坂田栄男
坂田栄男 二十三世本因坊 | |
---|---|
名前 | 坂田栄男 |
生年月日 | 1920年2月15日 |
没年月日 | 2010年10月22日(90歳没) |
プロ入り年 | 1935年 |
出身地 | 東京都 |
所属 | 日本棋院東京本院 |
師匠 | 増淵辰子 |
名誉称号 | 二十三世本因坊 |
概要 | |
タイトル獲得合計 | 64(歴代3位) |
七大タイトル合計 | 21(歴代6位タイ) |
通算成績 | 1117勝654敗16持碁 |
七大タイトル | |
名人 | 2期 (1963-64) |
本因坊 | 7期 (1961-67) |
王座 | 7期 (1961・63-64・66・70-72) |
十段 | 5期 (1966-68・72-73) |
二十三世本因坊栄寿(にじゅうさんせいほんいんぼう えいじゅ 1920年(大正9年)2月15日 - 2010年(平成22年)10月22日)本名:坂田 栄男(さかた えいお)は、囲碁棋士。東京都出身、日本棋院所属、増淵辰子八段門下、九段。
本因坊戦で7連覇他、選手権制初の名人・本因坊、7タイトル制覇、タイトル獲得64回(囲碁棋士の獲得タイトル数ランキング歴代3位)。など数々の記録を持つ、呉清源と並び称される昭和最強棋士の一人。切れ味の鋭いシノギを特徴として「シノギの坂田」「カミソリ坂田」の異名を持ち、数々の妙手、鬼手と呼ばれる手を残している。また棋風の柔軟性から「なまくら坂田」というあだ名もあった[1]。また布石での三々を多用した。
日本棋院理事長を1978年から1986年まで務めた後、1988年7月より日本棋院顧問。2000年2月15日に現役を引退。2009年より日本棋院名誉顧問。
経歴
[編集]生い立ち
[編集]東京府荏原郡大森町(後の東京市大森区、現・東京都大田区)に生まれる。囲碁好きの父の影響で囲碁を覚え、1929年に増淵辰子二段に入門、翌年日本棋院院生となる。1933年の入段手合では有力視されたが、先輩達が長考を繰り返して徹夜勝負としたのに体力負けして入段を逃し、このため翌年からは入段手合にも持時間制が設けられた。1935年に入段、1940年五段と、当時では藤沢庫之助に続くスピード昇段を果たす。
このころ、藤沢庫之助、高川格とともに日本棋院若手三羽烏と呼ばれ[2]、1943年『棋道』新鋭三羽烏勝抜争覇戦に出場、目標であった藤沢庫之助に初めて白番勝ちし、3勝1敗で優勝。同年、第3期本因坊戦では、五段級、六段級予選を勝ち抜くが、七段級予選で敗退。1944年に2ヵ月の教育召集、1945年に空襲で大手合が中止となると稽古先の軍需工場勤めもしたが、自宅も焼けて北浦和に疎開。
戦後は1946年に再開された大手合で七段昇段。1947年に日本棋院に不満を訴え、前田陳爾七段、梶原武雄五段らと8棋士で囲碁新社を結成して日本棋院を脱退。1948年には坂田は呉清源との三番碁を打つが(坂田先相先)、3連敗する。次いで梶原も先番逆コミで呉に敗れて意気消沈し、1949年に全棋士が日本棋院に復帰した。
1951年に第1期日本棋院最高段者トーナメントで、細川千仭との決勝を2-0で勝ち初の棋戦優勝。第6期本因坊戦リーグで、木谷實、長谷川章と3人が3勝2敗の同率となったが、坂田が同率決戦で2連勝して挑戦者となる。この前年に橋本宇太郎が本因坊位を持って関西棋院の独立をしていたことから、日本棋院の本因坊奪還の期待を一身に背負っての挑戦手合となるが、3勝1敗後の3連敗で橋本に敗れる。
