日本/log20230829
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- 日本国[注 1]
- 日本国
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(国旗) (国章(慣例上)) - 国の標語:特になし
- 国歌:
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公用語 日本語(事実上[1]) 首都 東京都(事実上[2]) 最大の都市 東京特別区(23区を一つの自治体と見なす場合[3]) 建国 諸説あり
日本神話による初代・神武天皇即位の日(辛酉年1月1日)をグレゴリオ暦に換算すると紀元前660年2月11日[5]。通貨 円(JPY) 時間帯 UTC+9 (DST:なし) ISO 3166-1 / ccTLD 不明 国際電話番号 81
日本国(にほんこく、にっぽんこく、英: Japan)、または日本(にほん、にっぽん)は、東アジアに位置し、日本列島[注 2]および南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などからなる民主制国家[1][2]。首都は東京都。
気候は四季の変化に富み、国土の多くは山地で、人口は沿岸の平野部に集中している。国内には行政区分として47の都道府県があり、大和民族・琉球民族・アイヌ民族・外国人系の人々などが居住し、事実上の公用語として日本語が使用される[3]。
内政においては、明治維新後の1889年に大日本帝国憲法を制定し立憲国家となった。その後、第二次世界大戦後の1947年には国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を謳う現在の日本国憲法を施行。先進国の一つとして数えられており、OECD、G7、G8およびG20の参加国である。外交においては、1956年から国際連合に加盟しており、国連中心主義を採っている[4]。
概要
ユーラシア大陸の東縁に位置する島国である。自然地理的には環太平洋造山帯を構成する[5]。領土全体が島嶼であり、地続きの国境は存在しない。
大陸からの移住と独自文明の形成
離島も含めて6,848(時代により変動)の島を有する日本列島[6]には、最終氷期で大陸と陸続きになっていた約10万年前以前~約3.5万年前に人が移住した。その後、最終氷期が終わると日本列島と大陸の間の氷河は解け、海で隔離された。隔離後の日本列島は、大陸との交流が難しく、地形が険しく、得られる資源も少なく、地震や台風や火山噴火などの自然災害が多かったが、移住者は大陸や朝鮮半島の文化を受容しつつ、日本列島に適した文明を新たに築き上げた。その過程で、定住集落、農業、地震に耐えうる高度な建築技術が現れた。アニミズムや祖先崇拝から生まれた民族宗教である神道や渡来した仏教が古くから広く信仰された。
国(クニ)の形成と朝廷の発足
国の形成は大陸から農業が移入された弥生時代に同時多発的に始まった。7世紀に国号を日本に改めるまでは倭国と称した。この時代の日本列島では複数の豪族が土地を分割して統治しており、統一国家は成立していなかった。各国を治める豪族は、国の規模を問わず自身が日本全体の代表である事を示すために、対外的に倭国の王を名乗る例が多かった。
倭国の住人は倭人という名称で、倭国よりも遥かに記録技法が発達していた中国の書物に記録された。弥生時代の中期から後期にかけて書かれた中国の後漢書が初出で、西暦57年に名称不詳の奴国の王が後漢に朝貢し、続いて西暦107年に倭国の王である帥升が後漢に朝貢し、どちらも貢物の見返りとして中国皇帝に謁見を請うたことが記録された。その後、2世紀後半に多数の国の間で倭国大乱が起き、戦乱を収めるために邪馬台国の卑弥呼が倭国の統一的な女王の座に就いた。しかし、卑弥呼の死後に男子が王の座についたことで再び戦乱が起きるようになった。3世紀に中国で書かれた魏志倭人伝は、現代に伝わる内で最も早期の上代日本語の書物となり、邪馬台国の卑弥呼の存在も記録された。3世紀には近畿地方において王(のちの大王)を中心とするヤマト王権が成立し、後の朝廷の礎となった。大化の改新を経て、7世紀には国号を日本国に改め、7世紀後半の天武天皇の時代に天皇を中心とした政治体制が成立し、天皇親政が開始され、律令の編纂が開始された。同時に、中国の優れた制度も次々に取り入れていった。律が完成する以前、不完全ではあるが、668年に近江令、689年に飛鳥浄御原令が制定・実施されている。8世紀最初の年となる701年に大宝律令が制定・実施され、日本で初めて完全な律令制が導入された。また、元号が継続的に使用され、都城が造営された。平安時代に入ると、藤原氏が天皇に代わって政権を執る摂関政治も行われた。
武家政権の盛衰と開国
平安時代末期より武家政権が成立し、以来数百年に渡って幾度も交替した。鎌倉時代には、元寇と呼ばれる、モンゴルからの世界最大の艦隊による2度の侵攻により占領の危機に晒されるも、元軍は日本の武士の攻撃と、海上で突然襲われた強い風や嵐により壊滅した。さらに中世にはキリスト教が伝わった。江戸時代に至ってキリスト教を危険視した江戸幕府が交際国を限定する鎖国を行い、1820年代から1830年代にかけて外圧への反発として尊王攘夷論が提唱されるに至るが、外圧に屈する形でついに1859年に開国した。これにより大量運搬が可能な西洋の蒸気船が日本に寄港できるようになると、団扇、扇子、浮世絵、それらで用いられた印刷技術、陶磁器、漆器など、日本の大衆向けの生産物が西洋に伝わり、西洋文化に大きな影響を与えるジャポニスムが起こる。1851年、西洋との圧倒的な国力差を見せ付けられた事で、機械制工業、鉄道網整備、資本主義育成を柱とする殖産興業が開始された。1854年のペリーの来航では、日本に電信機が贈られ、日本初の電気通信が試験的に行われたが、幕末の混乱で、1869年になるまでは普及を開始しなかった。1878年には日本初のベル式1号電話機が作られ、1890年に電話サービスが開始された。
天皇親政の再開と帝国主義の始まり
このような異文化交流が行われ、急速な近代化が行われた。開国後も国内では尊王攘夷論が根強く残っており、1850年代から外国人襲撃・殺害事件が多発するようになった。1867年には大政奉還と王政復古が行われて武家政権は終焉し、太政官制の採用で天皇親政の国民国家を目指す明治維新が開始された。1880年代には尊王攘夷論を礎として南進論や北進論の提唱が始まる。1885年に内閣制度が発足して太政官制は廃止された。1890年には外見的立憲主義に基づく大日本帝国憲法が施行され、天皇中心の近代国家建設が進められた。1894年に、立憲後初めての対外戦争である日清戦争が開戦した。この後も、アジアの覇権を握るために、国家全体として対外的な攻撃性を強めてゆく。続いて、明治維新以来の藩閥政治打倒が叫ばれ、大正デモクラシーと呼ばれる立憲主義・民本主義を求める運動が起こった。この結果男子普通選挙や憲政の常道が実現した。海外を意識し、国民国家の枠組みが作られた。
帝国主義から市場競争への転換
20世紀に入り、帝国主義は更に過激化した。北進論に基づき中国大陸に侵攻し、日露戦争後、満州や華北等を勢力圏に組み込んだ。中国との関わりが深くなる中で、日本文化と中国文化の関係性が盛んに分析された。
1930年代から日本政府は「武力による南進論」を唱え、1938年に、日本に存在する全てを政府が統制運用する事を定めた国家総動員法が制定された。1940年にオセアニアや東南アジア島嶼部への進駐を開始した。1941年、東條内閣の御前会議による決定で太平洋戦争が勃発した後、アメリカとの戦力差から日本の戦況は次第に不利となった。南方の島嶼ではアメリカ軍に包囲された日本兵によるバンザイ突撃も行われた。フィリピンの戦い,硫黄島の戦い,沖縄戦は太平洋戦争における最も激しい陸上戦闘として有名である。最終的には、アメリカによる広島と長崎への原爆投下が決定打となり、ポツダム宣言を受託した。この時、日本は世界で唯一の核兵器による被爆国となった。
戦後、GHQの指令によって大日本国憲法を改正する形式により、日本国憲法が制定されて民主主義が復活する。天皇は国事行為のみを行う国および国民統合の象徴となり、戦争放棄も定められ、日本は憲法上軍隊を保持しないこととなった。戦後復興期に経済的な急成長を遂げ、白物家電の三種の神器が憧れの対象となり、モータリゼーションも急速に進んだ。1954年に、日本初のモーターショーである全日本自動車ショウが行われた。復興特需が収束すると、1956年の経済白書は「もはや『戦後』ではない」と産業構造の変革を説いた。1960年代からは高度経済成長期に入り、各種機械メーカーが成長し、工業化が加速し科学技術立国が推進された結果、一億総中流を実現する経済大国にもなった。機械の導入により都市部には高層ビルが多数建設され、オフィスワーカーが急増した。国家の経済発展を支えるために金融機関の護送船団方式も現れた。サラリーマンという就業形態が浸透し、旧日本軍の兵士の働き方を参考にした企業戦士という概念が現れ、日本の屋台骨として企業のために尽くす働き方が奨励された。また、流通する情報量が増大したため、日本でもテレックスやメインフレームといった最初期のITの導入が始まった。国家が豊かになったことで新婚旅行ブームが起き、新婚旅行が日本人の新たな作法となった。特に熱海や八丈島や沖縄が「日本のハワイ」と呼ばれ、一般人の新婚旅行や団体旅行でも人気になった。この当時は、海外旅行には月収の数倍から10倍以上の費用が掛かるため、海外旅行代金の積み立てが必要とされた。沖縄と比較して特筆すべき特徴のない熱海や八丈島は、海外旅行の低価格化と趣味嗜好の多様化により忘れ去られていった。1964年に海外渡航の自由化が行われ、海外旅行を行う日本人が急増した。日本国民が一致団結して実現した急速な経済成長の結果、1965年からアメリカで対日貿易赤字が生じ始めたことで日米貿易摩擦が起きた。1964年に東京オリンピック、1970年には大阪万博を開催した。1972年に田中角栄が日本列島改造論を提唱し、高速道路・新幹線・本州四国連絡橋などの高速交通網の敷設を進めた。1973年に起きたオイルショックで安定成長期に移行し、1977年には日本初の気象衛星であるひまわり1号がアメリカのケープカナベラル空軍基地から打ち上げられて定常運用を開始し、1979年には海外でジャパン・アズ・ナンバーワンという著書が発表される程に日本的経営の成功が注目された。海外では、官民が団結した様子が日本株式会社や日本型社会主義と言うモデルで説明されたが、実際には政府が部分的に市場介入する修正資本主義であった。1980年代、品質の高さから、日本製品の世界的人気は最高潮を迎えた。この当時、日本のIT業界ではインターネット時代の先取りとも言える試みを数多く行っている。1980年代初頭、電電公社が各家庭からテレビと電話回線でサービスを利用できるニューメディアの提唱を開始した。しかし、技術の限界からコンテンツの利用価値が低く、接続コストも高かったため、シェアは伸びなかった。1988年にINSネットが実用化されると、その技術はインターネットでISDNとして活用された。国家プロジェクトとして、第二次AIブームを受けて1982年に第五世代コンピュータが、ソフトウェアクライシスを受けて1985年にΣプロジェクトがそれぞれ開始された。しかし、この2つのプロジェクトの成果物は実用的な製品とならず、失敗に終わった。その後に民間企業主導でニューロ・ファジィブームが起きるが、これらは各種の社会インフラや家電製品として一定の成果を収めた。1985年のプラザ合意の後、円高不況を経て1988年にはバブル景気が訪れた。建設業界は莫大な利益を得たことで、建設費を投じる対象として高さ1000mを超えるハイパービルディングを提唱し、都市機能をまるごと1つの建物に収めようとした。同時期には、空前の好景気により、正社員にならずとも十分な賃金が得られる事からフリーターブームも始まった。戦後継続して、日本国内では仕事がある都会に移住して集合住宅に居住する者が増え、地域のコミュニティが衰退していった。戦後の貧しい状況から一転、飽食の時代を迎え、日本の外食業界では焼肉や石焼ビビンバやナポリタンなどの海外の食文化のアレンジが多数考案された。
現代 (1990年代以降)
バブル崩壊後の低成長と個人主義の台頭
1990年3月の総量規制が引き金となって起きたバブル崩壊後は低成長期に入り[7]、富の集中が進んで格差社会となった。就職氷河期に移行し、個人主義と就職難が相まって、大量のフリーターや無業者を生み出し、後の社会で就職氷河期世代と呼ばれるようになった。しかし、企業戦士という考え方は根強く残り、種々の開発は推進された。1990年代以降はデジタル化が進み、作業の自動化によって便利な暮らしを享受できるようになり、市場競争によって様々なニーズに応じて直ぐに使える形でパッケージ化された製品を購入することで生活できるようになった。
テロリズムと自然災害
技術革新により生活が便利になったことで、かつての状況からは想像できないほどに治安は安定し、事件発生件数が昭和初期から継続して減少傾向にはある[8]。その状況下で、社会に衝撃を与える数多くの事件や自然災害が起きている。1995年1月、阪神・淡路大震災が起き、神戸の市街地が甚大な被害を受けた。1995年3月、世紀末かつ不景気の世の中で終末論を用いて信者を増やしてきた新興宗教団体オウム真理教が首都・東京都で毒ガス兵器サリンを用いた組織的なテロを起こした。
産業競争力の低下
バブル崩壊が起きた1990年以降、様々な戦略の誤りが重なり、産業トレンドの動きが激しくなったBtoCの分野では完全に世界シェアを奪われてしまった。
日本人は伝統的に、他者とのすり合わせと、細部に渡る作り込みが得意であるとされる[9]。この特長を活かし、産業トレンドの変化が緩やかだった1990年代までの日本は工業製品の品質で世界でも抜きん出た存在感を示していた。しかし、その後グローバリゼーションが進むと共に、より安価で必要十分な性能を持つ海外製品が登場した。20世紀末のIT革命でITを基軸として産業トレンドに急速な変化が起きるようになると、日本はすり合わせと作り込みが重荷となって産業トレンドの変化に追従できなくなり、海外に遅れを取るようになった。ITではPC-98やガラケーのような日本独自規格の製品を作り続け、IT企業としてはカスタムメイドのシステムを製造するシステムインテグレーターが隆盛したものの、世界標準の確立が重要なITでは見当違いな努力となった。その間にもPC/AT互換機やWindows95やインターネットの登場で、海外のITプラットフォームが世界に浸透し、デファクトスタンダードになった事で、日本はITにおける世界的影響力を失った。20世紀末の世界的なIT革命の中で、日本国内でもアメリカの技術を積極的に導入する動きが起きた。同時期に日本は人口オーナス期に突入し、生産性の低下が始まった。その後2000年代後半にネット通販が普及し、各企業が低賃金化を進めたことで、日本市場で自動車が売れなくなり、日本最大の自動車イベントである東京モーターショーでも来場者数が減少し、2010年代に入り海外企業の出展数が皆無になった。この傾向は日本に限った話ではなく、急速に経済成長を続ける中国を含めたアジアやASEAN諸国以外では世界的に自動車の販売数減少が続き、欧州や米国のモーターショーでも他国企業の出展は殆ど無くなっている[10]。
