赤堀全子
赤堀 全子(あかほり まさこ、本名:赤堀房江、1907年11月8日 - 1988年3月4日)は、日本の料理研究家[1][2]。放送開始の最初期からNHK『きょうの料理』に関わり[3]、赤堀栄養専門学校校長なども歴任した[1][2]。赤堀割烹教場(現・赤堀料理学園)4代目[4]。
経歴
[編集]赤堀割烹教場(赤堀料理学園の前身)を1882(明治 15)年に創設した赤堀峯吉(初代)[5]の孫である赤堀峯吉(3代) の長女として、東京に生まれる[1][2]。初代峯吉は、親が営んでいた掛川宿の料理屋が1832(天保 3)年の大火で焼失したため、江戸に出て修業したのち、1860(万延元)年に45歳で日本橋元大工町(現・中央区八重洲一丁目4、日本橋二丁目1・2)に割烹店を開業、67歳で赤堀割烹教場を開設した[4]。2代目峯吉は初代の長男(熊右衛門)、3代目はその長男(松太郎)で、全子はのちに4代目として赤堀家初の女性教場長となる[4]。なお、初代の長女赤堀菊(喜久)の息子吉松は 1901(明治34)年から1931(昭和6)年まで宮内省の大膳に勤めた[4]。
1925年に東京府立第五高等女学校(後の東京都立富士高等学校・附属中学校の前身)を卒業し、1926年には佐伯栄養学校(後の佐伯栄養専門学校の前身)を卒業した[1][2]。同年4月、牛込高等女学校割烹科講師となり、1928(昭和3)年には赤堀割烹教場の講師となる[4]。
1931年には、後に後継者となった息子、赤堀有宏を産んだ[2][6]。有宏の妻がのちの校長・赤堀千恵美である。
第二次世界大戦後、戦時下で中断していた赤堀割烹教場を再開し、1956年には赤堀割烹学校を開校して校長となり、後に赤堀料理学園と改称した[1]。
この間、1957年に放送が始まったテレビの料理番組、NHK『きょうの料理』には、放送開始の最初期から関わり、「御飯の炊き方」や「だしのとり方」といった基礎技術を取り上げていた[3]。
1988年3月4日、死去。享年80歳。同年(1988年)には、全子の次女・永子が5代目として赤堀学園赤堀栄養専門学校の校長に就任。[4]。
おもな著書
[編集]単著
[編集]- 『西洋料理の作り方』愛隆堂(実用入門叢書)、1956年
- 『日本料理の作り方』愛隆堂(実用入門叢書)、1956年
- 『中華料理の作り方』愛隆堂(実用入門叢書)、1956年
- 『家庭料理:春夏秋冬』柴田書店、1957年
- 『日本料理10週間』柴田書店、1960年
- 『酒のさかな』池田書店、1961年
- 『家庭料理十二ヶ月』文陽社、1961年
- 『家庭料理上達の基本』文陽社、1962年
- 『絵本料理のコツ百科:日本料理の巻』大門出版、1970年
- 『おいしい鍋もの』大門出版(おいしいシリーズ)、1974年
- 『私の家庭料理』柴田書店、1979年
- 『おすし・まぜご飯』家の光協会、1979年
共著
[編集]- (赤堀峯吉との共著)『実習中華料理全書』文晃書院、1950年
- (赤堀峯吉との共著)『実習基本調理』文晃書院、1951年
- (河野貞子との共著)『行事料理・おやつ・飲みもの』家の光協会(家の光料理シリーズ)、1962年
共編著
[編集]- 「世界の家庭料理」中央公論社
- 日本料理、1960年
- 中国料理1、1959年
- 中国料理2、1960年
- 西洋料理1、1959年
- 西洋料理2、1960年
- パーティー料理とカクテル、1960年
脚注
[編集]- ^ a b c d e 20世紀日本人名事典『赤堀 全子』 - コトバンク
- ^ a b c d e デジタル版 日本人名大辞典+Plus『赤堀全子』 - コトバンク
- ^ a b 河村明子「料理番組:昔といま」『日本調理科学会誌』第34巻第1号、2001年2月20日、118-122頁、doi:10.11402/cookeryscience1995.34.1_118、NAID 110001170115。
- ^ a b c d e f 今井美樹「1882(明治15)年創立の赤堀割烹教場における調理教育と女性の活躍」『学苑』第845号、昭和女子大学近代文化研究所、2011年3月、42-57頁、ISSN 13480103、NAID 110008668253。
- ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus『赤堀峯吉(初代)』 - コトバンク
- ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus『赤堀有宏』 - コトバンク