1952年に八段に昇段[3]。また同年、四強リーグ戦(読売夕刊、坂田・宮下秀洋・杉内雅男・藤沢秀行参加。橋本宇太郎不参加)に優勝[3]、また中日五番碁(中日新聞社)で木谷実・宮下秀洋・高川格と連破する[3]。この成績により[3]、1953年に呉清源と六番碁(坂田先相先)を打ち、4勝1敗1ジゴとする。先相先とはいえ呉に勝ち越したことで世間の注目を集めるようになり、さらに同年、呉と十番碁(坂田先相先)を打つが、8局目で2勝6敗となり定先に打ち込まれる(8局で打ち切り)。
名人本因坊となる
[編集]1955年に大手合で、日本棋院では藤沢庫之助に次いで二人目の九段昇段。同年第1期最高位戦のリーグ戦で杉内雅男七段と同率1位となり、前年度リーグ1位の坂田が最高位となる。また三冠だった高川格から日本棋院選手権を奪い、以後7連覇。
1955年1月9日、産業経済新聞社主催により「橋本・坂本の電報碁」が開催。橋本宇太郎は同社大阪本社に、坂田は日本棋院中央会館に陣取り、電話託送電報を用いて東西対抗戦が行われた。朝10時に始まり、夜9時12分に終局し、坂田が勝利した[4]。
1959年には日本最強決定戦、最高位戦、日本棋院選手権戦、NHK杯戦の4冠となり、実力者としての評価を固める。本因坊戦では前回の挑戦以後、リーグ同率1位で決定戦敗退3回、リーグ2位が2回と雌伏するが、1961年に同率決戦で木谷實に勝って、9連覇中の高川格に挑戦。4勝1敗で勝って本因坊となり、本因坊栄寿と号す。以後7連覇し、名誉本因坊の資格を得る。
1961年は、高川から本因坊、王座、日本棋院第一位の3タイトルを奪った他、最高位・最強位・日本棋院選手権・NHK杯を合わせて7タイトル制覇の記録を作る。1963年の第2期名人戦は、リーグ最終戦で呉清源を破り6勝1敗で挑戦権獲得、藤沢秀行との挑戦手合を4-3で制し、名人本因坊を併せ持って棋界の第一人者となる。1964年にも名人・本因坊・日本棋院選手権・プロ十傑戦・王座・日本棋院第一位・NHK杯と、再度の7タイトル制覇。1964年から1966年の本因坊戦では、挑戦者の高川格、山部俊郎、藤沢秀行を4-0で退け、その前期の高川戦、次期の林海峰戦を合わせ17連勝と圧倒的な強さを見せた。
またこの時期、1963年10月から64年7月まで一般棋戦で歴代一位の29連勝、および年間最高勝率 .9375(30勝2敗、1964年)を達成しており、これらは2024年時点でも破られていない。この記録は、将棋棋士の藤井聡太が2017年6月に将棋界の連勝記録を更新する29連勝を達成(奇しくも坂田の記録と同じである)した際、日本棋院が記録を改めて調べて発表されたものである[5]。
後進の追撃
[編集]名人2連覇後の1965年に23歳の林海峰の挑戦を受け、「20代の名人はありえない」と語り、坂田有利の予想の中、2-4で名人位を奪われる。続いて翌年、翌々年のリターンマッチも敗れる。本因坊戦でも1967年の林海峰の挑戦は退けるが、1968年に敗れて、第一人者の座を明け渡すこととなった。その後も十段・王座・日本棋院選手権者などのタイトルを獲得。特に1972年から1973年にかけては4つのタイトルを保持して「第二の黄金期」と呼ばれ、秀哉賞・棋道賞最優秀棋士賞も受賞した[6]。
1975年、本因坊戦に5年ぶりに登場。4連覇中の石田芳夫に挑戦し、3勝1敗とした第5局でも投了寸前まで追い詰めるが、攻め合いのミスで敗れ、結局3-4で本因坊復位はならなかった。1978年には棋聖戦全段争覇戦優勝、最高棋士決定戦も決勝三番勝負まで勝ち進むが、石田芳夫に1-2で敗退。同年、第4期名人戦に史上最年長59歳で挑戦者となるが、大竹英雄名人に1-4で敗れた。
NHK杯戦では1982年まで11回優勝により、名誉NHK杯選手権者の称号を得る[7]。1983年、NEC杯戦に優勝してタイトル獲得数を64とした。1984年夏から、日本棋院理事長職に専念するため1年間休場[8]。