バブル崩壊後、日本のモノ作りが評価されなくなって行く中で、太陽光発電では一時の盛り上がりを見せた。1992年に住宅の屋根にソーラーパネルが初搭載され、1993年にソーラーパネルの一般販売が開始された[11]。1996年には300kWが出力可能な松山太陽光発電所が実証研究として稼働を開始した。2002年から2007年にかけてNEDOの「集中連系型太陽光発電システム実証研究」[12]が行われ、2006年からNEDOによるメガソーラー発電の実証研究[13]が始まった。この研究の実証実験として、2007年3月に北海道稚内市で日本初のメガソーラー発電所(最大出力は5020kW)が稼働を開始した。2008年には排出炭素量削減の必要性から日本政府も太陽光発電の導入支援を開始した。この当時は太陽光発電の導入量については世界一の水準にあったが、後に日本政府による導入支援が打ち切られ、導入量でドイツとスペインに追い抜かれた。2009年に、長らく与党であり続けた自民党が政権としての腐敗を指摘され、民主党に政権交代した。2011年3月には東日本大震災が起き、宮城県や福島県などの沿岸部が大津波で襲われた。東京電力が管理する福島第一原子力発電所は地震に加えて大津波が直撃して大破した上に、東京電力が状況を楽観視し、原子炉温存のために廃炉処置を遅らせたことでメルトダウンが起きた。以降、日本政府は原子力発電の危険性を重く見て、再生可能エネルギーを重視した政策を行うようになった。民主党政権は、これら震災への対応の悪さや基地問題等で内閣支持率が低下し、2012年の衆議院議員総選挙において大敗し、下野した。2011年から再生可能エネルギーの開発が急速に進められた結果、2015年頃には日本全国で多数の商業用メガソーラー発電所が完成した。
自民党政権・安倍内閣のアベノミクスにより2010年代後半になって日本経済は一定水準まで持ち直した。2017年になって安倍内閣によって長時間労働を改める働き方改革が開始された。2010年代を通して、2020年東京オリンピックに向けて、東京都を中心に施設の整備も進められている。先進国が軒並み高齢化社会を迎え、国際協調の風潮も急速に高まり、サステナビリティ,日本再興,SDGsというキーワードが流行している。
既に始まっている人口オーナス期において、人手による経済成長に期待できなくなってきた事から、Society5.0のような、完全自動化により経済成長を目指す動きが始まっている[14]。
音楽
明治時代より西洋音楽の影響下にはあり、戦後は笠置シズ子,美空ひばり,山口百恵,中島みゆき,ピンク・レディー,松田聖子などが歌謡曲の流行歌を生み出していたが、1980年代初頭からシティ・ポップが流行する中で歌謡曲は徐々に人気を失い、バブル期に空前のディスコブーム,バンドブームを迎える中で洋楽の模倣に日本的な要素を加味して享楽性も強めたJ-POPが主流となった。特に、当時海外で最先端だったテクノ、ハウス、R&B、ヒップホップなどの現代的なブラックミュージックは日本でも模倣されて大流行した。先駆者としては、久保田利伸、小室哲哉、電気グルーヴ、スチャダラパーなどが昭和歌謡ともロックとも異なるダンサブルなスタイルを普及させていた。その他にも渋谷系の流れも現れた。1990年代はCDバブルと呼ばれた時代で、ミリオンヒット作品が多数発表された。それ以後は、モノ消費からコト消費へのシフトが起こり、音楽作品が売れなくなった代わりに、ライブの売上は大きく伸び、ライブの演出に派手で大掛かりな仕掛けが用意されることも多くなった。
1990年にデビューした女性アイドルグループの東京パフォーマンスドールから、大人数による激しいダンスパフォーマンスが行われるようになった。
1989年にデビューしたDREAMS COME TRUEは大規模コンサートツアーのフォーマットを確立した事で有名である。1995年に日本初の大規模な屋外コンサートツアーを敢行した。日本各地の空き地を貸し切って巨大なセットを設営してツアーを行う試みは1990年代では非常に画期的で、後の屋外コンサートのフォーマットを作った。1999年には日本初のドームツアーを敢行した。2003年には1日を通してライブを行い、休憩用のフードエリアとして地元の名店などの屋台を設置した。1日中ライブイベントを行うシステムは業界の注目を集め、他のイベントの企画でも参考にされた。ライブの内容自体も、ファンタジックな演出の中、ボーカルがワイヤーに吊られて空を飛び、ステージが可動して会場後方の座席に近づき、花火も打ち上げるなど、J-POPの中でもかなり自由奔放で異彩を放っている。
1997年のフジロックフェスティバル初開催より様々な大型ロック・フェスティバルが日本で開催されるようになり、サマーソニック,ライジング・サン・ロックフェスティバル,ROCK IN JAPAN FESTIVALも併せて、日本4大ロックフェスと呼ばれるようになった。これらロックフェスでは開催を経るごとにJ-POP全般を扱うようになった。いずれも販売開始直後にチケットが売り切れる程の人気があり、毎年夏に恒例のイベントとなった。J-POP自体は洋楽の模倣から始まり、日本人向けに特化して来たため、世界的人気は得られていない。しかし、動画共有サイトなどでJ-POPの一部が認知され、海外のイベントに出演する日本人ミュージシャンは限られているが増加傾向にはある。
コンテンツ供給メディアの変化は遅れており、海外ではサブスクリプションが前提となりパッケージメディアを購入することが殆どなくなったが、日本では未だにパッケージメディアが売れている状況にある。
日本人が得意とする緻密な物作りは電子楽器の製作にも活かされており、YAMAHA,Roland,KORG,AKAIなど、多数のメーカーが世界的なシェアを獲得している。
ネオ・ジャポニスムと観光立国化
2000年代中盤からは、日本語、和食、ファッション、アニメ、漫画、ゲーム、アニメソング、シティ・ポップ、絵文字など、独自に進化した大衆文化がインターネット経由で海外から再発見され、世界中で日本文化が流行するネオ・ジャポニスムを引き起こした。変わり種的な扱いではあるが、世界中で日本文化にまつわるイベントが開催される他、海外からの観光客も増加している。日本政府もこの動きに注目し、外貨獲得のためクールジャパンと称して日本文化を海外に売り出すようになった。様々な後押しを受け、日本国内の文化的な活動も活性化し、特にアニメや漫画のイベントは世界最大級にまで成長した。コミックマーケットはアニメ・漫画を扱うイベントの起源に当たり、1975年から毎年夏と冬に行われて続けており、同人誌即売会やアニメキャラコスプレの起源でもある。2016年、キズナアイの登場により、アニメキャラクターはVRと結びついてVTuberというジャンルを生んだ。
国難の時代の始まり(2010年代末)
2010年代末、経済政策と外交政策が難局を迎えている。世界ではITの台頭でゼロベースな事業展開がトレンドになる中で、日本全体として高度経済成長期に作られた古い構造から中々抜け出せない状況が続いている。日本は1990年代に人口オーナス期に入り[15]、生産性の低い高齢者が経済成長の妨げになり、2010年代には労働者不足により中小企業が倒産し始めた。政界においては、相次ぐ不祥事による政治そのものへの信用失墜を招き、政権の短期的な交代が相次いだ。結果として短期的に成果が挙がる分かりやすい政治が求められ、政府は支持率獲得のために一般大衆には訴求力を持たない研究予算をアメリカの研究予算の7分の1程度まで減額した。しかし、それらの近視眼的な施策は世界標準から乖離しており逆効果であった。2019年には金融審議会「市場ワーキング・グループ」により、年金制度が崩壊し、人生100年時代を迎えたことを前提に、各世帯の平均で2,000万円の貯蓄が必要であると発表され各界で物議を醸した[16]。日本政府は、米中貿易戦争が起き、2つの超大国が真正面から争う状況が生じてもアメリカのみに追随する姿勢を続けている。トランプ政権の外交政策を受けて、日本政府は2019年に、安全保障に関わる戦略物資を北朝鮮に横流しした韓国に対する輸出管理を厳格化した。この時、日本にとって影響がない弱い立場の国に対して厳しい経済制裁を課すことで、国際社会から高く評価されてきた「ルールベース」「多国間主義」の姿勢を崩したため、アメリカの有識者からも大局的に判断するべきとの批判が相次いだ[17]。地球温暖化の影響で異常気象が日常化し、甚大な災害が発生することが多くなり、自衛隊の災害派遣も頻繁に行われるようになった[18]。
将来
2020年代以降、出生数が減り、医療の進歩で寿命が伸びることで、人類史上初めてとなる極端な超高齢社会(厳しい人口オーナス期)を迎える。それに伴い、破局的な事態が予測されている。直近では「2022年危機」が予測されており、2022年以降、高齢化に伴う社会保障の圧迫や労働者不足,老朽化したインフラの崩落事故,税金額の高騰など様々な問題が顕著に現実化することが想定されている[19]。その上、最も楽観的に考えて、労働人口や資本ストックの減少で2030年代から恒常的なマイナス成長に転じるという予測が行われている[20]。この未曾有の状況は、既存の社会学,経済学では全く考慮されていない。問題の根本解決については時間が大幅に不足し、現状出来る限りの手を尽くすしか無い状況である。AI研究者の大澤昇平(東京大学特任准教授)は、『AI救国論』の中で「労働人口の減少を、産業用ロボットによって代替することが可能になる」という説を論じている[14]。地球温暖化に伴う日本近海の海水温の上昇で、日本は亜熱帯の気候になり、気象条件も過酷さを増す(専門的にはシビア・ウェザーと呼ぶ)と予想されている[18][21]。日本政府は2050年頃の社会モデルとしてSociety 5.0を提唱し、エネルギー効率が高く、人間の労力も大幅に低減する超スマート社会の実現を目指している[22][23]。初歩的な段階としては、社会モデルの具体化を2030年までに完了することを目指している。2060年代からは全世界的に人口オーナス期に突入して行くが、2020年代以降の日本はその最初の事例として他国から動向を注目されている。日本で人口オーナスへの対策が成功すれば、2060年代以降に世界が日本の先駆的事例に学ぶ状況が生まれている可能性があり、この状況は新たなビジネスチャンスにもなり得る[24]。しかし、その後も少子化による日本人の人口減少が止まらなかった場合、3000年には日本人の人口が2000人になるという試算結果が発表されている[25]。この試算結果は3000年以前に日本国が消滅する事を意味している。
国号
「日本」という漢字による国号の表記は、日本列島が中国大陸から見て東の果て、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来するのではないかとされる[26]。近代の二つの憲法の表題は、「日本国憲法」および「大日本帝国憲法」であるが、国号を「日本国」または「日本」と直接かつ明確に規定した法令は存在しない。[疑問点 ]ただし、日本工業規格 (Japanese Industrial Standard) では日本国、英語表記をJapanと規定。更に、国際規格 (ISO) では3文字略号をJPN、2文字略号をJPと規定している。また、日本国外務省から発給される旅券の表紙には「日本国」の表記と十六一重表菊[27] を提示している。法令で日本を指し示す表記には統一されておらず日本、日本国、本邦、わが国、などが混在している。
日本語の表現
発音
「にっぽん」、「にほん」と読まれる。どちらも多く用いられているため、日本政府は正式な読み方をどちらか一方には定めておらず、どちらの読みでも良いとしている[28]。
7世紀の後半の国際関係から生じた「日本」国号は、当時の国際的な読み(音読)で「ニッポン」(呉音)ないし「ジッポン」(漢音)と読まれたものと推測される[29]。いつ「ニホン」の読みが始まったか定かでない。仮名表記では「にほん」と表記された。平安時代には「ひのもと」とも和訓されるようになった。
室町時代の謡曲・狂言は、中国人に「ニッポン」と読ませ、日本人に「ニホン」と読ませている。安土桃山時代にポルトガル人が編纂した『日葡辞書』や『日本小文典』等には、「ニッポン」「ニホン」「ジッポン」の読みが見られ、その用例から判断すると、改まった場面・強調したい場合に「ニッポン」が使われ、日常の場面で「ニホン」が使われていた[30]。このことから小池清治は、中世の日本人が中国語的な語感のある「ジッポン」を使用したのは、中国人・西洋人など対外的な場面に限定されていて、日常だと「ニッポン」「ニホン」が用いられていたのでは、と推測している[31]。なお、現在に伝わっていない「ジッポン」音については、その他の言語も参照。
近代以降も「ニッポン」「ニホン」両方使用される中、1934年には文部省臨時国語調査会が「にっぽん」に統一して外国語表記もJapanを廃してNipponを使用するという案を示したこともあったが、不完全に終わった。同年、日本放送協会(NHK)は「放送上、国号としては『にっぽん』を第一の読み方とし、『にほん』を第二の読み方とする」旨の決定をした[32]。
その後現在も両方使用されており、2009年6月30日に政府は、「『にっぽん』『にほん』という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はない」とする答弁書を閣議決定している[28]。
現在、通商や交流の点で自国外と関連のある紙幣、切手などには「NIPPON」と描かれ(紙幣発券者も「にっぽんぎんこう」である)ているほか、NHK、日本テレビ[33]、ニッポン放送、日本武道館、全日本空輸、近畿日本鉄道、西日本鉄道、日本体育大学、日本郵便、NEXCO東日本・NEXCO中日本・NEXCO西日本[注 3]、日本電気、日本電信電話、日本郵船、日本通運、NTT東日本[33]・NTT西日本[33]などで「NIPPON」(にっぽん)表記を用いる一方、「NIHON」(にほん)表記を用いる例は、日本大学、日本航空、日本経済新聞、日本たばこ産業、JR東日本・JR西日本、日本ユニシス、日本相撲協会、日本交通、日本オリンピック委員会、NTT東日本、などがある。日本経済新聞が2016年に行った調査によると、社名に「日本」が含まれる上場企業の読み方は、「にほん」が60%、「にっぽん」が40%であり、「にっぽん」と読ませる企業の比率が増加傾向にあった。テレビ番組名では「にっぽん」が使われることが多くなってきている[34]。なお、日本国憲法の読みについて、内閣法制局は、読み方について特に規定がなく、どちらでもよいとしている[35]。憲法制定の際、読みについての議論で担当の金森徳次郎国務大臣は「ニホン、ニッポン両様の読み方がともに使われることは、通念として認められている」と述べており、どちらかにはされなかった[32]。
日本のオリンピック選手団は入場行進時のプラカード表記を英語表記の『JAPAN』としているが、1912年の初参加となったストックホルムオリンピックの選手団のみ『NIPPON』の表記を使っていた[36]。
