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池真理子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三日月美夜子から転送)
1948年

池 真理子(いけ まりこ、1917年1月2日 - 2000年5月30日)は、ジャズラテンフォルクローレ歌手京都府生まれ。宝塚音楽学校卒業。愛称は「アイク」。なお、サインや後年のテレビ出演のテロップでは池眞理子となっている。宝塚歌劇団24期生宝塚歌劇団在団時の芸名は三日月美夜子である。

略歴

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1917年(大正6年)1月2日、京都の万寿寺生まれだが、実家は僧ではなく、父親はその婿養子で京都帝国大学の学生だった[1]。生後6か月で父が結核で亡くなり、母は女学校教員となったため、祖父母の手で養育された。

平安女学院に入学したが、友達の家出に付き合ったことから祖父の怒りを買い、京都高等女学校に転校させられる[1]。卒業後、母の薦めで1934年(昭和9年)宝塚少女歌劇団(現在の宝塚歌劇団)に入団した。同期生に天城月江寶登茂子らがいる。「三日月美夜子」の芸名で声楽専科に在籍するも、一向に芽が出なかった。

友人に誘われて、初めて行った東山のダンスホールジャズの魅力にとりこになり、親族の反対を押し切り、1937年(昭和12年)に宝塚少女歌劇団を退団する。

その後、ジミー原田に師事して東山ダンスホールで、歌うコンダクター(指揮者)として、人気を博するも1940年(昭和15年)にダンスホールが閉鎖した。その後、三島一声一色皓一郎の推薦で佐々木俊一の内弟子となり、翌年ビクターから「君と別れて」(一色との共唱)でレコードデビューする。さらに第2弾「青いリボンのお嬢さん」も吹き込まれたものの、リボンが検閲にひっかかり、発売中止に。そのことなどもあり、ニッチク(戦時中の日本コロムビア)へ移籍。慰問隊員として全国を回る。

終戦を迎え、レコード会社でも早速アメリカ調の曲を発売することになり、池に白羽の矢が立ち、コロムビアから改めて「愛のスウヰング」でデビューした。大ヒットし、「スウィングの女王」と呼ばれるようになり、その後も「センチメンタル・ジャーニー」「愛の散歩」「ボタンとリボン」など、洋楽または洋楽調のヒットを連発した。特に「ボタンとリボン」は、歌詞の”Buttons and bows"を日本語読みで「バッテンボー」と歌って流行語になるほどヒットした。

私生活では、作詞家の鈴木アラン勝鈴木大拙の養子)と結婚し、一女(セラピストの池麻耶)を儲けるが、アランに女ができ1959年(昭和34年)に離婚した。

1960年(昭和35年)に渡米した。娘を知人である米人夫婦に預け、全米各地を回る。8か月後、ラテン系の新リズム「パチャンガ」を土産に帰国した。

そしてラテン音楽に目覚め、それから8年間ラテンに専念した。

1965年宝とも子らと日本ラテン音楽協会(現在の日本ラテンアメリカ音楽協会/アムラン)を設立。

1970年から1971年(昭和45から46年)頃より、フォルクローレに興味を持ち始め、1973年(昭和48年)には本場ペルーの首都リマで単独コンサートを催した。また和製フォルクローレ曲「インカ王女の子守唄」も披露した。

その後も、音楽の道への追究は続き、1980年代にはロシア音楽に興味を持ち、「百万本のバラ」などを原語で披露するまでに至る。歌手生活40周年コンサートでは都都逸まで歌った。

また、1982年(昭和57年)からは二葉あき子並木路子安藤まり子柴田つる子と「コロムビア五人会」を立ち上げ、老人ホーム慰問からハワイ公演、演劇まで幅広く活動した。

1995年には、デビュー50周年記念で、並木路子岡本敦郎とそれぞれ新曲を発売し、健在振りをアピールした。なお、池・並木・岡本の3人は、同じコロムビアに所属し、デビューも同期(彼らが戦後第1号の歌手デビュー)であった。このことは、池や並木が、後年出演したテレビ番組の中で自ら語っている。

最晩年までテレビ・ラジオ・舞台に活躍し続けたが、2000年(平成12年)5月28日、ホテルのパーティーでのセッションで「センチメンタル・ジャーニー」を歌っている最中に倒れ、同月30日にクモ膜下出血で死去した。83歳没。

愛称はアイク。(名字〈IKE>、及びアイゼンハワー米大統領のニックネームから)

エピソード

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  • 「(ジャンルにこだわらず)良い歌を歌いたい」が口癖で、「良い歌があると聞けば南極でも行ってしまうような人」と親交の深かった二葉あき子は語っている。実際アメリカ、ロシア、ペルーなどに留学している。
  • ヒット曲「愛の散歩」は仮題は「まり子ブギ」というものであったが、何らかの事情から改題発売/延期となった。吹き込みは笠置シヅ子の「東京ブギウギ」発売前であり、もし諸事情がなければ「ブギの女王」は笠置では無かった可能性がある。なお「愛の散歩」作曲の平川英夫は、服部良一の高弟である。
  • 「東京ブギウギ」作詞時、夫であった鈴木勝がなかなか詞が書けず、池が手伝い、曲を聴きながら大部分を作詞した。
  • 長崎の鐘」吹き込みは最初、池でとレコード会社は考えていたが、歌詞を見た池は「『長崎の鐘』は永井隆博士のご心境を歌ったものであるから、男の人が歌うべき。」と思い、尊敬していた藤山一郎へ吹き込みを切望し、会社側を説得。自身は母の気持ちを歌ったB面「いとし吾が子」を吹き込んだ。

代表曲/持ち歌

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夫・鈴木勝とともに(1949年)
  • 愛のスウヰング
  • 愛の散歩
  • ダリアの恋
  • ボタンとリボン - 発売当時の売上は30万枚[2]の大ヒット
  • センチメンタル・ジャーニー
  • チョグイ鳥(パラグアイ民謡)
  • 百万本のバラ
  • コンドルは飛んで行く
  • 黒と白のニンバ
  • 恋星
  • インカ王女の子守唄
  • アルレキーノ(道化者)
  • 祇園ブギ
  • あなたがくれたオルゴール
  • 丘の小さな青い屋根
  • いとし吾が子
  • 長崎の鐘

NHK紅白歌合戦出場歴

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年度/放送回 曲目 対戦相手
1952年(昭和27年)/第2回 恋の街角で[注釈 1] 宇都美清
1953年(昭和28年)/第3回 祇園ブギ 竹山逸郎
1953年(昭和28年)/第4回 星降る渚 笈田敏夫
1955年(昭和30年)/第6回 あなたがくれたオルゴール 真木不二夫
1956年(昭和31年)/第7回 どうして嫌と云えましょう 津村謙
1957年(昭和32年)/第8回 黒と白のニンバ 三浦洸一
  • このうち、第6回・第7回・第8回はラジオ中継による音声が現存する。

テレビ

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『愛のスウヰング』とする説あり。

出典

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  1. ^ a b 『東京ブギウギと鈴木大拙』山田奨治、人文書院 (2015/4/7)p98-
  2. ^ 丘灯至夫『歌暦五十年』全音楽譜出版社、1954年、560頁。NDLJP:1353828/309

外部リンク

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