロとしての情熱は健在であり、伸び盛りの若手を相手に健闘した。第69期(2010年)C級1組順位戦8回戦では、昇級争いのトップを独走していた広瀬章人王位力戦の末に撃破し、順位戦における唯一の黒星を与えた。

一身上の都合により、2015年12月31日に引退[1]

棋風

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  • 居飛車党で玉をあまり固く囲わず、攻め合いをめざす戦い方を好む。
  • 上述の不戦敗を記録して以降、健康面の懸念からか、対局後の感想戦は行わない、もしくは口頭のみの感想戦を数分程度で済ませてしまうことが多くなった。

人物

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  • 温厚で気さくな性格。「NHK将棋講座」2013年3月の記事によると、田中が奨励会員時代に師匠の本間に厳しく叱責されることが多く、それが苦痛だったことから、弟子には同じ苦痛を与えるのは気が引けるとして、弟子(奨励会員)を叱責することは滅多になかったという。
  • 趣味は庭いじり。

弟子

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棋士となった弟子

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名前 四段昇段日 段位、主な活躍
福崎文吾 1978年10月11日 九段、十段1期、王座1期、棋戦優勝1回
阿部隆 1985年6月10日 九段、タイトル挑戦1回、A級在籍1期、棋戦優勝2回
長沼洋 1986年7月21日 八段
佐藤康光 1987年3月25日 九段、竜王1期、名人2期、他タイトル13期、棋戦優勝12回
小林裕士 1997年4月1日 八段

(2023年12月12日現在)

  • 佐藤は田中の出身地に隣接する京都府八幡市の出身、田中門下で入会した奨励会員は小林(1990年度入会)を最後に確認できていない。

エピソード

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  • 四段昇段当時の名前は「正之」で、1978年に「魁秀」を名乗る。本人はこのことについて、「囲碁・将棋チャンネル」の「将棋まるごと90分」に出演した際、姓名判断が好きだった師匠(本間爽悦)が改名するにあたり、一緒に改名しようと酒の席で説得され、半ば強引に改名させられたと明かしている。「将棋世界」2015年8月号に載った田丸昇の記事によると「魁」は秋田魁新報から取ったという。
  • 非常に珍しい、タイトル挑戦0回で通算600勝(将棋栄誉賞)を達成し、かつA級に在位したことの無い九段棋士である(全棋士中この条件を満たすのは田中と脇謙二のみ)。

昇段履歴

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  • 1960年00月00日 : 7級 = 奨励会入会
  • 1963年00月00日 : 初段
  • 1969年10月01日 : 四段 = プロ入り
  • 1971年04月01日 : 五段(順位戦C級1組昇級)
  • 1973年04月01日 : 六段(順位戦B級2組昇級)
  • 1974年04月01日 : 七段(順位戦B級1組昇級)
  • 1984年04月01日 : 八段(勝数規定/七段昇段後公式戦190勝〈制度新設・同年5月25日総会で決定〉、七段で193勝)[2][3]
  • 2000年02月24日 : 九段(勝数規定/八段昇段後公式戦250勝)[4]
  • 2015年12月31日 : 引退(一身上の都合)[1]

主な成績

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通算成績

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1441対局 659勝782敗(勝率0.457)[5]

棋戦優勝

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合計 1回

主な記録

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  • 1980年度十段リーグ入り
  • 王位戦 リーグ入り 4回 第12期-1970年度・第14期-1973年度(残留)・第15期-1974年度・第18期-1977年度
  • 第13期(1986 - 1987年)棋王戦 ベスト8
  • 棋聖戦 ベスト8 5回 第19期-1971年度後期・第26期-1975年度前期・第28期-1976年度前期・第43期-1983年度後期・第66期-1995年度
  • 順位戦B級2組在籍期数 計25期(最長記録)
  • 順位戦B級2組対局数 250局(最多記録)

在籍クラス

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順位戦・竜王戦の在籍クラスの年別一覧
開始
年度
(出典)順位戦
出典[6]
(出典)竜王戦
出典[7]
名人 A級 B級 C級 0 竜王 1組 2組 3組 4組 5組 6組 決勝
T
1組 2組 1組 2組
1970 25 C214
1971 26 C114
1972 27 C107
1973 28 B214
1974 29 B114
1975 30 B108
順位戦の第31-35期は回次省略
1976 36 B201
1978 37 B205
1979 38 B203
1980 39 B204
1981 40 B208
1982 41 B215
1983 42 B208
1984 43 B204
1985 44 B203
1986 45 B114
1987 46 B201 1 2組 --
1988 47 B210 2 2組 --
1989 48 B218 3 2組 --
1990 49 B209 4 2組 --
1991 50 B215 5 3組 --
1992 51 B216 6 3組 --
1993 52 B221 7 3組 --
1994 53 B209 8 4組 --
1995 54 B216 9 4組 --
1996 55 B212 10 4組 --
1997 56 B215 11 4組 --
1998 57 B222 12 4組 --
1999 58 B216 13 4組 --
2000 59 B216 14 4組 --
2001 60 B215 15 4組 --
2002 61 C102 16 4組 --
2003 62 C129 17 4組 --
2004 63 C106 18 4組 --
2005 64 C114 19 5組 --
2006 65 C129 20 6組 --
2007 66 C121 21 6組 --
2008 67 C117 22 6組 --
2009 68 C121 23 6組 --
2010 69 C121 24 6組 --
2011 70 C125 25 6組 --
2012 71 C202 26 6組 --
2013 72 C235 27 6組 --
2014 73 C243 28 6組 --
2015 74 C243 29 6組 --
順位戦、竜王戦の 枠表記 は挑戦者。右欄の数字は勝-敗(番勝負/PO含まず)。
順位戦の右数字はクラス内順位 ( x当期降級点 / *累積降級点 / +降級点消去 )
順位戦の「F編」はフリークラス編入 /「F宣」は宣言によるフリークラス転出。
竜王戦の 太字 はランキング戦優勝、竜王戦の 組(添字) は棋士以外の枠での出場。

その他表彰

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脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b c 田中魁秀九段が引退|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月25日閲覧。
  2. ^ 近代将棋 1984年7月号「棋界ニュース・日本将棋連盟 新昇段者決まる」(1984年5月25日総会)』217頁。 - 国立国会図書館デジタルコレクション収蔵
  3. ^ 近代将棋 1984年8月号「棋界パトロール・新昇段制度」』183頁。 - 国立国会図書館デジタルコレクション収蔵
  4. ^ 近代将棋 2000年5月号』187頁。 - 国立国会図書館デジタルコレクション収蔵
  5. ^ 平成28年版 将棋年鑑 2016』80頁。
  6. ^ 名人戦・順位戦」『日本将棋連盟』。
  7. ^ 竜王戦」『日本将棋連盟』。
  8. ^ 日本将棋連盟からのお知らせ”. 2006年9月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年12月21日閲覧。
  9. ^ 第35回「将棋の日」表彰・感謝の式典|将棋ニュース|日本将棋連盟” (2009年11月26日). 2023年12月21日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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