東京と大阪にある橋の名称と地名になっている日本橋は、東京(及び旧江戸)の日本橋は"にほんばし"、大阪の日本橋は"にっぽんばし"とそれぞれ読む。
日本の政党名における読みは、次のとおり(国会に複数の議席を有したことのある政党)。
- 「ニッポン」
- 「ニホン」
別称
古くから多様である。
- 和語
- あきつしま - 「秋津(あきつ)」は、「とんぼ」の意。孝安天皇の都の名「室秋津島宮」に由来するとされる。
- 「秋津島」
- 「大倭豊秋津島」(『古事記』本州の別名として)
- 「大日本豊秋津洲」(『日本書紀』神代)
- あしはらなかつくに - 「葦原」は、豊穣な地を表すとも、かつての一地名とも言われる。
- 「葦原中国」(あしはらのなかつくに)(『古事記』、『日本書紀』神代)
- 「豊葦原(とよあしはら)」
- 「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)」(『古事記』)
- 「豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちいほあきのみずほのくに)」(『日本書紀』神代)
- うらやすのくに - 心安(うらやす)の国の意。
- 「浦安国」(日本書紀・神武紀)
- おおやしま - 国生み神話で、最初に創造された八個の島で構成される国の意。古事記では順に淡路島:四国:隠岐:九州:壱岐:対馬:佐渡:本州。
- 「大八島」「太八島」
- 「大八洲」(『養老令』)
- 「大八洲国」(『日本書紀』神代)
- くわしほこちたるくに - 精巧な武器が備わっている国の意。
- 「細矛千足国」(日本書紀・神武紀)
- しきしま - 「しきしま」は、欽明天皇の都「磯城島金刺宮」に由来するとされる。
- 「師木島」(『古事記』)
- 「磯城島」「志貴島」(『万葉集』)
- 「敷島」
- たまかきうちのくに
- 「玉牆内国」(日本書紀・神武紀)
- 「玉垣内国」(『神皇正統記』)
- ひのいづるところ - 遣隋使が煬帝へ送った国書にある「日出處」を訓読したもの
- 「日出処」(隋書)
- ひのもと - 雅語でこう読むこともある[37]。
- ほつまのくに
- 「磯輪上秀真国(しわかみの:ほつまのくに)」(日本書紀・神武紀)
- みづほのくに - みずみずしい稲穂の実る国の意。
- 「瑞穂国」
- やまと - 大和国(奈良県)を特に指すとともに日本全体の意味にも使われる。『古事記』や『日本書紀』では「倭」「日本」として表記されている。魏志倭人伝等の中国史書では日本(ヤマト)は「邪馬臺」国と借音で表記されている。また『日本書紀』では「夜摩苔」とも表記されている。「日本」の国号が成立する前、日本列島には、中国の王朝から「倭国」・「倭」と称される国家ないし民族があった。『日本書紀』は、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、時間と共に「倭」が「大倭」になり「大和」へと変化していく。その後に更に「大和」を「日本」に変更し、これを「ヤマト」と読んだとする[38] が、『旧唐書』など、これを疑う立場もある。
- 漢語
- 「倭」「倭国」「大倭国(大和国)」「倭奴国」「倭人国」の他、扶桑蓬莱伝説に準えた「扶桑」[39]、「蓬莱」などの雅称があるが、雅称としては特に瀛州(えいしゅう)・東瀛(とうえい)と記される[40]。このほかにも、「東海姫氏国」「東海女国」「女子国」「君子国」「若木国」「日域」「日東」「日下」「烏卯国」「阿母郷」(阿母山・波母郷・波母山)などがあった。
- 「皇朝」は、もともと中原の天子の王朝をさす漢語だが、日本で天皇の王朝をさす漢文的表現として使われ、国学者はこれを「すめみかど」ないし「すめらみかど」などと訓読した。「神国」「皇国」「神州」「天朝」「天子国」などは雅語(美称)たる「皇朝」の言い替えであって、国名や国号の類でない。「本朝」も「我が国」といった意味であって国名でない。江戸時代の儒学者などは、日本を指して「中華」「中原」「中朝」「中域」「中国」などと書くことがあったが、これも国名でない。「大日本」と大を付けるのは、国名の前に大・皇・有・聖などの字を付けて天子の王朝であることを示す中国の習慣から来ている[注 4]。ただし、「おおやまと」と読む場合、古称の一つである。「帝国」はもともと「神国、皇国、神州」と同義だったが、近代以後、"empire"の訳語として使われている。大日本帝国憲法の後、「大日本帝国」の他、「日本」「日本国」「日本帝国」「大日本」「大日本国」などといった表記が用いられた。戦後の国号としては「日本国」が専ら用いられる[注 5]。
- 倭漢通用
- 江戸初期の神道家である出口延佳と山本広足が著した『日本書紀神代講述鈔』[41] に、倭漢通用の国称が掲載されている。
- 「倭国」
- 「和面国」
- 「和人国」
- 「野馬台国」、「耶摩堆」
- 「姫氏国」、「女王国」
- 「扶桑国」
- 「君子国」
- 「日本国」
その他の言語
- 英語での公式な表記は、Japan(ジャパン)。形容詞はJapanese(ジャパニーズ)。略記は、JPNが用いられる。JAP(ジャップ)は、侮蔑的な意味があるので注意が必要である[注 6]。Nippon(ニッポン)が用いられる例も見られ、具体的には、UPU等によるローマ字表記(1965年以降)、郵便切手や日本銀行券などでNippon表記を用いている。略称は、NPNが用いられる。
- その他、各言語で日本を意味する固有名詞は、アン チャパイン(愛: an tSeapáin)、ヤーパン(独: Japan)、ジャポン(仏: Japon)、ヤパン(蘭: Japan)、ハポン(西: Japón)、ジャッポーネ(伊: Giappone)、ヤポニヤ(波: Japonia)、ヤポーニヤ/イポーニヤ[注 7](露: Япония)、イープン(泰: ญี่ปุ่น)など、特定の時期に特定の地域の中国語で「日本国」を発音した「ジーパングォ」を写し取った(日本語読みの「ジッポン」に由来するとの説もある)、ジパング (Xipangu/Zipang/Zipangu) ないしジャパング (Japangu) を語源とすると考えられる。
- 漢字文化圏においては、ジーペン(中: Rìběn;日本)[注 8]、イルボン(朝: 일본;日本)、ニャッバーン(越: Nhật Bản;日本)[注 9] など、「日本」をそのまま自言語の発音で読んでいる。
- 欧州発行の古地図上での表記
- 「CIPANGU」1300年頃[42]
- 「IAPAM」1560年頃[43]
- 「IAPAN」1567年頃[44]
- 「IAPAM」1568年頃[45]
- 「JAPAN」発行年不明[46]
- 「IAPONIAE」1595年[47]
- 「IAPONIA」1595年[48]
- 「IAPONIÆ」1595年[49]
- 「IAPONIA」1598年[50]
- 「IAPONIA」1598年[51]
- 「IAPAO」1628年[52]
- 「Iapan」1632年[53]
- 「IAPONIA」1655年[54]
- 「IAPON」発行年不明[55]
- 「Iapan」1657年[56]
- 「IAPONIA」1660年頃[57]
- 「NIPHON」1694年頃[58][注 10]
- 「JAPAM」1628年[59]
- 「YAPAN」1628年[60]
- 「IAPON」17世紀[61]
- 「IMPERIUM IAPONICUM」18世紀初[62]
- 「IMPERIUM IAPONICUM」1710年頃[63]
- 「IAPONIA」18世紀初[64]
- 「IAPON」1720-30年[65]
- 「IMPERIVM JAPONICVM」1727年[66]
- 「HET KONINKRYK JAPAN」1730年頃[67]
- 「JAPANIÆ REGNVM」1739年[68]
国号の由来
概説
日本では、大和政権が統一以降に自国を「ヤマト」と称していたようであるが、古くから中国や朝鮮は日本を「倭」と呼んできた。石上神宮の七支刀の銘や、中国の歴史書(『前漢書』『三国志』『後漢書』『宋書』『隋書』など)や、高句麗の広開土王の碑文も、すべて倭、倭国、倭人、倭王、倭賊などと記している。そこで大和の代表者も、外交時には(5世紀の「倭の五王」のように)国書に「倭国王」と記すようになった[69]。
しかし中国との国交が約120年に渡って中絶した後、7世紀初期に再開された時には、『日本書紀』では「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」、『隋書』には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」とする国書を日本側が渡した記述があり、従来のように倭と称する事を避けている。中国側では『旧唐書』の「東夷伝」に初めて日本の名称が登場し、「日本国は倭国の別種なり。其の国、日の辺に在るを以ての故に、日本を以て名と為す」「或いは曰く、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す」「或いは曰く、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併す」のように、倭が名称を日本に変えた理由を説明している[70]。また、『新唐書』においては「国日出ずる所に近し、以に名をなす」とあり、隋書の「日出処天子」と共通している。
この7世紀には、遣隋使に続いて遣唐使がしばしば派遣されているが、いつから「倭」に変えて「日本」を国号と変えたのかは明らかでない[71]。使者の毎回の交渉について詳しく記述している『日本書紀』も、8世紀に国号としての日本が確立した後の書物であり、原資料にあった可能性のある「倭」の字を、国号に関する限りすべて「日本」と改めている。それ以外の文献では、733年(天平5年)に書かれた『海外国記』の逸文で、664年(天智3年)に太宰府へ来た唐の使者に「日本鎮西筑紫大将軍牒」とある書を与えたというが、真偽は不明である。結局確かなのは『続日本紀』における記述であり、702年(大宝2年)に32年ぶりで唐を訪れた遣唐使は、唐側が「大倭国」の使者として扱ったのに対し、「日本国使」と主張したという。『旧唐書』の「東夷伝」の記事も、この日本側の説明に基づいているようである[72]。
詳細
『日本書紀』では日本の初代天皇の神武天皇は神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)と言われ、饒速日命は「虚空見つ日本の国」と日本を呼んだ。
『新羅本紀』では「670年、倭国が国号を日本と改めた」とされている。「倭」と「日本」の関係について、『日本書紀』によれば、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「日本」に変更し、当初はこれを「ヤマト」と読んだとする[38]。
「日本」という国号の表記が定着した時期は、7世紀後半から8世紀初頭までの間と考えられる。この頃の東アジアは、618年に成立した唐が勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。斉明天皇は658年臣の阿倍比羅夫に、外国である粛慎(樺太)征伐を命じている。663年の白村江の戦いでの倭国軍の敗戦により、唐は使者を倭国に遣わし、唐と倭国の戦後処理を行っていく過程で、倭国側には唐との対等関係を目指した律令国家に変革していく必要性が生じた。これらの情勢を契機として、668年には天智天皇が日本で最初の律令である近江朝廷之令(近江令)を制定した。そして672年の壬申の乱を経て強い権力を握った天武天皇は、天皇を中心とする体制の構築を更に進め、689年の飛鳥浄御原令から701年(大宝元年)の大宝律令の制定へと至る過程において国号の表記としての「日本」は誕生したと考えられる。
具体的な成立の時点は、史料によって特定されていない。ただし、それを推定する見解は2説に絞られる。
(1) 第一説は、天武天皇の治世(672年 - 686年)に成立したとする説である[73]。これは、この治世に「天皇」の号および表記が成立したと同時期に「日本」という表記も成立したとする見解である。例えば吉田孝は、689年の飛鳥浄御原令で「天皇」表記と「日本」表記と両方が定められたと推測する[74][注 11]。
(2) もう一説は、701年(大宝元年)の大宝律令の成立の前後に「日本」表記が成立したとする説である。例えば神野志隆光は、大宝令公式令詔書式で「日本」表記が定められたとしている[75]。ただし、『日本書紀』の大化元年(645年)七月条には、高句麗・百済からの使者への詔には「明神御宇日本天皇」とあるが、今日これは、後に定められた大宝律令公式令を元に、『日本書紀』(720年(養老4年)成立)の編者が潤色を加えたものと考えられている[76]。
8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」からの遣使(遣唐使)があったと記されている[77]。後代に成立した『旧唐書』[78][79]、『新唐書』[80] にも、この時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(武則天、大周)へ伝えられたとの記述がある。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とする。国号の変更理由については「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」という日本国側からの説明を記載するものの、倭国と日本国との関係については、単なる国号の変更ではない可能性について言及している。すなわち、『旧唐書』は「小国だった日本が倭国を併合した」とし、『新唐書』は、日本の使者は「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪った」と言っているが疑わしいとしており[注 12]、同書でも、日本は、隋の開皇末(600年頃)に初めて中国と通じた国であり、古くから交流のあった倭国とは別と捉えられている。また、日本の王の姓は阿毎氏であること、筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となったことなどが記載されている。いずれにせよ、これらの記述により、702年に初めて「日本」国号が唐によって承認されたことが確認できる。
これまでに発見されている「日本」国号が記された最古の実物史料は、開元22年(734年、日本:天平6年)銘の井真成墓誌である[注 13]。但し2011年7月、祢軍という名の百済人武将の墓誌に「日本」の文字が見つかったという論文が中国で発表された。墓誌は678年制作と考えられており、もしこれが事実であるならば日本という国号の成立は従来説から、さらに遡ることになる[81]。