1989年には本因坊リーグ入りし、古希を迎えリーグで活躍。1998年から二十三世本因坊を名乗ることを認められる(それ以前から九段ではなく名誉本因坊を名乗っていた。二十三世本因坊となったのは規定変更によるもの)。2000年、体力と視力の衰えにより[9]80歳の誕生日をもって引退。
2010年10月22日、胸部大動脈瘤破裂の為に死去[10]。正四位に叙せられ、12月23日に日本棋院にて坂田栄寿お別れの会が行われた[11]。墓所は小平霊園。
2019年10月8日、第16回囲碁殿堂入りが決まる[12]。
門下に、新垣武九段、佐々木正九段、河野光樹八段、中山薫二段。
記録
[編集]- 総タイトル数64個(2002年趙治勲に破られるまで歴代最多)
- 年間30勝2敗(1964年)
- 一般棋戦29連勝(1963-64年)
- 同一タイトル戦17連勝(第18期本因坊戦第5局-第22期本因坊戦第3局)
- 通算成績1117勝654敗16ジゴ
連勝記録歴代1位
[編集]- 29連勝(歴代1位記録)
- △が先番
日程 | 棋戦 | 結果 | 相手 | |
---|---|---|---|---|
1 | 1963年10月11日 | 第11期王座戦 準決勝 | 中押 | 島村俊廣九段 |
2 | 1963年10月21日 | 第11期王座戦 決勝三番勝負① | 中押 | 藤沢朋斎九段△ |
3 | 1963年10月28日 | 第11期日本棋院選手権 本戦 | 中押 | 藤沢朋斎九段 |
4 | 1963年11月4日 | 第1期王座戦 決勝三番勝負② | 中押 | 藤沢朋斎九段 |
5 | 1963年11月13日 | 第11期日本棋院選手権 準決勝 | 中押 | 前田陳爾九段 |
6 | 1963年11月29日 | 第11期日本棋院選手権 挑戦者決定戦 | 中押 | 島村俊廣九段 |
7 | 1963年12月19日 | 第11期日本棋院選手権 挑戦手合① | 中押 | 高川秀格日本棋△ |
8 | 1964年1月2日 | 第11回NHK杯争奪囲碁トーナメント 1回戦 | 中押 | 半田道玄九段 |
9 | 1964年1月7日 | 第11期日本棋院選手権 挑戦手合② | 中押 | 高川秀格日本棋 |
10 | 1964年1月15日 | 第11期日本棋院選手権 挑戦手合③ | 3目半 | 高川秀格日本棋△ |
11 | 1964年2月6日 | 第3期十段戦 本戦 | 中押 | 大窪一玄七段 |
12 | 1964年2月13日 | 第1期十傑戦 本戦 | 中押 | 大竹英雄六段 |
13 | 1964年2月20日 | 第4期日本棋院第一位決定戦 挑戦手合① | 中押 | 大平修三九段 |
14 | 1964年2月27日 | 第1期十傑戦 本戦 | 中押 | 藤沢朋斎九段 |
15 | 1964年3月1日 | 第11回NHK杯 準決勝 | 中押 | 高川秀格九段△ |
16 | 1964年3月5日 | 第3期十段戦 本戦 | 1目半 | 橋本昌二九段△ |
17 | 1964年3月12日 | 第4期日本棋院第一位決定戦 挑戦手合② | 中押 | 大平修三九段△ |
18 | 1964年3月15日 | 第11回NHK杯 決勝 | 中押 | 藤沢秀行九段 |
19 | 1964年3月19日 | 第3期十段戦 本戦 | 7目半 | 佐藤直男九段△ |
20 | 1964年3月25日 | 第12期王座戦 本戦 | 中押 | 加田克司八段 |
21 | 1964年4月1日 | 第3期十段戦 本戦 | 中押 | 藤沢朋斎九段△ |
22 | 1964年4月7日 | 第1期十傑戦 決勝三番勝負① | 中押 | 高川秀格九段△ |
