「塚田十一郎」の版間の差分
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現在の[[新潟県]][[上越市]]に、農業・塚田亀之助の六男として生まれる。<!-- 苦学の末、 --><!-- 出典を確認できません -->[[新潟県立高田高等学校|新潟県立高田中学校(現在の同県立高田高等学校)]]を経て[[1928年]]、[[東京商科大学 (旧制)|東京商科大学]]([[一橋大学]]の前身)を卒業<ref>[{{NDLDC|1441606/149}} 『東京商科大学一覧 昭和3年度』]第十 学士試験合格者及卒業者姓名271頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年7月25日閲覧。</ref>。[[昭和金融恐慌]]後の不況により就職活動は難航、やがて伝をたどって[[小橋一太]](元[[文部大臣]])の居候兼書生となる。[[1931年]]、小橋の紹介により[[東京外国語学校 (旧制)|東京外国語学校]]の事務局に入る。生徒課の窓口業務を担当していた頃、社用による外国語原書の翻訳依頼に訪れていた[[鹿島建設|鹿島組]]の[[鹿島守之助]]と知り合い、人物を認められる。その後助教授となり、[[民法]]などを講義していた。 |
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[[長崎大学|長崎高商]]事務官に転じていた[[1938年]]、鹿島守之助のスカウトにより鹿島組に入社。監査役まで昇進する。戦後間もない頃、ある人物の紹介で[[田中角栄]]に会って意気投合し、政界進出を促す。やがて成り行きで自分も立候補することになり、[[1946年]][[第22回衆議院議員総選挙]]に[[日本自由党 (1945-1948)|日本自由党]]公認で旧新潟2区より出馬し、鹿島組の資金援助もあって当選を果たす。以後連続8回当選。 |
2020年12月30日 (水) 08:56時点における版
塚田 十一郎 つかだ じゅういちろう | |
---|---|
生年月日 | 1904年2月9日 |
出生地 | 新潟県高田町 |
没年月日 | 1997年5月23日(93歳没) |
出身校 | 旧制東京商科大学(一橋大学の前身) |
前職 |
旧制東京外国語学校助教授 鹿島組監査役 |
所属政党 |
(日本自由党→) (民主自由党→) (自由党→) (自由民主党→) (無所属→) 自由民主党 |
称号 | 勲一等旭日大綬章 |
親族 |
塚田徹(長男、元衆議院議員) 塚田一郎(五男、元参議院議員) |
選挙区 | 新潟県選挙区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 |
1968年7月8日 - 1974年7月7日 1976年12月12日 - 1983年7月9日 |
第5代 郵政大臣 | |
内閣 | 第5次吉田内閣 |
在任期間 | 1953年5月21日 - 1954年12月10日 |
第3代 自治庁長官 | |
内閣 | 第5次吉田内閣 |
在任期間 | 1953年5月21日 - 1954年12月10日 |
第11代 行政管理庁長官 | |
内閣 | 第5次吉田内閣 |
在任期間 | 1953年5月21日 - 1954年12月10日 |
選挙区 |
(旧新潟2区→) 旧新潟4区(中選挙区) |
当選回数 | 8回 |
在任期間 | 1946年4月11日 - 1961年11月 |
その他の職歴 | |
第45・46代新潟県知事 (1961年12月10日 - 1966年3月28日) |
塚田 十一郎(つかだ じゅういちろう[1]、1904年(明治37年)2月9日 – 1997年(平成9年)5月23日[2])は、日本の弁護士、政治家(参議院議員[2]、衆議院議員[2])。郵政大臣、新潟県知事などを歴任した。
来歴・人物