『旧唐書』・『新唐書』等を理由として「日本」国号は、日本列島を東方に見るという中国大陸からの視点に立った呼称であるとする説がある[82]。平安時代初期に成立した『弘仁私記』序にて、日本国が中国に対して「日の本」、つまり東方に所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度に渡って行われた『日本書紀』の講読の様子を記す『日本書紀私記』諸本においても中国の視点により名付けられたとする説が採られている[注 14]。
『隋書』東夷伝に、倭王が隋皇帝への国書に「日出ずる処の天子」と自称したとあり、このときの「日出ずる処」という語句が「日本」国号の淵源となったとする主張もある。しかし、「日出ずる処」について、仏典『大智度論』に東方の別表現である旨の記述があるため、現在、単に文飾に過ぎないとする指摘もある[83]。
歴史
日本の歴史 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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東京奠都以降を東京時代(1868年 – )とする説もある。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
各時代の始期・終期は諸説ある。各記事を参照のこと。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Category:日本のテーマ史 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
通常、日本の歴史は、日本列島における歴史と同一視される。しかし、厳密な「日本」の成立は、国号にあるように7世紀後期であり、それまでは「倭国」と呼び記されていた。この倭国がどのような地理的範囲あるいは系統的範囲をもつ集団であるかについては史料に明確にされておらず、多くの学術上の仮説が提出されている。倭国と日本国との関係は諸説あり、「日本の歴史」と「日本列島の歴史」とを明確に区別して捉えるべきとする考えも示されている[84]。
(1) 考古学上は、旧石器時代(先土器時代)、縄文時代、弥生時代、歴史時代、とするのが一般的である。
一方、(2) 歴史学上は、古代(古墳時代から・飛鳥時代・奈良時代・平安時代)、中世(鎌倉時代・室町時代・戦国時代)、近世(安土桃山時代・江戸時代)、近代(明治維新から1945年8月14日まで)および現代(1945年8月15日以降)の五分法が通説である[85]。
日本の黎明
日本列島における人類の歴史は、次第に人が住み始めた約10万年前以前ないし約3.5万年前に始まったとされる[注 15]。当時の日本列島は、アジア大陸と陸続きで[注 16]、西方の華北や北方のシベリアとの文化交流も見られた。約3万年前には朝鮮半島と海峡で隔たり、約1万2千年前の前後に最終氷期が終わると6千年前頃まで100m以上の海進が進んだ(縄文海進)。この時期の住民が縄文人である。この後も列島と大陸との間に小規模ながらも広範囲に通交・交流が行われ、巨視的には、日本列島も中国を中心とする東アジア文化圏の影響下にあった[86]。だが、東アジアの最東方に所在する大きな島国、という地理的条件により、黄河・長江流域の文明を中心に早期から発展していた中国と比べると、文明の発達度という意味では後進地域となっていた。
紀元前8世紀頃以降、中国南部から稲作を中心とする文化様式を持つ弥生人が流入すると、各地に「クニ」と呼ばれる地域的政治集団が徐々に形成される。これらの地域的政治集団により、朝鮮半島南部から南西諸島までの範囲で海上交易で結びついた緩やかな倭人の文化圏が構成されていった。こうした文化圏の中で、勾玉などが紀元前6世紀以降日本から朝鮮半島へ伝搬したほか、紀元前2世紀頃に青銅器および鉄器の製造法が日本へ伝わった。1世紀・2世紀前後に各クニが抗争を繰り返し、各地に地域的連合国家を形成した。中でも北九州から本州にかけて存在していた国家群から、最も有力であったヤマトを盟主として統一王権(ヤマト王権)が形成され、これが王朝に発展したとする説が有力である。王権の首長(王)はのちに大王(おおきみ)と呼ばれ、豪族(地方首長)を従えて統一国家建設を進めた。
律令国家の成立と貴族政治の展開
朝鮮半島における覇権争いが倭国の国家体制を変化させた。それまで、ヤマト王権は、同じ文化圏に属していたツングース系中国人の国家である百済や新羅に対して、度重なる出兵を行い任那に日本領を築くなど、朝鮮半島に影響力を持っていたが、663年、百済復興のために援軍を送った白村江の戦いで新羅・唐の連合軍に敗れて半島への影響力を後退させる。その後間もなくヤマト王権は「倭国」号に代わる「日本国」号、「大王」号に代わる「天皇」号を設定して、中国と対等な外交関係を結ぼうとする姿勢を見せ、中国を中心とする冊封体制からの自立を明確にした。これは、他の東アジア諸国と異質な外交姿勢であり、その後の日本にも多かれ少なかれ引き継がれた。日本は7世紀後半に中国の法体系・社会制度を急速に摂取し、8世紀初頭に古代国家(律令国家)としての完成を見た。
日本は、東アジアの中でも独特の国際的な地位を保持し続け、7世紀に中華王朝に対して独自の「天子」を称し、8世紀には渤海を朝貢国とした。武家政権成立後も、13世紀の元寇、16世紀のヨーロッパのアジア進出、19世紀の欧米列強の進出など、様々な事態にも対応して独立を維持した。
成立当時の倭の支配地域は、日本列島の全域に及ぶものでなく、九州南部以南および東北中部以北は、まだ領域外だった。九州南部は、8世紀末に組み込まれた(隼人)が、抵抗の強かった東北地方の全域が平安時代後期に(延久蝦夷合戦)領域に組み込まれ、倭人、隼人、蝦夷人が日本人となった。特に8・9世紀は、蝦夷の征服活動が活発化すると共に新羅遠征も計画されるなど帝国としての対外志向が強まった時期だが、10世紀に入り、こうした動きも沈静化した。
9世紀から10世紀にかけて、地方豪族や有力農民は、勢力の維持・拡大を図り、武装するようになった。彼らはしばしば各地で紛争を起こすようになり、政府は制圧のために中下級の公家を押領使や追捕使に任じて、各地に派遣したが、中には在庁官人となってそのまま定着するものも現れるようになった。これが武士の起こりである。武士は家子や郎党を率いて戦を繰り返したが、やがて東日本を中心に、連合体である武士団へと成長した。中でも中央貴族の系譜を引く桓武平氏と清和源氏は、軍事貴族である武家となって、武士を二分する勢力に成長し、やがて政権を巡って対立することとなる。
また、中央政治においては11世紀に藤原北家が皇族の外戚として政権中枢を担う摂関政治が成立した。白河上皇が治天の君として実権を握って以降は、藤原北家と直接の血縁を持たない天皇が早くに譲位し、太上天皇(上皇)となって政を取り仕切る院政がしばしば見られるようになった。
武家政権の時代
10世紀から12世紀にかけて、旧来の天皇を中心とする古代の律令国家体制が大きく変質し、社会各階層への分権化が進んだ王朝国家体制、更に武士の清和源氏や北条氏が実権を掌握する鎌倉幕府が王朝・貴族勢力と拮抗しながら国内を統治する中世国家へと移行した(荘園公領制・職の体系)。12世紀頃(平安末期)から起請文などの古文書に「日本」や「日本国」の表記が見られ始め、「日本」や「日本人」の意識が強く意識されるようになったことの表れと考えられる。特に13世紀後半の元寇は、「日本」・「日本人」の意識が社会各層に広く浸透する契機となり、併せて「神国」観念を定着させた。網野善彦は、このような「日本」・「日本人」意識は、外国のみならず神仏などをも含む「異界」に対する関係性の中で醸成されたとしている[87]。1333年に鎌倉幕府を滅亡させた後醍醐天皇は古代の天皇親政に回帰する建武の新政を行ったがほどなく失敗し、1336年に成立した足利氏の室町幕府がその後の南北朝時代の騒乱を抑えて中世武家政権の支配を継続した。この室町時代までには、安東氏の活動を通じて「日本」の領域が北海道の南部まで及んだ(道南十二館)。また、15世紀には足利義満による日明貿易が行われ、形式的には足利将軍が「日本国王」として中国の明朝から冊封を受けることになったが、その後の日中関係ではこの関係は定着しなかった。
14世紀から15世紀までの時期には社会の中世的な分権化が一層進展したが、応仁の乱による室町幕府の衰退を決定機として15世紀後半頃から戦国大名勢力による地域国家の形成が急速に進んだ。この地域国家の形成は中世社会の再統合へと繋がり、16世紀末に豊臣秀吉によって日本の統一政権が樹立されるに至り、近世へと移行した。日本の領域は、この時期にも変動している。16世紀末に蠣崎氏が北海道の南部に本拠を置き、北海道・千島・樺太・カムチャッカを含む蝦夷地の支配権を得た。蝦夷地は、日本の領域とされることもあれば、領域外とされることもある、言わば「境界」とも言うべき地域だったが、17世紀にシャクシャインの戦いやロシア帝国の進出によって北方への関心が強まると、日本の領域も「蝦夷が島」(北海道)以南と意識されるようになった。南方に目を向けると、中世を通じて鬼界島・硫黄島までが西の境界と意識された。17世紀初めに薩摩藩の島津氏は琉球王国に侵攻して、かつて北条氏の得宗領であり、鎌倉幕府滅亡後島津氏の支配下に入った千竈氏の采配地であった奄美群島を直轄地とし、沖縄諸島および先島諸島(宮古列島および八重山列島)の琉球王府の支配地から米・砂糖を上納させた[88] が、朝貢貿易は続けさせたため、その後も琉球王国は、日本・明朝(後に清朝)両属の状態に置かれた。
一方、豊臣秀吉が李氏朝鮮に侵攻した文禄・慶長の役の失敗後、1603年に徳川家康が開いた江戸幕府は薩摩を通じた琉球侵攻以外はおおむね消極的な外交政策をとり、後に「鎖国」とも称される海禁政策によって外国文物の流入が強く制限された。18世紀末以降、江戸幕府は千島列島などでロシア勢力と接触し、北方での防衛強化が課題となったが、ロシアとの正式な外交条約や国境画定は「開国」後まで行われなかった。幕藩体制の確立は日本国内の安定化をもたらし、緩やかな経済成長の継続は大都市の発展や商業資本の蓄積として近代化の基盤の一つになった。一方、17世紀以降に発展した国学は日本の伝統宗教である神道の復権をもたらし、その後の日本に大きな思想的影響を与えた。
明治維新と近代日本の展開
19世紀中葉に入り、欧米列強との接触が飛躍的に増えると、列強各国に対する他者意識の裏返しとしての「日本」・「日本人」意識がさらに強まり、ほぼ現代の「日本」・「日本人」意識と一致するまでに至った。大航海時代以降、アジア各国が欧米列強の植民地とされる中で日本が独立を長く保ったことは、後の国民国家意識にそのまま繋がる民族・国民意識の醸成をもたらし、結果として明治維新以降の近代国家建設がスムーズに行われる基礎となった。
1853年に起きたアメリカ合衆国のマシュー・ペリーによる黒船来航以来、江戸幕府は「開国」政策に転換したが、不平等条約による経済危機や尊王攘夷による討幕運動に抗しきれず、1867年(慶応3年)に大政奉還を行って自ら幕を下ろした。1868年以降、明治天皇を戴きながら長州藩や薩摩藩出身の中下級武士が実権を掌握した新政府の元で明治維新が遂行され、近代化・欧米化路線による国民国家の建設を急速に進めた。同時に近隣国と国境の確定を行い、1875年に樺太全域をロシア領とする代わりに占守島以南の千島列島全域を日本領とし(樺太・千島交換条約)、1876年に小笠原諸島の領有を宣言[89] し、また、琉球処分を行うとともに1885年に大東諸島、1895年に尖閣諸島を編入し、南西諸島方面の実効的な支配を確立した。ここに一旦、近代国家としての日本国の領域が確定した。
帝国主義への傾倒
自由民権運動を経て1885年に内閣制度を確立し、1889年に大日本帝国憲法を制定し、1890年に第1回衆議院議員総選挙を実施して帝国議会を設置した。こうして、アジアで初めて憲法と議会とを持つ、近代的な立憲国家となった[90]。(正確には、オスマン帝国で1876年に制定されたミドハト憲法の方が先であるが、短期間で停止された)
19世紀後半から20世紀初頭の帝国主義的な国際情勢の中で、東アジアに一定の勢力圏を築く必要に迫られ、日清戦争や日露戦争を経て勢力圏の確保を進めた。日露戦争の勝因として1902年イギリスと日英同盟を締結したことが大きかった。両戦争を通じ、台湾・澎湖諸島および南樺太を領土に収め、関東州の租借権を獲得した。その後、1910年に韓国併合が実施された。
1914年、第一次世界大戦がヨーロッパで勃発すると、日本は日英同盟に基づいて連合国側について参戦し、ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国に対して宣戦布告した。ドイツの租借地であった青島やドイツ領ニューギニアを攻略した。青島占領の後、日本は対華21ヶ条要求を袁世凱政府に提示し、中国側の反発を招いた。日本は戦勝国として1919年のパリ講和会議に参加し人種差別撤廃案を提出した(アメリカ合衆国などが反対)。また、発足した国際連盟において常任理事国となり、旧ドイツ領の南洋群島を委任統治することとなった。一方、このパリ講和会議に際してアメリカから出された十四か条の平和原則は日本が併合した朝鮮で三・一運動を誘発した。時を同じくして大正デモクラシーが起こり、本格的な政党政治や男子普通選挙が実現した。一方で日本はロシアでの社会主義革命成功を強く警戒し、ロシア内戦に乗じたシベリア出兵では極東ロシア地域や北樺太などを一時占領した。1925年、男子普通選挙の成立と同時に制定された治安維持法は設立間もない日本共産党や社会主義勢力、後には自由主義なども広く弾圧した治安機関、特別高等警察の法的根拠となった。
1926年に昭和天皇が即位すると、翌1927年に昭和金融恐慌、1929年には世界恐慌が起き、日本経済は大きな打撃を受けた。世界恐慌以後、植民地を「持てる国」である英米仏などがブロック経済化を進めて、日独伊などの「持たざる国」を締め出す動きを強めると、日本国内では対外進出によって、状況を打破しようとする動きが強まった。対支一撃論を主張する関東軍は日本が権益を持つ満洲(中国東北部)への侵略を強め[91]、1934年に満洲国を建国して一定の支配権を得るに至った[92]。若槻礼次郎内閣は不拡大方針を打ち出し事態の収拾を図ったが、対外強硬的な世論を背景とする軍部の台頭を抑えきれなくなった。若槻内閣が総辞職すると、犬養毅に組閣の大命が下り、引き続き経済状況の打開と満州事変の処理にあたったが、五・一五事件で過激派海軍青年士官達によって暗殺された。これによって、憲政の常道は幕を下ろした。
ゾルゲ事件
1920年代後半から、日本政府による北進論の推進が行われ、中国への進駐が開始された。中国との関わりが深くなる中で、日本ではシナ分析が盛んに行われた。当時のシナ分析で有名な論者に津田左右吉や尾崎秀美が居り、両名ともシナ文化についての分析を記載した書籍を執筆している。津田左右吉は東洋文化として括られてきた日本文化とシナ文化を明確に区別し、日本の創造的な発展のために日本人に対してシナ文化に従属する考えを改めるように警告した。尾崎秀美は1927年11月から中国の上海で大阪朝日新聞社の特派員として取材活動を行っており、中国共産党とも交流を図っていた。更に、日本政府が北進論に基づき北に進駐し続けることで、将来的にソビエト連邦と対立することも明確に予想できた。
