下条康麿
下条 康麿 しもじょう やすまろ | |
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生年月日 | 1885年1月20日 |
出生地 | 長野県東筑摩郡松本 |
没年月日 | 1966年4月25日(81歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法科大学政治学科卒業 |
所属政党 |
(無所属→) (緑風会→) 自由民主党 |
称号 |
従二位 勲一等旭日大綬章 第一回国勢調査記念章 紀元二千六百年祝典記念章 経済学博士 |
子女 | 長男・下条進一郎(厚生大臣) |
親族 | 孫・下条みつ(衆議院議員) |
第65代 文部大臣 | |
内閣 | 第2次吉田内閣 |
在任期間 | 1948年10月19日 - 1949年2月16日 |
選挙区 | 全国区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 |
1947年5月3日 - 1950年5月2日 1956年7月8日 - 1962年7月7日 |
在任期間 | 1940年12月3日 - 1947年5月2日 |
下条 康麿(下條 康麿[1]、しもじょう やすまろ、1885年(明治18年)1月20日 - 1966年(昭和41年)4月25日)は、日本の政治家、内務官僚、統計学および社会学者。貴族院議員、参議院議員(2期)、文部大臣(第65代)。
厚生大臣を務めた下条進一郎は長男、衆議院議員の下条みつは孫にあたる。
来歴・人物
[編集]長野県東筑摩郡松本生まれ。旧松本藩御典医(120石、贈従五位)下条通春の孫にして医師下条鋼吉の二男[2]。
府立一中[3]、第一高等学校[4]を経て、1909年(明治42年) 東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、内務省入省。
最初の見習い期間は警保局の属であった。地方行政に携わり、佐賀県学務課長を経て、1912年(大正元年) 内閣書記官に就任する。後に参議院議長を務めた河井彌八はこのときの同僚である。その後、内務省に戻り、統計局で勤務。
1923年(大正12年) 内閣恩給局長、翌1924年(大正13年) 内閣統計局長を兼務し、1925年(大正14年) 第二回国勢調査を実施、関東大震災後の国勢調査に当たる。日本の人口増加など人口問題に関心を持った下条は、勤務の傍らに大学で統計学と人口問題を研究し、社会政策に研究が及んだ。下条の研究は、論文「日本社会政策的施策史」としてまとめられ、1931年(昭和6年) 経済学博士号を授与された。
1929年(昭和4年) 濱口雄幸内閣の賞勲局総裁に抜擢される。当時の賞勲局は、下条の前任者である天岡直嘉にからむ売勲事件があり、汚職事件によって評判が地に堕ちていた。下条は、1940年(昭和15年)まで足掛け11年にわたり、賞勲局総裁を務め、厳正かつ公正に職務を全うし、同局の建て直しに尽力した。賞勲局総裁を辞した後、功績により、1940年12月3日、貴族院議員に勅選される[5][6]。戦時中も東京大学で統計学の研究を続け、1944年(昭和19年) 日本大学に教授として招聘され、統計学や社会政策論の講義をする。
戦後、日本国憲法により貴族院が廃止され、新たに参議院が発足すると1947年(昭和22年)第1回参議院議員通常選挙に全国区から立候補し当選する。下条は同じ無所属で当選した河井彌八、松平恒雄、佐藤尚武、田中耕太郎、高橋龍太郎、山本有三らと語らって緑風会を結成する。1948年(昭和23年) 第2次吉田内閣の文部大臣に就任するが、翌1949年(昭和24年) 法隆寺金堂焼失に伴い、引責辞任する。
また、1946年(昭和21年)10月5日、大陸同胞救援聯合会会長に就任し、葫芦島在留日本人大送還などの在満邦人の帰国事業に助力する[7]。
大臣辞任後、下条は、郡山女子短期大学の学長に迎えられ、この間、統計学、社会政策研究も怠ることなく、日本統計学会会長、日本人口学会初代会長、日本家族計画連盟会長にも就任している。また、農地改革によって没落した旧地主層に対する補償を求め、全国解放農地国家補償連合会長にも押された(のち同様の他団体と合同して全国農地解放者同盟)。八大龍王大自然愛信教団顧問にも就任している。1956年(昭和31年)よりふたたび参議院議員(1期6年)。
1966年(昭和41年)4月25日死去。81歳。死没日をもって正三位から従二位に叙される[1]。墓所は豊島区駒込の染井霊園。
著書に「社会政策の理論と施設」「日本社会政策的施設史」がある[6]。
栄典
[編集]- 1916年(大正5年)1月19日 - 勲五等瑞宝章[8]
- 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[9]
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[10]
- 1964年(昭和39年)11月4日 - 銀杯一組[11]。
- 1966年(昭和41年)4月25日 - 従二位
家族・親族
[編集]猪野三郎監修『第十版 大衆人事録』(昭和9年)シ六七頁によれば、
系譜
[編集]通春━━鋼吉━━康麿━━進一郎━━みつ
脚注
[編集]- ^ a b 『官報』第11812号15-16頁 昭和41年4月28日号
- ^ 猪野三郎監修『第十版 大衆人事録』(昭和9年)シ六七頁より
- ^ 『東京府立第一中学校五十年史』(如蘭会編、1929年)
- ^ 『日本官僚制総合事典 1868-2000』(東京大学出版会・秦郁彦編著、2001年) 高等文官試験合格者の項目を参照
- ^ 『官報』第4174号、昭和15年12月4日、p.120
- ^ a b 『政治家人名事典』(日外アソシエーツ株式会社、1990年)264頁
- ^ 『敵中突破五千キロ 満州暴れ者』(森川哲郎、徳間書店、1972年8月31日)
- ^ 『官報』第1038号「叙任及辞令」1916年1月20日。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 『官報』第11369号8-9頁 昭和39年11月4日号
公職 | ||
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先代 吉田茂(臨時) |
文部大臣 第70代:1948年 - 1949年 |
次代 高瀬荘太郎 |
議会 | ||
先代 木内四郎 |
参議院議院運営委員長 1948年 |
次代 村上義一 |
先代 新設 |
参議院決算委員長 1947年 - 1948年 |
次代 奥主一郎 |