現在の新潟県上越市に、農業・塚田亀之助の六男として生まれる。新潟県立高田中学校(現在の同県立高田高等学校)を経て1928年、東京商科大学(一橋大学の前身)を卒業[3]。昭和金融恐慌後の不況により就職活動は難航、やがて伝をたどって小橋一太(元文部大臣)の居候兼書生となる。1931年、小橋の紹介により東京外国語学校の事務局に入る。生徒課の窓口業務を担当していた頃、社用による外国語原書の翻訳依頼に訪れていた鹿島組の鹿島守之助と知り合い、人物を認められる。その後助教授となり、民法などを講義していた。
長崎高商事務官に転じていた1938年、鹿島守之助のスカウトにより鹿島組に入社。監査役まで昇進する。戦後間もない頃、ある人物の紹介で田中角栄に会って意気投合し、政界進出を促す。やがて成り行きで自分も立候補することになり、1946年第22回衆議院議員総選挙に日本自由党公認で旧新潟2区より出馬し、鹿島組の資金援助もあって当選を果たす。以後連続8回当選。
大蔵政務次官、衆院予算委員会長などを務め、1953年5月、第5次吉田内閣にて郵政大臣兼自治庁長官兼行政管理庁長官として入閣を果たす。この時、吉田茂が塚田と灘尾弘吉の何れを入閣させるべきかと大野伴睦に相談した際、官僚嫌いの大野が灘尾入閣に強く反対して塚田を推したという一幕があり、これを機に大野派入りする。しかし大野側近の神田博と感情的な対立が生じ、大野とも距離が生じる。すると今度は旧緒方竹虎派の番頭格であった石井光次郎に接近し、石井を次期総理総裁候補として売り出すのに一役買った(「石井派」という言葉を初めて使ったのは塚田だといわれている[4])。その甲斐があってか、石井と石橋湛山との2位・3位連合が成功して石橋政権が発足すると、塚田は政務調査会長として党三役入りするが、あえなく2ヶ月で政権は瓦解。
1961年、新潟県知事に当選すると、1963年に高度成長産業誘致を主眼とした「新潟県総合開発計画」を策定、新潟東港建設や、江戸時代からの悲願であった信濃川の関屋分水事業を推進した。1965年、再選されるが、自民党所属県会議員らへの贈賄(20万円中元事件)が発覚し、翌1966年3月に辞任する。
その後再び国政の場に転身し、1968年より参議院議員に計3回当選した。1974年、勲一等旭日大綬章受章。1997年5月23日に死去。93歳没。
エピソード
- 1964年の新潟地震の時、塚田は東京に出張していた。上越新幹線もない時代(開業はこの20年後)で長時間を掛けてやっとの思いで新潟入りした塚田は作業着のまま被災者の避難所へ向かい「こんなことになってしまって…ほんとうに…」とだけ言うと絶句し、やがてすすり泣いた。その姿にもらい泣きをした被災者も多かったという。
- 信濃川の関屋分水路開削工事を進めるために、関屋地区に在った旧新潟競馬場の廃止と豊栄町(当時。のちに豊栄市を経て現新潟市北区)への新築移転に関わった経緯もあり、事業完成後の競馬場跡地の一角に設置された関分公園に建立された「新潟競馬場跡の碑」の揮毫を行っている[5]。
家族・親族
子に元衆議院議員の塚田徹と、元参議院議員の塚田一郎(母は十一郎の後妻・常喜)がいる。
脚注
参考文献
- 『東京商科大学一覧 昭和3年度』丸善、1927年。
公職 | ||
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先代 北村一男 |
新潟県知事 第3代:1961年 - 1966年 |
次代 亘四郎 |
先代 高瀬荘太郎 |
郵政大臣 第5代:1953年 - 1954年 |
次代 武知勇記 |
先代 本多市郎 |
自治庁長官 第3代:1953年 - 1954年 |
次代 西田隆男 |
先代 本多市郎 |
行政管理庁長官 第11代:1953年 - 1954年 |
次代 西田隆男 |
議会 | ||
先代 増原恵吉 |
参議院内閣委員長 1977年 - 1978年 |
次代 桧垣徳太郎 |
先代 小坂善太郎 |
衆議院予算委員長 1951年 - 1952年 |
次代 太田正孝 |
党職 | ||
先代 水田三喜男 |
自由民主党政務調査会長 第2代:1956年 - 1957年 |
次代 三木武夫 |