1930年、ソビエト連邦から中国にスパイのリヒャルト・ゾルゲが派遣された。目的はソビエト連邦の共産主義革命に対する妨害の阻止である。リヒャルト・ゾルゲは中国や日本を含む周辺各国の共産主義者を雇用してゾルゲ諜報団を結成し、集めた機密情報をソビエト連邦に無線機で即時に送付し続けた。ゾルゲは上海で前述の尾崎秀美と面会しており、雇用にも成功している。しかし、日本の特別高等警察がアメリカ共産党党員の日本人に内偵をかけた際に宮城与徳を介してゾルゲ諜報団の活動が発覚し、1941年から1942年にかけてゾルゲ諜報団の関係者が一斉に逮捕されリヒャルト・ゾルゲを含む数名(日本人では尾崎秀実)が死刑に処された。この一連の騒動はゾルゲ事件と呼ばれた。ゾルゲ諜報団の日本人としては大阪朝日新聞社の記者で近衛文麿政権や軍部に対する影響力を発揮していた尾崎秀実が最も大きな貢献を行っており、日本政府の意思決定についてゾルゲに全面的に情報を漏洩させ、ソビエト連邦と日本の対立を避けるために日本政府の意思決定を南進論に注力するように誘導していた。現に日本政府は南進論の推進の結果としてアメリカと対立し、太平洋戦争に注力することになった。
当時、ソビエト連邦の最高指導者であったヨシフ・スターリンはゾルゲ諜報団の殉職を一切無視していたが、後年のロシアではゾルゲ諜報団の構成員が英雄として扱われるようになった。
太平洋戦争
1930年代に入ると、日本政府による帝国主義は大日本帝国憲法における天皇の名を借りた暴走を開始した。日本政府による対立思想の弾圧も始まり、もはや日本人では誰にも日本の帝国主義を止められなくなった。1937年に盧溝橋にて日本軍と蒋介石の国民革命軍が衝突すると(盧溝橋事件)、双方の軍事行動により支那事変 (日中戦争) へと発展した。1938年には、新体制運動を主導する近衛文麿首相のもと、国家総動員法が制定され議会は有名無実化した。1940年の日独伊三国同盟締結で特にナチス・ドイツとの協力関係を強め、第二次世界大戦において枢軸国陣営への参加を明確にした日本の対外志向は、特に南進論に基づいた進駐によって、アメリカとイギリスを筆頭とする欧米諸国の権益と真っ向から衝突し、1941年にはイギリス領マレーおよびアメリカ自治領ハワイ準州(真珠湾)以下各地を攻撃し(南方作戦)、太平洋戦争(大東亜戦争)へ突入した。一時期は北は満洲とアリューシャン列島の一部、西は中国内陸部やビルマ、南はニューギニアの一部やソロモン諸島、東はギルバート諸島まで広がる地域まで進出・占領したものの、アメリカとの圧倒的戦力差という状況を顧みず精神論で突き進んだため、1942年半ば以後は敗走を重ねた。形勢逆転のために召集令状の乱発で国民を次々に戦地に投入したが、それでも戦力は不足した。戦争の激化を受けて、大政翼賛会と複数の新聞社が国民決意の標語を募集し、「欲しがりません勝つまでは」という戦時標語が作られた。最終的に日本政府はアメリカに勝つためには手段を選ばなくなり、大本営発表で虚偽の発表を行って日本国民の士気の低下を防いだり、特別攻撃隊を結成して兵士に自爆攻撃を行わせるまでに至った。また、追い詰められた日本兵によるバンザイ突撃も各地で行われた。その後、1945年に沖縄戦による沖縄本島の喪失、東京大空襲をはじめとした全国各地への空襲に続いて、8月には広島・長崎に原子力爆弾による攻撃、さらには日ソ中立条約の残存期間中に対日戦を開始したソビエト連邦による対日宣戦布告を受けて帝国政府は戦争継続を断念し、ポツダム宣言を受諾して連合国に降伏した。一連の戦争で日本国民は日本政府に天皇の名の下で戦争の駒として徹底的に酷使され、約300万人の日本人が亡くなり、国民経済の破綻と社会の混乱はその後にも深刻な影響を与えた。対外的にもアジア諸国との信頼関係回復や戦時賠償問題が戦後の深刻な問題として残された。
現代
アメリカ・イギリスなどの連合国により、日本は史上初めて占領下に置かれ、日清戦争以降に獲得した領土・権益の総てを失った。日本の占領統治は大日本帝国憲法下における日本政府に対して連合国総司令部(GHQ/SCAP)が指令を発布し、日本政府がその指令に沿って統治するという仕組みで行われ、中央政府が有効に存続したため、中央政府不在を宣言され国家の消滅が確認されたドイツ国とは異なり、戦前と戦後とで同一の国家としての継続性が認められており、帝国憲法下で制定された法体系が戦後においても有効に存続している。GHQの指令のもと、国制の改革が進められ、大日本帝国憲法の改正手続きによって日本国憲法を制定し、1947年施行の同憲法によって「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」の三大原則を確立した[注 17]。一方、昭和天皇の戦争責任論は法的には棚上げされ、天皇は「日本国および日本国民統合の象徴」と規定されて大権を失いながらもその地位を維持した。
国共内戦における中国共産党の優勢が明らかになると、アメリカは対日政策を転換させ、東アジアにおける友好国とする政策を採るようになった。一方で、急激なインフレを抑制するべく実施された超均衡財政政策であるドッジ・ラインの強行により、中小企業の倒産が増大するなど深刻な不況に陥ったが、1950年に勃発した朝鮮戦争は戦場の後背地である日本で朝鮮特需を生み、経済復興への足がかりとなった。同時にレッドパージが実施されて共産党が衰退し、親米・反共主義を掲げる吉田茂首相を中心とした保守勢力が政権を独占し、戦前の政治・経済指導者も次々と公職追放から復帰した。1952年、サンフランシスコ平和条約発効によって日本は全権を回復し、資本主義陣営(西側諸国)の一角として国際社会に復帰したが、同時に成立した日米安全保障条約によって日本への在日米軍駐留は継続された。1955年に講和条約への対応を巡り分裂していた社会党の再統一が実現すると、財界の強い要望を背景として、保守合同により、自由民主党が成立した。これにより形式的に二大政党制が実現したが、その後の日本社会党の弱体化や多党化にも助けられた自由民主党優位の政治体制はその後も続いた(55年体制)。1956年、日ソ共同宣言によりソビエト連邦との国交を回復し、同年国際連合に加盟した。対ソ国交回復では1945年にソ連が占領した地域の一部返還を求めた日本側の要求が実現せず、その後も北方領土問題として両国関係の改善を阻害した。一方、1960年に岸信介首相は日米安全保障条約の改定を実現させたが、目標としていた日本国憲法の改定は果たせずに退任し、その後の自民党政権は池田勇人による所得倍増計画に象徴される「経済中心路線」を採った。一方、東京通信工業(現在のソニー)によるトランジスタラジオ対米輸出の大成功などは「安くて粗悪」というかつての日本製品の海外イメージを払拭し、外需拡大は経済成長をさらに加速させた。
戦後、復興と共に1970年代半ばまでに目覚しい経済発展を遂げ、日本は世界有数の経済大国となった。1964年には経済協力開発機構(OECD)に加盟すると1968年には西ドイツを抜いて世界第2位の国民総生産(GNP)を計上し、アジアでは唯一の先進国として特に経済面で大きな影響を世界に与え、多くの開発途上国(発展途上国)から経済建設の先行モデルとされるようになった。1964年には東京オリンピックが開催され、1970年には日本万国博覧会が大阪府で催された。交通網の整備も急速に進み、1964年には東海道新幹線が開通、1965年に名神高速道路、1969年には東名高速道路が完成した。マイカーブームの到来により、モータリーゼーションを迎えるとともに、トヨタ自動車や日産自動車など国産自動車メーカーの品質が向上し、先進国への輸出もなされるようになったが、大幅な貿易黒字を背景としてアメリカなどとの間で貿易摩擦も生じた。第一次産業の比率が下がり第二次産業や第三次産業の比率が拡大する産業構造の高度化が見られ、国際競争力を持てない農山漁村地域やエネルギー革命に直撃された産炭地域での急速な過疎化と、大規模製造業の存在と都市化による商業活動の急拡大が連動した三大都市圏での過密化も進行した。自民党政権は全国総合開発計画や新産業都市政策で重工業拠点の全国展開を進め、経済格差の是正をめざした。農村部でも多くの工場が建設され、一方で公害問題の拡大が深刻となり、住民運動の高まりも見られた。一連の高度成長は1973年のオイルショックで終止符が打たれ、日本経済は低成長時代へと移行した。
1952年から1953年にかけてトカラ列島や奄美群島、1968年に小笠原諸島、1972年に沖縄県の施政権がそれぞれアメリカから返還された(本土復帰、沖縄返還)。アメリカ施政下の日本領土は解消されたが、ソビエト連邦との北方領土問題は解決の目処が立たず、冷戦を背景とした両国間の厳しい対立は続いた。朝鮮半島に対しては、1965年に南部の大韓民国との間に日韓基本条約が締結されて国交が回復したが、経済関係の強化とは裏腹に竹島問題は解消されなかった。また、北部の朝鮮民主主義人民共和国との間では国交回復交渉が難航し、在日韓国・朝鮮人の地位や権利の確認、さらには後に発覚した北朝鮮による日本人拉致問題などもあり、両国関係は改善しなかった。1972年の日中国交正常化で国家承認をした中華人民共和国とは1978年に日中平和友好条約を締結し、緊密な外交・経済協力関係を結んだが、日華平和条約を終了した後も実務関係を維持した中華民国(台湾)との関係や、1970年代から中国側が領土主張を始めた尖閣諸島問題は、戦争についての歴史認識問題などと合わせて日中間の懸案として残った。
21世紀に至り、少子高齢化社会に伴う人口減少、国内産業の空洞化など先進国特有の問題が生じている。1979年以降の改革開放路線を皮切りに中国経済は急成長を続け、2010年に日本は中国に抜かれてGNPでソビエト連邦時代以来となる世界3位に後退した。経済力を背景にした中国の対外進出は尖閣諸島問題の激化を招き、日中関係はかつての「蜜月」から大きく様変わりした。さらには情報工学(IT)分野におけるアメリカ産業の復活や韓国・台湾企業のシェア拡大、インド・ブラジルをはじめとする新興大国の政治的・経済的台頭のなか、日本は相対的に不利な立場に立たされている。1995年の阪神淡路大震災や2011年の東日本大震災などの巨大地震の発生は福島第一原子力発電所事故を含む甚大な被害をもたらしており、防災・減災行政の整備は目下緊急の課題となっている。情報通信技術の急速な発展によるインターネットや携帯電話の普及に伴うユビキタス社会の到来やグローバル化の進展は、新たな需要を創出するとともに、人々の生活に大きな変化を生じさせつつある。
1993年から1994年にかけて史上初の下野を経験した後に与党へ返り咲き、2001年に首相となった小泉純一郎が進めた新自由主義政策によりその経済政策を大きく変えた自民党は2009年に民主党に政権を奪われたが、2012年に安倍晋三によって公明党との連立政権を復活させた。安倍は自らの名を冠したアベノミクスによる経済再生を掲げ、憲法改正の意欲も強く示しているが、経済格差の拡大を指摘し、集団的自衛権の容認などにも反対する国民も多く、政権の是非を巡る議論や対立が続いている。そんな中、2020年に行われる東京オリンピックを目標とした新たな技術やサービスの開発も各分野で進められている。現在の日本は列強である[93]。
建国をめぐる議論
国家としての日本、日本の民族・文化は、有史以前からの長い年月を経て段階的に形成されて来ていて、明確な建国の時期を示す記録は存在しない。建国記念の日(旧紀元節)は、記紀で神武天皇が即位したとされる日(紀元前660年1月1日〔旧暦〕、2月11日〔新暦〕)となっている。
『日本書紀』神武紀に、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が辛酉年春正月庚辰朔(1月1日)に即位したとの記述があり、古代以来、これが日本建国の画期と広く考えられていた。明治5年11月15日(1872年12月15日)には、神武天皇即位紀元が西暦紀元前660年に始まると定められ、これを元年とする紀年法・「皇紀」が明治6年1月1日(1873年1月1日)から使用された[94]。
公的には、この神武天皇即位紀元をもとに1957年頃から「建国記念日」制定に関する法案が9度に渡り提出されてきたが、歴史学の立場から見る神武天皇の即位は、当の記紀に何人もの人が100歳以上生きていたなどの記述もあることから神話と見られ事実でないとするのが戦後の大勢であったため、いずれも成立には至らなかった。しかし1966年建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)により、2月11日が「建国されたという事象そのものを記念する日」として「建国記念の日」が定められた。神武天皇の存在については実在論もあり、議論は続いている。戦後、皇紀の使用は、一部を除きほとんど見られなくなった[95]。
建国の時期として、この他に「日本」国号が定められた時期(飛鳥浄御原令ないし大宝律令の成立)や大政奉還がなされて近代国家の建設が始まった明治維新の時期などが挙げられることもある。しかし、国家としての日本は、長い歴史的な経緯を経て形成され、明確な建国の画期を見出すこと自体が困難と言え、主観的なものとなりがちである。
地理
日本は明治以来、憲法における領土規定がなく、これは比較法学の観点では特殊なものであった[98]。島嶼部についての領有宣言、あるいは周辺諸国との条約がおもに領土領陸の法規範であり、第二次大戦後は日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)が主要な法規範を形成している。
地勢
日本の領土は、6,852の島(本土5島+離島6,847島)からなる[99]。
アジア・東アジアの中でも東方にあり、ユーラシアの東端近くにあたるため、東洋や極東などと呼ばれる地域に含まれる。領土の大部分が、島弧をなす日本列島である。これは本州・北海道・九州・四国などからなる。このほか、南に延びる伊豆・小笠原諸島、南西に延びる南西諸島(沖縄本島など)、および北東に位置する北方四島(北方領土)なども有する。
領土面積は約37.8万km2(日本政府が領有権を主張する領域)で世界第60位である。国土の約70%が山岳地域であり、森林率は約67%である。
埋立地は古くから造成されてきたが、その多くは港湾を形成・整備することが目的であった。これによる埋立地がポートアイランド、六甲アイランド、神戸空港などである。最近では関西国際空港、横浜八景島や和歌山マリーナシティなどがあり、総面積は国土の約0.5%に相当する。また、諫早湾干拓事業と八郎潟のような大規模事業のような例もある。
離島が多数存在し、その中には様々な理由で(多くは重要な施設があるため)立入禁止の島もある。琉球諸島や伊豆諸島は離島の内でも交通の便が良く、南方の島々は「日本のハワイ」等と称され、日帰りもできることから観光客に人気である。
- 最東端
- 東京都小笠原村 南鳥島 (北緯24度16分59秒・東経153度59分11秒)
- 最西端
- 沖縄県八重山郡与那国町 トゥイシ[100][101] (北緯24度27分05秒・東経122度55分57秒[101])
- 日本最西端は長らく与那国島の西崎(いりざき)とされてきたが、2019年に基本図とされる国土地理院の2万5千分の1地形図が改訂され、与那国島北北西260mに位置するトゥイシが日本最西端の地点となった[101][100]。