23 | 1964年4月11日 | 第1期十傑戦 決勝三番勝負② | 2目半 | 高川秀格九段 |
24 | 1964年4月21日 | 第19期本因坊戦 挑戦手合① | 1目半 | 高川秀格九段△ |
25 | 1964年5月1日 | 第19期本因坊戦 挑戦手合② | 中押 | 高川秀格九段 |
26 | 1964年5月13日 | 第19期本因坊戦 挑戦手合③ | 中押 | 高川秀格九段△ |
27 | 1964年5月25日 | 第19期本因坊戦 挑戦手合④ | 中押 | 高川秀格九段 |
28 | 1964年7月2日 | 第12期王座戦 本戦 | 中押 | 林海峯七段△ |
29 | 1964年7月29日 | 第3期旧名人戦 挑戦手合七番勝負① | 4目 | 藤沢秀行九段△ |
参照[5]
獲得タイトル
[編集]棋戦 |
三大タイトル |
他七大タイトル |
国際タイトル |
他大会 |
タイトル | 年 | ||
---|---|---|---|
優勝 | 1 | 最高段者戦 | 1951 |
優勝 | 2 | 日本棋院選手権戦 | 1954 |
優勝 | 3 | 日本棋院選手権戦 | 1955 |
優勝 | 4 | 日本棋院選手権戦 | 1956 |
優勝 | 5 | 最高位 | 1956 |
優勝 | 6 | 早碁名人戦 | 1956 |
優勝 | 7 | NHK杯 | 1957 |
優勝 | 8 | 日本棋院選手権戦 | 1957 |
優勝 | 9 | NHK杯 | 1958 |
優勝 | 10 | 囲碁選手権戦 | 1958 |
優勝 | 11 | 日本棋院選手権戦 | 1958 |
優勝 | 12 | 日本棋院選手権戦 | 1959 |
優勝 | 13 | NHK杯 | 1959 |
優勝 | 14 | 最高位 | 1959 |
優勝 | 15 | 最強位 | 1959 |
優勝 | 16 | 最強位 | 1960 |
優勝 | 17 | 日本棋院選手権戦 | 1960 |
優勝 | 18 | 最高位 | 1961 |
優勝 | 19 | 第一位戦 | 1961 |
優勝 | 20 | NHK杯 | 1961 |
奪取 | 21 | 本因坊 | 1961 |
奪取 | 22 | 王座 | 1961 |
優勝 | 23 | NHK杯 | 1962 |
防衛 | 24 | 本因坊 | 1962 |
優勝 | 25 | 第一位戦 | 1963 |
優勝 | 26 | 日本棋院選手権戦 | 1963 |
防衛 | 27 | 本因坊 | 1963 |
奪取 | 28 | 名人 | 1963 |
奪取 | 29 | 王座 | 1963 |
優勝 | 30 | 第一位戦 | 1964 |
優勝 | 31 | 十傑戦 | 1964 |
優勝 | 32 | 日本棋院選手権戦 | 1964 |
優勝 | 33 | NHK杯 | 1964 |
防衛 | 34 | 本因坊 | 1964 |
防衛 | 35 | 名人 | 1964 |
防衛 | 36 | 王座 | 1964 |
優勝 | 37 | 第一位戦 | 1965 |
優勝 | 38 | NHK杯 | 1965 |
防衛 | 39 | 本因坊 | 1965 |
奪取 | 40 | 十段 | 1966 |
防衛 | 41 | 本因坊 | 1966 |
奪取 | 42 | 王座 | 1966 |
防衛 | 43 | 十段 | 1967 |
防衛 | 44 | 本因坊 | 1967 |
優勝 | 45 | 十傑戦 | 1967 |
防衛 | 46 | 十段 | 1968 |
優勝 | 47 | 十傑戦 | 1969 |
奪取 | 48 | 王座 | 1970 |