- 最南端
- 東京都小笠原村 沖ノ鳥島 (北緯20度25分31秒・東経136度04分11秒)
- 最北端
- 北海道稚内市 弁天島 (北緯45度31分35秒、東経141度55分09秒)(日本政府の実効支配下にある領域の最北端)
- 北海道蘂取郡蘂取村 択捉島カモイワッカ岬 (北緯45度33分28秒・東経148度45分14秒)(日本政府が領有権を主張する領域の最北端)
周囲を太平洋、日本海、東シナ海、フィリピン海、オホーツク海などの海洋に囲まれる。本州と四国との間の海は瀬戸内海と呼ばれる。陸上の国境線が無く、ロシア、北朝鮮、台湾、韓国、中国、フィリピン、アメリカと排他的経済水域が接している。また、南方にパラオ共和国、小笠原諸島の延長線上にミクロネシア連邦があり、太平洋を挟んでアメリカ大陸がある。沖合を暖流の日本海流(黒潮)、対馬海流、寒流の千島海流(親潮)、リマン海流が流れる。
自然地理的区分は、地質構造を基準に、本州中部を南北に縦断する糸魚川静岡構造線を境に、南西日本と東北日本とに大別される。付近では、ユーラシアプレート、フィリピン海プレート、太平洋プレート、北アメリカプレートがせめぎ合い、環太平洋造山帯・環太平洋火山帯・環太平洋地震帯と呼ばれる帯の一環をなしている。そのため、世界全体で放出される地震エネルギーのうち1割から2割が日本の周辺に集中すると言われているほど地震が頻発し、震度1や2クラス程度の地震なら、どこかで毎日のように起きている。また、火山活動が活発なことから火山性土壌が多く、これが日本列島の自然を豊かにした面もある。温泉が多いことも火山の恵みと言える。一方で日本史では大きな噴火活動が何度も記録され、さらに近年の地質学研究によって先史時代に何度かの破局噴火が起きていたことが分かっている。
山岳は、最高峰は富士山(標高3,776m)の他、南アルプス、北アルプスなど、2500m超えの山が本州中央に集中している。他、大雪山、磐梯山、阿蘇山などが有名である。富士山はその優美な風貌から数多くの芸術作品の題材とされることで芸術面でも大きな影響を与え、日本の象徴として広く世界に知られている。
河川は、利根川・最上川などが代表的であるが、大陸河川と違い、源流から河口までの距離が大変に短いこと、海抜高低差が急なこともあり、比較的流れが速い。集中豪雨が発生すると堤防が決壊し、人家・田畑に甚大な被害を及ぼすという短所もあるが、比較的新鮮な水が取水しやすいのも特色である。
周囲を海に囲まれた島国であることから、海上交易・漁業ともに盛んな海洋国家である。内海を含む領海を入れた領域の面積は約43万km2である[102]。
日本政府が主張する日本の排他的経済水域 (EEZ) は領土面積の約12倍である約405万km2、領海とEEZを合計すると約447万km2であり世界では第6位となる[103]。ただし日本が領有権を主張しているが韓国に不法占拠されている竹島と日本が実効支配しているが近年になって中国が領有権を主張している尖閣諸島周辺海域についてはそれぞれの国家間で重要な外交問題となっている。また、九州西方と東シナ海の領域については中国と韓国が自国の領海から延伸する大陸棚に関して国際法を無視して権利を主張している。
EEZとは別に国連海洋法条約において排他的な海底資源権益が与えられる法的な大陸棚については、2012年4月に国連大陸棚限界委員会が「四国海盆海域」、「小笠原海台海域」、「南硫黄島海域」、「沖大東海嶺南方海域」の4海域を日本の大陸棚と認定した[104]。
気候・動植物
- ケッペンの気候区分によると、本州以南沖縄諸島大東諸島以北の大半が温帯多雨夏高温気候 (Cfa)、宮古諸島・八重山列島(石垣島・西表島・与那国島・波照間島)・沖大東島などでは熱帯雨林気候 (Af))に属する一方、北海道などが亜寒帯湿潤夏冷涼気候 (Dfb) を示す[105]。モンスーンの影響を受け四季の変化がはっきりしているものの、全般的には海洋性気候のため大陸と比較して冬の寒さはそれほど厳しくなく温和な気候である。飛び地や海外領土などを別にすれば、一国の領土内に熱帯から亜寒帯までを含む国家は珍しい。北半球では他にアメリカ合衆国と中華人民共和国ぐらいである。(標高の高さによる寒冷地域は除く)
- 冬季は、シベリア高気圧が優勢となり北西の季節風が吹くが、その通り道である日本海で暖流の対馬海流から大量の水蒸気が蒸発するため、大量の雪を降らせる。そのため、日本海側を中心に国土の約52%が世界でも有数の豪雪地帯となる。太平洋側では、空気が乾燥した晴天の日が多い。
- 夏季は、太平洋高気圧の影響が強く、高温多湿の日が続く。台風も多い。但し、北部を中心にオホーツク海高気圧の影響が強くなると低温となり、しばしば農業に影響を与える。
- 比較的、降水量の多い地域である。主な要因は、日本海側での冬季の降雪、6・7月(沖縄・奄美地方は5・6月)に前線が停滞して起こる梅雨、夏季から秋季にかけて南方海上から接近・上陸する台風など。年間降水量は、約1,700mmで地域差が大きい。南鳥島を除く日本全域がモンスーン地域で、山がちな日本列島の西岸および南岸の周りを暖流が流れている為に雲が発達しやすく、日照時間は約1800時間程度と世界の他の温帯地域と比べても少なめである。
- 生態系
- 南北に長く、また、森林限界を越える高山帯や広い海洋、四季の変化により、面積の広さに比べ、生息する動物や植物の種類が豊富である。津軽海峡以北の北海道の生態系は沿海州の生態系に似ており、ブラキストン線という境界が提唱されている。屋久島と南西諸島の間には、温帯と亜熱帯の生態系の分布境界線である渡瀬線が提唱されている。このほか海峡を主に複数の分布境界線が提唱されている。
- 四方が海で囲まれているため、外部から新しい生物が侵入してくる可能性が低かった。それに加え、多くの離島があるため、その島独自の生態系が維持されてきた土地が多数ある。特に小笠原諸島や南西諸島は、古くから本土と比べて孤立した生態系を築いてきたため、その島に固有の動植物が多く生息している。小笠原諸島は、「東洋のガラパゴス」と呼ばれるほど特殊な生態系を持つ。南西諸島でも、西表島のイリオモテヤマネコ、奄美大島・徳之島のアマミノクロウサギをはじめ、固有生物が島ごとに生息している例がある。だが、近年の開発や人間が持ち込んだ外来生物により、生態系は激変し、固有の動植物の生息が脅かされている場所が多い。
- 植物・森林
- 熱帯のものから亜寒帯のもの、さらには高山ツンドラに生育する高山植物に至るまで植物の種類が豊富で多様性に富む。降水に恵まれ、高湿度に適した植物が多く分布している。コケ植物やシダ植物などが特に豊富。大陸から離れた地形から、スギなどの日本固有種が広く分布する。慣習的に桜と菊が国花と同等の扱いを受ける。この他、各自治体でも独自の木や花を制定している。
- 陸地の約3分の2が森林(森林率66%[注 18]・森林面積:2,512万ha・2009年現在)である。亜熱帯から亜寒帯に渡る、どの地域でも年間の雨量が十分で、森林の成立が可能である。平地の植生は、南の約3分の2が常緑広葉樹林、いわゆる照葉樹林という型であり、北の約3分の1が落葉広葉樹林、ブナ林を代表とする森林である。標高の高い地域では、更に常緑針葉樹林、一部に落葉針葉樹林がある。南西諸島の一部は熱帯に属し、沿海の干潟にはマングローブが発達する。
- この森林面積の内訳は、天然林が53%(1,335万ha)、人工林が41%(1,036万ha)、その他(標高などの条件で未生育の森林など)が6%、となっている。内、人工林は、第二次世界大戦後の拡大造林の影響を受けたことから、スギ林が多数(452万ha)を占める。これは、高度経済成長期に木材需要の逼迫から大量の天然林が伐採され、木材の生産効率のみを考えたスギ・ヒノキ林に更新されたためである。その後海外からの輸入量が急増し、一転して木材の価格が暴落した結果、採算の取れない人工林の多くが取り残される結果となった。放棄されたスギ林では、下層植生が発達せず貧弱な生態系となり、防災や水源涵養の面でも問題が多い。また、スギやヒノキの大量植樹は時に「国民病」とも呼ばれる花粉症の蔓延を招いている。
- 動物
- 哺乳類
- →詳細は「日本の哺乳類一覧」を参照
- 100種強が生息し、その内、固有種が3割を超え、7属が固有属である。日本の哺乳類相は、北海道と本州との間にあるブラキストン線、また、南西諸島のうち、トカラ列島と奄美群島との間にある渡瀬線で区切られ、これらを境に異なる動物群が生息している。
- 大型哺乳類では、北海道のヒグマ、エゾシカ、本州のツキノワグマ、ニホンジカ、ニホンカモシカなどがいる。
- 固有種であるニホンザルのうち、下北半島に住む個体群は、世界で最も北方に棲息するサルである。ニホンオオカミ、エゾオオカミ、ニホンアシカ、日本のラッコ個体群、および、ニホンカワウソは絶滅。
- 鳥類
- →詳細は「日本の野鳥一覧」を参照
- 500種を越える鳥類が観察される。四方の海に加え、水源が豊富な日本では、河川や池、湖が多く、それに棲む水鳥の種類が豊富である。日本列島はシベリアで繁殖する鳥の越冬地であり、東南アジアなど南方で越冬した鳥が繁殖する地であり、さらに北方から南方に渡る渡り鳥が通過する中継地としても重要で、季節によって多彩な渡り鳥を観察することができる。近年、乱開発による干潟の減少や、東南アジアの森林の破壊が、日本で見られる鳥類の存続の脅威となっている。水鳥の生息地として国際的に重要な37の湿地が、ラムサール条約に登録され保護されている[106]。
- 渡りをしない留鳥としては、国鳥のキジなどがあげられる。人家の近くには、カラス、スズメ、ハト、ツバメ、ハクセキレイなどが生息し、古来より文化の中で親しまれてきた。最近ではヒヨドリやムクドリが人家周辺に多い。
- 固有種は、メグロなどがある。トキの個体群は、絶滅。現在、佐渡市で人工的に繁殖されているトキは、中国の個体群から借り入れたものである。
- 爬虫類・両生類
- いずれも亜熱帯に種類が多く、南西諸島に半分以上の種が集中する。これは、島ごとの種分化が進んでいるためでもある。本土における島ごとの種分化は、さほど見られない。例外は、サンショウウオ類で、南西諸島に見られないが、本土の各地方での種分化が進み、多くの種を産することで世界的にも知られる。また、現存する世界最大の両生類であるオオサンショウウオは、日本を代表する両生類として世界的に知られる。
- 魚類
- →詳細は「日本の淡水魚一覧」を参照
- 近海の魚類は、種類、数、共に豊かで、三陸海岸沖から千島列島に掛けてが世界三大漁場の一つに数えられる。近海を暖流と寒流とが流れ、これらの接点である潮境でプランクトンが発生しやすいことや、周辺に広い大陸棚や多様で複雑な海岸を持つこと、などが好条件となっている。淡水魚の種は、大陸に比べて河川の規模が小さいため、多くない。古代湖である琵琶湖などに多彩な種が棲息するものの、アユなど食用に供される種の人為的な放流や外来魚の勢力拡大により、希少種の絶滅や淡水魚類相の激変が問題となっている。他方、雨量の多い気候のために河口域に汽水域が出来やすく、貝類も豊富である。
- また、2010年に海洋生物センサス (Census of Marine Life) が出した報告により、日本近海は、世界25箇所の代表的な海の中で最多となる、約3万3000種の海洋生物が生息していることが明らかとなった[107]。これは日本の気候が南北に渡って非常に多彩であり、同時に大きな海流に恵まれ、海水が多くの栄養を持っていることを示している。例えば北海道は流氷の南限であるのに対し、南西諸島および小笠原諸島はサンゴ生育の北限である。
- 昆虫
- 亜熱帯のものから亜寒帯のものまで種類が豊富で多様性に富む。森林が多いため、数も多い。都市部でも多くの昆虫が見られる。雨が多く、湿地や水田が各地にあるため、特にトンボの種類が多い。また、カブトムシなど里山に暮らす昆虫も多く見られたが、暮らしの変化と共に少なくなった。江戸時代頃からスズムシやコオロギの鳴き声を楽しむために飼育が行われてきた。愛玩対象として昆虫を飼う文化は、世界的にも珍しい。オオムラサキが国蝶。
環境問題
- →詳細は「日本の環境と環境政策」を参照
- 1950-60年代、四大公害病に代表される大規模な公害の発生から、1967年の公害対策基本法を始めに水質汚濁や大気汚染などの規制法が相次いで成立した。これを受け、日本企業は、オイルショックのためにマイナス成長下にあった1973年-1976年の前後に集中して公害の防止への投資を行い、1970年代以降、大規模な公害の件数が急速に減少した。また、この投資は、オイルショック下の日本経済の下支えの役割を果たしたため、「日本は公害対策と経済成長を両立させた」と言われる[108]。
- しかし、日本列島改造論が叫ばれた1970年代以降、地域振興を名目に道路建設や圃場整備などの公共事業、リゾート開発などの大型開発が盛んに行われ、日本固有の風致や生態系は大きく損われてしまった。また、ゴミ問題のために富士山の世界遺産登録を断念したことに象徴されるように、環境管理においても多くの課題を抱える。人工林の荒廃やダム建設などによって河川や山林の生態系が衰退していることにより、ニホンザルやイノシシが市街地に出没するなど、人間の生活への影響も出ている。
- 高度経済成長期以降、日本人の食卓の変化や、海外の農産品の輸入増加、東京一極集中、天然林の伐採、地域振興における公共事業偏重など様々な要因により、農山村や農林水産業が衰退した。これに伴い、耕作放棄地の増加、人工林の荒廃、水産資源の減少などの問題が発生している。
地域区分
都道府県(1都1道2府43県)という広域行政区画から構成される。但し、それよりも広域の地域区分(地方区分)には、揺れが見られる。都道府県の内部には、市町村や、町村をまとめた郡、特別区等がある(日本の地方公共団体一覧参照)。一部の市は、行政上、別途政令指定都市、中核市、施行時特例市に定められている。
- 北海道地方
- 1.北海道
- 東北地方
- 2.青森県 - 3.岩手県 - 4.宮城県 - 5.秋田県 - 6.山形県 - 7.福島県
- 関東地方
- 8.茨城県 - 9.栃木県 - 10.群馬県 - 11.埼玉県 - 12.千葉県 - 13.東京都 - 14.神奈川県
- 上記は「一都六県」。「首都圏」はこれに山梨県を、「広域関東圏」には関東地方1都6県に親不知浜名湖線以東の新潟・山梨・長野・静岡の4県を、それぞれ加える。
- 中部地方[109][110]
- 中国地方
- 31.鳥取県 - 32.島根県 - 33.岡山県 - 34.広島県 - 35.山口県
- 鳥取県と島根県、そして場合によっては山口県の一部や兵庫県・京都府の一部をも含む地域を、山陰と呼ぶ。岡山県と広島県に山口県の多くを含めた地域を、山陽と呼ぶ(兵庫県の一部を含むこともある)。また、山口県を九州地方と併せて九州・山口地方とする場合もある。
- 四国地方
- 36.徳島県 - 37.香川県 - 38.愛媛県 - 39.高知県
- 四国山地より北を北四国、南を南四国とする。また、中国地方とあわせて中国・四国地方(中四国地方)とする場合もある。その場合、山陽と北四国とをあわせて瀬戸内と呼ぶ。
- 九州地方
- 40.福岡県 - 41.佐賀県 - 42.長崎県 - 43.熊本県 - 44.大分県 - 45.宮崎県 - 46.鹿児島県
- 山口県とあわせて九州・山口地方とする場合や、沖縄県とあわせて九州・沖縄地方とする場合もある。
- 奄美群島は、歴史・文化・自然等の面において九州よりも沖縄に近い[115][116][117] ため、奄美群島を沖縄県とあわせて沖縄・奄美地方とする場合もある。
- 沖縄地方
- 47.沖縄県
- 沖縄県は九州地方に含む場合もある。九州地方に含める場合は九州・沖縄地方と呼称することもある。
- 沖縄県は奄美群島と文化的、自然的に近い[118][119] ため、奄美群島とあわせて沖縄・奄美地方とする場合もある。
都市
順位 | 都道府県 | 市(区) | 法定人口 | 推計人口 | 増減率 (%) | 種別 | 推計人口の 統計年月日 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
特 | 東京都 | 特別区部 | 8,949,447 | 9,873,999 | +10.33 | 特別区部 | 2024年10月1日 |
1 | 神奈川県 | 横浜市 | 3,689,603 | 3,771,063 | +2.21 | 政令指定都市 | 2024年10月1日 |
2 | 大阪府 | 大阪市 | 2,666,371 | 2,791,907 | +4.71 | 政令指定都市 | 2024年10月1日 |
3 | 愛知県 | 名古屋市 | 2,263,907 | 2,331,264 | +2.98 | 政令指定都市 | 2024年10月1日 |
4 | 北海道 | 札幌市 | 1,914,434 | 1,956,613 | +2.20 | 政令指定都市 | 2024年10月31日 |
5 | 兵庫県 | 神戸市 | 1,544,873 | 1,492,282 | -3.40 | 政令指定都市 | 2024年10月1日 |
6 | 京都府 | 京都市 | 1,474,473 | 1,437,377 | -2.52 | 政令指定都市 | 2024年10月1日 |
7 | 福岡県 | 福岡市 | 1,463,826 | 1,656,737 | +13.18 | 政令指定都市 | 2024年10月1日 |
8 | 神奈川県 | 川崎市 | 1,425,678 | 1,551,788 | +8.85 | 政令指定都市 | 2024年10月1日 |
9 | 埼玉県 | さいたま市 | 1,222,910 | 1,351,136 | +10.49 | 政令指定都市 | 2024年10月1日 |
10 | 広島県 | 広島市 | 1,174,209 | 1,179,915 | +0.49 | 政令指定都市 | 2024年10月1日 |
11 | 宮城県 | 仙台市 | 1,045,903 | 1,096,168 | +4.81 | 政令指定都市 | 2024年10月1日 |
12 | 福岡県 | 北九州市 | 977,288 | 908,109 | -7.08 | 政令指定都市 | 2024年10月1日 |
13 | 千葉県 | 千葉市 | 962,130 | 984,598 | +2.34 | 政令指定都市 | 2024年10月1日 |
14 | 大阪府 | 堺市 | 842,134 | 806,860 | -4.19 | 政令指定都市 | 2024年10月1日 |
15 | 新潟県 | 新潟市 | 812,192 | 766,259 | -5.66 | 政令指定都市 | 2024年10月1日 |
16 | 静岡県 | 浜松市 | 800,912 | 774,899 | -3.25 | 政令指定都市 | 2024年11月1日 |
17 | 熊本県 | 熊本市 | 734,294 | 737,409 | +0.42 | 政令指定都市 | 2024年10月1日 |
18 | 神奈川県 | 相模原市 | 717,561 | 723,586 | +0.84 | 政令指定都市 | 2024年10月1日 |
19 | 静岡県 | 静岡市 | 716,328 | 671,924 | -6.20 | 政令指定都市 | 2024年11月1日 |
20 | 岡山県 | 岡山市 | 709,584 | 712,632 | +0.43 | 政令指定都市 | 2024年10月1日 |
法・政治
日本国憲法上、同憲法を最高法規とし、この下に、国会が制定する法律、内閣が制定する政令や各省庁が制定する省令などの命令、地方公共団体が制定する条例など、各種の法令が定められる。この他、日本国憲法改正以前の勅令や大日本帝国憲法以前の太政官布告・太政官達は新たに制定されることはなくなったが、憲法に違反しない限り有効である[要出典][120]。憲法上、裁判所は、全ての法令や行政行為などが憲法に適合するか否かを最終的に判断する違憲法令審査権を有し、最高裁判所を終審裁判所とする。もっとも、いわゆる司法消極主義に基づき、国会や内閣など政治部門の判断への干渉は、控えられることが多い。
日本国憲法
日本国憲法は、現在の日本の国家形態および統治の組織・作用を規定している憲法[121]。1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された[121]。ブルジョア憲法(資本主義憲法)の一種[122][123]。
形式的には大日本帝国憲法第73条を適用して、大日本帝国憲法の改正手続を経て制定された。以降、2019年現在に至るまで、改正されたことは一度もない。硬性憲法に分類される。
日本国憲法の根底には第13条「個人の尊厳」の理念があり[124][125]、以下の三つを三大原理とする[126][127][128]。
- 基本的人権尊重主義(自由主義) ― 国民の基本的権利保持と平等の両立を目指す。
- 民主主義(国民主権主義)― 主権が国民に由来する。
- 平和主義 ― 戦争の放棄(交戦権の放棄)、戦力(軍隊)の不保持を規定する。
統治機構(日本国政府)は、憲法上、立法権を国会に、司法権を裁判所に、行政権を内閣に、それぞれ分配する権力分立制(三権分立)を採る。また、内閣が国会の信任に拠って存在する議院内閣制を採用する。41条は、国会を「国権の最高機関」と定めるが、この意味につき学説は分かれ、国政の中心的位置を占める機関であることを強調する政治的美称であるとする説(政治的美称説)[129]、「国家諸機関の権能および相互関係を解釈する際の解釈準則となる」とする説(総合調整機能説)[130] が有力である。
長らく、戦争の放棄、戦力の不保持を定めた第9条と自衛隊の存在意義などを巡って憲法改正論議が行われている。なお、一部には、現行憲法の制定に法的瑕疵があったとして日本国憲法自体の無効を主張し、今も大日本帝国憲法が有効であるとする者もいる。
天皇
「天皇」は、日本国憲法第1条に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人[131]で、現行憲法では「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。」と記載されている。大日本帝国憲法では第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬(そうらん)」するとの明記があったが、現行の日本国憲法には天皇を元首とする旨の規定はない。
『日本大百科全書』は、天皇には通常の立憲君主の権限は無いとし、『法律用語辞典(第4版)』は、象徴天皇と元首天皇を別としている[132]。また『国史大辞典』は法制上、象徴天皇は君主ではないとしている[133]。
『岩波 日本史辞典』によると、「日本の君主制」は「天皇制」という[134]。戦後に「社会科学用語として定着」したとされる[134]。憲法で天皇を「象徴」と称することから、「象徴天皇制」ともいう。「象徴天皇制は天皇が元首でないので君主制としない説もある」とされる[135]。 憲法学者の野中俊彦、中村睦男、高橋和之、高見勝利の共同著作『憲法I』(第5版)によれば、「象徴にすぎなくなった天皇は君主といえるか」という問題は、君主の定義による[136]。民主主義の浸透後は、君主制が維持された国でも、君主権は名目化した[136]。こうなると、君主制か共和制かの区別は無意味に等しい[136]。天皇が君主かどうかは、憲法学上「ほとんど議論の実益のない問題」とされている[136]。
東洋史学者岡田英弘の『倭国』および『日本史の誕生』によると、720年に完成した日本最古の史書『日本書紀』では、「高天原」より日向(宮崎県)の高千穂山に下った(天孫降臨)太陽の女神アマテラスの孫ニニギノミコトの孫の神武天皇を初代とする一つの皇統が、一貫して日本列島を統治し続けてきたとされる[137]。『百科事典マイペディア』によると、神武天皇は「もとより史実ではない」とされている[138]。また、皇統が分裂して、二系統が交互に皇位に就いた「両統迭立」[139]、皇統が分裂抗争した「南北朝時代」という語が存在している[140]。『NEWSポストセブン』では、「現存する世界最古の王室としてギネスブックに登録される日本の皇室」と記述されている[141]。
元首
日本国憲法に「日本国の元首」についての規定がないため、現在元首については様々な見解がある[142]。政治学者の田中浩、憲法学者の芦部信喜、総合政策学者の長野和夫によると学説の多数は、権限を持つ内閣または内閣総理大臣を元首としている[142][143][144](内閣・内閣総理大臣元首説)。また、現行憲法施行後も変わらず天皇が元首であるとする説(天皇元首説)、国権の最高機関たる国会の長である衆議院議長を元首とする説(衆議院議長元首説)や、そもそも日本には元首が存在しないという説さえある。
国政
日本は単一国家であり、その政治体制としては、「議会制民主主義体制」・「象徴天皇制」[145][注 20]・「議院内閣制」を採るとされる。
立法府
国会は、衆議院(下院)と参議院(上院)との二院から構成される二院制の議会(立法府)である。「国権の最高機関」であり、「国の唯一の立法機関」とされる(憲法41条)。衆議院・参議院は、いずれも全国民を代表する選挙(衆議院議員総選挙・参議院議員通常選挙)により選出された国会議員(衆議院議員・参議院議員)によって組織される。ただし、法律や予算、条約の議決、内閣総理大臣の指名、内閣不信任決議などにおいて、衆議院に参議院よりも強度な権限が付与されている(衆議院の優越)。これは、衆議院解散があり、任期も短期間であるため、より民意を反映しているため、と説明される。
行政府
行政府である内閣は、その首長たる内閣総理大臣と、その他の国務大臣から構成される合議制の機関である。内閣総理大臣は、国会議員でなければならない。なお、日本国憲法施行以来、慣例として衆議院議員が内閣総理大臣に指名されている。国会から指名された人物は、天皇により国事行為として、儀礼的・形式的に内閣総理大臣に任命される。国務大臣は、内閣総理大臣が任命し、天皇が認証する。国務大臣の過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない。内閣総理大臣、その他の国務大臣は、文民でなければならない。内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う一方、衆議院の実質的な解散権(解散決定権)を持つとする見解が多数説となっている(日本国憲法7条3項および69条を参照のこと)。
代 | 人目 | 内閣総理大臣 | 生年月日 | 年齢 | 内閣 | 政党 | 在任期間 | 日数 | 通算在任日数 | 閣僚兼任 | 栄典・兼職 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
103 | 65 | いしば しげる 石破茂 |
1957年 (昭和32年) 2月4日 |
67歳 | 第2次石破内閣 |
自由民主党 公明党 (自公連立政権) |
2024年(令和6年)11月11日 - 現職 |
12日 | 53日 | 衆議院議員 (第12期 鳥取1区選出) 第28代自由民主党総裁 |
国会では、国会議員のみが法案提出権を保持する。国会で審議される法案の大多数は、内閣が提出する内閣提出法案(政府立法、閣法)であり、国会議員が発議する法案(議員立法)が少ない。政府提出法案は、内閣の下に設置される省庁が国会議席の多数を占める与党との調整を経て作成するため、省庁の幹部公務員(キャリア官僚)の国政に対する影響力が強い。選挙には地盤・看板(知名度)・カバン(選挙資金)の「3バン」が必要とされることから、世襲政治家が多い。1970年代以降は中曽根康弘や小泉純一郎といった例外を除いて、内閣総理大臣の任期はせいぜい2年にとどまり、2006年(平成18年)以降は1年前後の任期が続いた。
- 55年体制とその後
- 国会では、1955年(昭和30年)に結党された自由民主党(通称:自民党)が、一貫して最多の議席を占めていた。同年に統一された日本社会党(通称:社会党、現在の社会民主党)と共に、両政党が結党した西暦年の下2桁をとって「55年体制」と呼ばれる政治体制を形作った。この体制は、自民党が与党として党の総裁(党首)を国会で内閣総理大臣に指名し、同党議員の中から国務大臣を任命して内閣を組織し、社会党が野党として自民党と対立・協調しながら、国政を運営するものである。新自由クラブと連立政権を組んだ1983年(昭和58年)から1986年(昭和61年)までの一時期を除き、1993年(平成5年)までの約40年間、自民党の単独政権が続いた。
- 1993年(平成5年)に自民党羽田派が離党して新生党を結党し、非自民・非共産連立政権である細川内閣(細川護熙首相)が成立したことで自民党が政権を離脱し、これをもって戦後長年の日本政治を構築してきた「55年体制」が崩壊した。翌1994年(平成6年)6月に自民党・社会党・新党さきがけの自社さ連立政権である村山内閣(村山富市首相)が成立して自民党が政権に復帰した。次の橋本内閣(橋本龍太郎首相)以後、自民党は連立相手を組み替えながら総裁が内閣総理大臣に就任する時代が再度継続されたが、2009年(平成21年)8月の衆議院議員総選挙で大敗、衆議院第1党から転落し、翌9月に民主党・社会民主党・国民新党からなる民社国連立政権、鳩山由紀夫内閣(鳩山由紀夫首相)が成立。民主党を中心とする連立政権は野田第3次改造内閣(野田佳彦首相)を最後に2012年(平成24年)12月の衆議院議員総選挙での敗北で終焉を迎え、自民党と公明党の両党が再び政権に復帰し、自公連立政権が復活した。
司法府
日本国憲法により、司法権は裁判所(最高裁判所及び法律に定めるところの下級裁判所)が行使する。各地方公共団体には司法府は存在せず、各地に設置される下級裁判所(高等裁判所、地方裁判所、家庭裁判所、簡易裁判所)が裁判を行う。また、日本国憲法により特別裁判所(皇室裁判所や軍法会議など)の設置は禁止されている。
司法制度として、刑事裁判に市民感覚を反映させる陪審制と参審制を折衷した制度である裁判員制度や、検察官の公訴権に民意を反映する検察審査会制度などがある。
地方政治
地方自治は、基礎的な団体である市町村、広域的な団体である都道府県の二段階から成る、地方公共団体が担う。
- 市区町村