防衛 | 49 | 王座 | 1971 |
優勝 | 50 | NHK杯 | 1972 |
奪取 | 51 | 十段 | 1972 |
優勝 | 52 | 日本棋院選手権戦 | 1972 |
防衛 | 53 | 王座 | 1972 |
防衛 | 54 | 十段 | 1973 |
優勝 | 55 | 日本棋院選手権戦 | 1973 |
優勝 | 56 | 日本棋院選手権戦 | 1974 |
優勝 | 57 | NHK杯 | 1976 |
優勝 | 58 | 日本シリーズ | 1976 |
優勝 | 59 | NHK杯 | 1977 |
優勝 | 60 | JAA杯 | 1979 |
優勝 | 61 | JAA杯 | 1980 |
優勝 | 62 | 早碁選手権戦 | 1981 |
優勝 | 63 | NHK杯 | 1982 |
優勝 | 64 | NEC杯 | 1983 |
タイトル歴
[編集]獲得タイトル
[編集]他の棋士との比較は、囲碁のタイトル在位者一覧 を参照。
タイトル | 番勝負 | 獲得年度 | 登場 | 獲得期数 | 連覇 | 名誉称号 |
名人 | 七番勝負 9-11月 |
1963-64年 | 6 | 2期 | 2 | |
本因坊 | 七番勝負 5-7月 |
1961-67年 | 10 | 7期 (歴代3位) |
7 | 23世本因坊 |
王座 | 五番勝負 10-12月 |
1961、63-64 66、70-72年 |
10 | 7期 (歴代2位タイ) |
3 | |
十段 | 五番勝負 3-4月 |
1966-68、72-73年 | 8 | 5期 (歴代3位タイ) |
3 | |
獲得合計21=歴代6位タイ |
|
|
- NHK杯テレビ囲碁トーナメント 1957-59、61-62、64-65、72、76-77、82年 11期(最多記録)(名誉NHK杯選手権者)
- 日本棋院最高段者トーナメント戦 1951年
- 四強リーグ戦 1952年
- 最高位戦 1955、59、61年
- 日本棋院選手権戦 1955-61、64-65、73-75年(名誉日本棋院選手権者)
- 早碁名人戦 1956年
- 囲碁選手権戦 1958
- 日本最強決定戦 1959、61(呉清源と同率1位)年
- 日本棋院第一位決定戦 1961、63-65年
- 三強リーグ戦 1962年(呉清源と同率1位)
- プロ十傑戦 1964、67、69年
- 日本シリーズ 1976年
- 日本アジア航空杯争奪トーナメント 1979-80年
- 早碁選手権戦 1981年
- NECカップ囲碁トーナメント戦 1983年
その他の戦績
[編集]- 呉対坂田三番碁 1948年 坂田(先相先) 0-3 呉
- 呉対坂田六番碁 1953年 坂田(先相先) 4-1-1ジゴ 呉
- 呉清源十番碁 1953-54年 坂田(先相先) 2-6 呉(8局目までで坂田先に打ち込まれ終了)
- 本因坊対呉清源三番碁 1961年 坂田 2-1 呉
- 棋聖戦 全段争覇戦優勝 1978年、九段戦優勝 1980年
- 大手合 乙組・第二部優勝 1937年後期、1938年前期、第一部優勝 1941年前期、1951、53、54年
- 日中囲碁交流
- 日中スーパー囲碁
顕彰
[編集]- 紫綬褒章 1980年
- 第32回NHK放送文化賞 1981年
- 勲二等瑞宝章 1990年
- 第6回東京都文化賞 1990年
- 文化功労者(囲碁界初) 1992年
- 秀哉賞 1963、1964、1972年
- 棋道賞最優秀棋士賞 1967、1972年
- 大倉賞 1988年
- 正四位 2010年
- 第16回囲碁殿堂 2019年
その他
[編集]- 1964年3月に「坂田本因坊名人の会」が有楽町読売ホールで開催、川端康成の賛辞が贈られ、高川格、藤沢秀行、林海峰、大竹英雄らの連碁に呉清源、藤沢朋斎の解説などが行われた。
- 1984年7月にNHKテレビで「この人 坂田栄男ショー」を放映、三遊亭圓楽の語り、ゲストに増淵辰子、江崎誠致などが出演した。
- 1988年3月9日、大河ドラマ武田信玄の第9回「女のいくさ」のOPの前の冒頭の解説部分で出演。
著作
[編集]- 『坂田の碁』(全6巻)平凡社 1963年(MYCOM囲碁文庫スペシャルとして2004年に復刊)
- 『勝つ-碁と根性』徳間書店 1965年
- 『坂田栄男(上)(下)』(現代の名局9・10)1968年 誠文堂新光社
- 『道知 (日本囲碁大系第5巻)』藤三男編、筑摩書房 1977年、1991年
- 『坂田栄男(上)(下)』(現代囲碁大系22.23)講談社 1980年
- 『坂田一代-勝負師の系譜』日本棋院 1984年
- 『坂田栄男全集 (全12巻)』日本棋院 1984年
- 『炎の坂田血風録-不滅のタイトル獲得史』平凡社 1986年
- 『坂田栄男 (現代囲碁名勝負シリーズ9巻)』講談社 1987年
- 『炎の勝負師 坂田栄男 (全3巻)』日本棋院 1991年
- 『坂田 珠玉詰碁』誠文堂新光社 1995年
- 坂田の囲碁シリーズ『碁の殺し屋 テクニックと防ぎ方』『碁の手筋と俗筋 筋と形をおぼえよう』『碁の布石戦略 布石でリードする方法』『碁の詰めとヨセ 碁の最終ラウンド』池田書店
棋風、その他
[編集]- ニックネームとして「カミソリ坂田」の他、「シノギの坂田」「なまくら坂田」「攻めの坂田」などある。
- 坂田の全盛期、山部俊郎はそのあまりの力の差を「坂田は遠くなりにけり」と言って嘆いた。また宮下秀洋は「坂田さんには、僕らは二子打たれるんじゃないですか」と述べている。その傑出した実績から「大坂田」と呼ばれることも多い。
- 高川格は坂田を苦手として多くのタイトルを奪われ、タイトル戦での対戦成績は坂田の14勝1敗になっている。また趙治勲は六段時に、日本棋院選手権で坂田への挑戦で2連勝後に3連敗して以降、坂田に12連敗し、大いに苦手とした。
- 坂田が名人本因坊となったのは43歳の時であり、名人戦で23歳の林海峰八段の挑戦を受けた際には「20代の名人などあり得ない」と語ったが、2勝4敗で名人を奪われる。続いて林海峰に本因坊他のタイトルも次々と奪われ、投了目前の局面で「名人も取られた。何もかも取られてしまった」とうめいたとされる。
- 林海峰は坂田について、大きなタイトルに的を絞る藤沢秀行と比較し、「あらゆる棋戦に全力投球、『ぜんぶ勝つ』というすごみがありました」と語っている。また「感想戦も絶対に譲らない。対局で負かされた相手は、同じ日に2度負かされる」「対局中の『参った』『弱った』というぼやきだけは信用なりませんでしたね」と、坂田の闘志満々の対局姿勢を回顧している[14]他、坂田自身、趙治勲について「どんなタイトルでもみんな取りに行くというバカな点も自分と同じ」とも言っている[15]。
- 1962-63年に『囲碁クラブ』誌上で文士指導碁を行い、作家達と交友が生まれた。特に近藤啓太郎とは親友と言える間柄だったが、近藤は65年に坂田をモデルにした小説「馬鹿な神様」を書き物議を醸した(1976年には『勝負師一代 碁界を戦慄させた坂田栄男の天才』を出す)。近藤の紹介で、碁を知らない吉行淳之介、梶山季之らへ碁の手ほどきもした。
代表局
[編集]坂田定石
[編集]1961年に本因坊戦で高川格に挑戦した七番勝負の第三局で坂田白番。左上の、目外しから白1とハサんで白7まで進む形は、このころ坂田が愛用した定石で、坂田定石と呼ばれた。白Aを一路右に高く打つ改良版も多く打った。シリーズはこの3局目まで坂田3連勝、第5局にも勝って4-1で本因坊位に就いた。
- 先番 本因坊秀格―坂田栄男
名人獲得の逆ノゾキ
[編集]1963年、坂田が藤沢秀行に挑戦する第2期名人戦の挑戦手合7局で、白番坂田の120手目△が妙手として後世にまで語り継がれている。ここまで互角の形勢で、ここからの終盤で中央の力関係で地の付き方が問題となりそうなところ、一間トビを逆ノゾキする(逆側からノゾくのが普通の発想であるため「逆ノゾキ」と呼ばれる)という手で優勢を築き、名人位獲得となった。解説を務めていた呉清源はこの手を「天来の妙手」と激賞し、藤沢はしばらく考えた後に「そんな馬鹿な」と呻いたという。
- 先番 藤沢秀行名人―本因坊栄寿(坂田栄男)
鬼手、下ツケ
[編集]- 第6期最高位戦挑戦手合 先番 藤沢秀行―坂田栄男
黒1から3と攻められた局面。白はaの点に穴があり、サバキが難しい状況。ここで坂田の白4が「鬼手」として語り伝えられる一手。もし黒bの受けなら、白c、黒d、白eと進出し、黒aの出には4の手が働いて白fで連絡できる。
黒は1と出て反発するが、白は2から6と隅の4子を取り込み、下辺とのフリカワリに持ち込む。ピンチであった白石が大威張りで生きたことは大きく、白はこの後aに構えて局面をリード。1目勝ちに持ち込んだ。 坂田によれば、この手は前から読んでいたという。
坂田はこの他にも鬼手妙手を数多く打っている。上村邦夫はその著書「鬼手」で、「鬼手は相手の失着から生じる場合が多いが、坂田の鬼手は無から有」と評している。
注
[編集]- ^ 『現代の名局6 呉清源(下)』(誠文堂新社)P.128
- ^ 『現代の名局 10 坂田栄男(下)』誠文堂新光社 P.246
- ^ a b c d 『現代の名局10 坂田栄男(下)』(誠文堂新光社)P.257
- ^ 『サンケイグラフ』1955年1月30日号、産業経済新聞社。
- ^ a b “囲碁界の連勝記録について”. 日本棋院 (2017年6月27日). 2018年12月8日閲覧。
- ^ 『炎の坂田血風録』(平凡社)P.232
- ^ 優勝10回で資格を得る。囲碁でこの称号を得たのは坂田のみ。将棋では2012年に羽生善治が称号の有資格者となった。
- ^ 『炎の坂田血風録』(平凡社)P.282
- ^ 『碁ワールド』2000年3月号
- ^ 囲碁の坂田栄男・二十三世本因坊が死去 読売新聞 2010年10月22日閲覧
- ^ 『碁ワールド』2011年1月号
- ^ 坂田栄男、趙南哲が囲碁殿堂入り(第16回囲碁殿堂表彰)日本棋院 2019年10月26日閲覧
- ^ 公式戦のみ。女流棋戦・地方棋戦(王冠戦・関西棋院第一位決定戦など)は除く。
- ^ 坂田栄男さんを悼む 棋士・林海峰「勝負への執念 常に」(朝日新聞) - ウェイバックマシン(2016年7月11日アーカイブ分)
- ^ 上村邦夫『鬼手』河出書房新社 1999年
参考文献
[編集]- 江崎誠致『石の鼓動』双葉社 1973年
- 近藤啓太郎『勝負師一代 碁界を戦慄させた坂田栄男の天才』ブックマン社 1976年
- 「坂田からくち清談」(『棋道』1993年4月-1994年5月号)
- 中山典之『昭和囲碁風雲録(下)』岩波書店(2003年)
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]記録 | ||
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先代 高川格 |
七大タイトル最多獲得 1966年 - 1986年 |
次代 加藤正夫 |