- 市が795、町が743、村が183、合計1718[146][注 21]。北海道と沖縄、および一部の離島地域を除く日本国内では1889年(明治22年)にこの市町村制が施行された。他に、特別地方公共団体として、2016年10月10日現在、首都たる東京都に23の特別区(東京都区部)が設置されており、これらは市に準じた権限を持つ(地方自治法第281条第2項・第283条)。[147][148]かつては1万を超えた市町村数は、1950年代後半の昭和の大合併と2000年代の平成の大合併によって激減し、市町村の再編が進んだ。
- 執行機関たる市町村長、議決機関たる市町村議会[149] が置かれ、いずれも住民から選挙される。
- 財産を管理し、地域の事務を取り扱い、行政を執行する。法律の範囲内で条例を定める。特に規模が大きい市は、政令指定都市として、農林水産行政に関する権能などを除いて都道府県並みの権限を有する。
- 「市」は「し」と読まれるが、「町」は「まち」・「ちょう」、「村」は「むら」・「そん」の読みが混在している。
- 都道府県
- 都が1、道が1、府が2、県が43、合計47都道府県。1871年(明治4年)の廃藩置県により全国に行政区画として府・県が置かれた。市町村と異なり、県自体の合併・分立は1888年(明治21年)を最後に行われていない[注 22]。
- 都は特別区に関する一定の調整機能を有するが、府県の間には法律上の違いはなく、名称の差異は歴史的なものである[150]。道も地方自治法上は府県と同格であるが、特別法に道について若干の特例を定める(警察組織につき警察法第46条・51条など)。
- 執行機関たる都道府県知事、議決機関たる都道府県議会が置かれ、いずれも住民から選挙される。
- 市町村を包括し、より広域的な行政を行う。法律の範囲内で条例を定める。
現在、東京一極集中を緩和して地方分権を進めるため、都道府県を解消して更に広域的な道州を置く道州制の導入が検討されている(日本の道州制論議)。また、大阪都や中京都のように特別区をつくる運動もある(大都市地域特別区設置法)。
法制
明治維新以来、信託等一部の民法の規定を除き、大陸法系(特にドイツ法及びフランス法)を基礎としているが、立憲君主制や議院内閣制に英国法、最高裁判所以下司法についての規定につき米国法の影響を強く受けているなど、憲法を中心として英米法の影響も見られる[151]。日本国憲法、民法、商法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法を総称して六法と称する。この六法が日本の法令の基本を成し、日本の法学の基本的な研究分野と考えられてきたことによる。商法のうち、企業に関する定めの多くは、会社法に分けられた。刑法には、死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留、科料、没収が刑罰として定められている。私法分野においては一定の範囲内で慣習法は効力を有するが(法適用通則法3条)[注 23]、刑法については罪刑法定主義を採り、慣習法を排除する。
死刑制度のあり方を巡っては、憲法制定の当時から議論がある(死刑存廃問題#日本での動きを参照)。ただし、判例は死刑制度を合憲としており(死刑制度合憲判決事件)、いわゆる「永山基準」を「死刑選択の許される基準」としている[152]。2009年より、刑事事件につき重大な犯罪について裁判員制度が導入されている。
報道の自由
戦後、憲法によって表現の自由・報道の自由が保障され、建前上、報道に関する政府からの介入は存在しない。
記者クラブ制度によって加盟しているマスメディアのみが記者会見を独占し政府や行政機関などからの情報を受けるメリットを享受している。記者クラブが開催している会見は、加盟マスコミ以外を排除しており、報道の自由を侵害しているとフリージャーナリストや外国メディアなどからの批判が多い。テレビ放送・ラジオ放送については放送法により、中立な内容が義務付けられており、政府が発行する免許が必要である。総務省所掌の公共放送である日本放送協会(通称:NHK)の予算は、国会の承認が必要である。新聞については、再販制度の存廃など、様々な形で事実上の介入が行われている。また、収入源の広告料収入を大企業に頼る大手マスメディアは、スポンサーとなりうる大企業を批判することに慎重であり、また中国をはじめ経済的に大企業が依存する国家に対しても慎重な態度を取る。一方、一部団体の抗議の対象になるのを避けるため、「放送禁止用語」や「出版禁止用語」を定めて差別的な表現や下品な表現を「自粛」・「自主規制」することが行われている。また、現在進行中の誘拐事件など人命に関わる場合などにも「自主規制」の対象になる。
なお、近年に発生した報道機関を狙ったテロとしては、未だ解決に至っていない赤報隊事件がある。国境なき記者団が作成する報道の自由度を示すランキングでは、調査対象国180ヶ国中、第61位(2015年)である。各国を5段階に分けた分類では、上から3番目の『顕著な問題のある国』にカテゴライズされる。国境なき記者団は日本における課題として、記者クラブ制度により外国人ジャーナリストやフリージャーナリストによる情報のアクセスが妨げられていること、「東日本大震災で発生した津波や原発事故に関しての過剰な報道規制」などを挙げている。また2007年度の調査では「過激なナショナリストによる報道機関への襲撃の減少が見られる」と述べていた[153][154]。また、2018年には放送法第4条(政治的公正・事実の報道・多角的な報道について規定されている)の撤廃が検討されている[155]。
外交・国際関係
現在、世界の195か国に日本の大使館が設けられており、155か国が日本に大使館を設け38の国際機関が日本に事務所を設けている。[157]
2018年10月には日本からビザなしで渡航できる国の数が世界一位となった。これまで、日本はシンガポールと並び、ビザを取得しなくても189ヵ国に渡航することができたが、ミャンマーが日本に対してビザを免除したため日本はビザ無しで190ヵ国に渡航出来ることになり、単独1位となった。調査対象となった199の国と地域の中で最多だった。[158]
唯一の軍事同盟国であり、国内に軍隊の駐留(在日米軍)をさせているアメリカ合衆国との関係を最も重視し、世界中の国と友好関係を築いているといわれている。外交の基軸として国際連合(通称:国連、UN)を中心に各国と幅広い外交を展開し、援助や貿易を実施している。伝統的に地理的に近距離にある東アジア各国と強い関係を保持してきた。更に、第二次世界大戦敗戦後から日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)締結・発効までに連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)として日本の間接的占領統治を担った主要国で、その解除後も軍隊の駐留継続をはじめとして多大な影響力が行使されるアメリカ合衆国(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)を最重視している。その他、アジア太平洋経済協力(APEC)の参加国の一国として、東南アジアのASEAN(東南アジア諸国連合)諸国やオーストラリア、かつての冷戦下の西側諸国の一員として西ヨーロッパ各国、欧州連合(EU)主要構成国との関係も深い。また、日本はG7、G8、G20、経済協力開発機構 (OECD)、世界貿易機関 (WTO) 加盟国であり、いわゆる列強に数えられる国家の一つである[159][160]。
国際連合
国際連合:日本はかつて第一次世界大戦の戦勝国である連合国の一国として、国際連盟(League of Nations)の原加盟国ならびに安全保障理事会常任理事国を務めていたが、やがて脱退し、連合国(現在の国際連合の前身) (United Nations) を相手に枢軸国の一国として第二次世界大戦を戦い敗れたという経緯がある。国際連合は戦後も継続し、日本は敵国条項によって現在もあくまで「敵国」の位置づけである。1956年(昭和31年)にソ連との国交を回復し加盟を果たした。これまでに国際連合安全保障理事会の非常任理事国として最多選出されている。また敵国の位置づけにありながら世界第2位の国連分担金を拠出するという矛盾した状態になっていたが、2018年に決定された2019年からの国際分担金比率は中華人民共和国に抜かされ世界第3位の位置付けになった。しかしながら、敵国の位置付けにありながら高い国連分担金を負担している現状に変わりはない。国連改革の一環としてドイツ、インド、ブラジルなどのG4諸国と常任理事国入りを訴えているが中国や韓国の反対で実現していない。また、国連では約800人の日本人専門職員が働いているが、G7諸国は職員数が1000人以上なのを踏まえると日本人職員の数は少ない。事務局では望ましい職員数の197名に対し事務局で働く日本人職員数は79名となっている。日本の知識層の多くは多大な貢献に比べ、恩恵や評価を受ける以前に敵国条項すら削除されないと指摘している。
長く国連の武力行使を支持しても、経済援助のみに関与するという慎重姿勢を取り、湾岸戦争でも巨額の戦費負担をしたが戦力を出さなかった。しかし近年、PKO協力法などの成立に始まり、課題を残しつつも法的根拠が整った。イラク戦争終結後、自衛隊を派遣して復興支援活動に携わるなどの機会も増えている。
東アジア
東アジアでは、古来地理的に近距離で隣接する中国や朝鮮などを中心に外交が行われていた。日本は儒教・漢字文化圏の一角であり、伝統的な文化の中には、雅楽、水墨画、陶磁器、禅宗、書道など、東アジアをルーツに持つ物が多い。明治期以降、文明開化により西洋文化を採用して発展した日本の文化が逆に東アジアに伝播した。欧米を始めとする世界中との外交が盛んになるのは、明治維新以降である。かつて日本領であった台湾(中華民国)や韓国(大韓民国)は(日本統治時代の台湾・日本統治時代の朝鮮)、現在でも重要な貿易相手である。北朝鮮(正式国名:朝鮮民主主義人民共和国)に対しては、日本は国家承認しておらず、国交も存在せず経済制裁を実施している。日本、韓国、台湾は、それぞれアメリカ軍と同盟関係・安全保障関係にあり、相互に緩やかな協力関係にある。一方、建国由来から朝鮮戦争以降、北朝鮮と中国(中華人民共和国)とは同盟関係にあり、中国とロシア(旧ソビエト連邦)も協力関係にある。
中華人民共和国:日本は1972年(昭和47年)の日中共同声明および1978年(昭和53年)日中平和友好条約締結にともない、中華人民共和国との国交を正常化した。改革開放政策の後、経済成長を達成して数多くの日系企業が生産拠点を移転させ、また、2006年(平成18年)より貿易総額でアメリカを上回って最大の貿易相手国となった[161]。靖国神社問題に関連して関係が悪化した。日本では、2005年の中国における反日活動なども盛んに報道され、また、2008年6月、アメリカの民間調査機関ピュー・リサーチ・センターの調査では、中国を好ましくないと答えた割合が84%(前年比17%増)となり、調査した24カ国の中で最も高かった。また、日本人の中国への旅行者も減少した。一方、中国では、前年比から9%減少したが、それでも69%が日本を好ましく思っていないという調査結果となり、依然として両国民が相互に反発していることが明らかとなった。中国の報道は中国共産党の統制下にあり、一般国民に日本からのODAや謝罪などが周知されているとは言いがたいが、四川大地震に際しての国際緊急援助隊の救援活動など、中国人からの感謝の意が表れる出来事もある。2010年以降、GDPで日本を抜いて、無視できない存在となっている。
軍事面では日本全土を射程に収める核弾頭を搭載可能な弾道ミサイル東風21型を推定100発、精密攻撃が可能な巡航ミサイル東海10型・長剣10型を推定600発保有しており日本の脅威となっている[162]。
北朝鮮:現在、国交は存在しない。北朝鮮は、韓国併合(旧李氏朝鮮・大韓帝国の大日本帝国への併合)に対する評価や賠償問題・請求権問題、いずれについても決着していないとする立場である。日本国政府は、日韓基本条約に基づいて大韓民国政府のみが朝鮮半島の正統な政府であるとの立場である。また、賠償問題も韓国との条約によって解決済みとの立場である。2002年(平成14年)の日朝首脳会談では、賠償権を相互に放棄し、日本が北朝鮮へ経済協力を実施する方法で合意したと発表されたが、その後、国交正常化交渉の停滞を招いている。背景には、北朝鮮による日本人拉致問題や不審船事件などに対する日本の世論の反発や北朝鮮核問題などで孤立を深める北朝鮮の現状がある。日本は、現在これらを受けて経済制裁を北朝鮮に実施している。北朝鮮は、核カードを使ってアメリカからテロ支援国家指定の解除を引き出した。2012年(平成24年)4月、北朝鮮は自国憲法(朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法)に核保有国と明記した。軍事面では西日本を射程に収める短距離弾道ミサイルのスカッドERを推定350発、日本のほぼ全域を射程に収めるノドンミサイルを推定200発保有しており、日本の安全保障上深刻な脅威となっている[163]。
大韓民国:建国当初より一般国民における反日感情が強く、朝鮮戦争中には韓国を支援するために警察予備隊(現在の自衛隊の前身組織)の掃海部隊や港湾労働者を韓国に派遣するとともに日本国内での韓国軍(大韓民国国軍)の軍事訓練を受け入れるなどしたが、1952年(昭和27年)には韓国が一方的に李承晩ラインを宣言し竹島を占拠したことによって多くの日本人漁師が殺害・拿捕され、竹島問題が発生した。また、日本に潜入した工作員によって新潟日赤センター爆破未遂事件や金大中拉致事件などの事件が起こされている。四月革命により李承晩独裁政権を打倒し軍事政権を樹立した朴正煕は国民多数の反発を押しきって日韓基本条約を締結し、日本との国交を樹立、日本から得た賠償金を経済成長の原資としたが、これを国民に隠蔽していたために後に日本統治下の植民地支配の賠償をめぐる紛争が起きる原因となった。韓国では近年まで日本の大衆文化禁止政策が実施されていたが、金大中政権で日本の大衆文化の自由化が進められ、日本への親近感を抱く人々の増加も見られた。盧武鉉政権では当初は日本との融和姿勢を見せたものの、間もなく強硬な外交方針に転じ、日本との領土問題や歴史問題にも強硬姿勢で臨んだ。2005年(平成17年)、盧武鉉大統領はアメリカ政府に対して日本を仮想敵国として想定するように提案した[164]。政権時代後半には竹島問題などで「対日外交戦争」を公言し、小泉純一郎首相の靖国神社参拝などもあって日韓関係は冷え切っていた[165]。李明博政権では、前政権で悪化した近隣諸国との関係を修復し、日本にも比較的穏健な姿勢で臨む方針を当初は見せたが、天皇への謝罪要求や知的財産や漁業権の侵害や竹島問題など根本的な改善の兆しは見られなかった。韓国軍は日本全土を射程に収める巡航ミサイル玄武-3ミサイルを配備している。これに伴い韓国での日本大衆文化の流入制限も徐々に制限を緩和しつつある[166][167]。2010年(平成22年)9月、日本の女性アイドルグループであるSKE48が日本語で歌唱する姿が韓国の地上波テレビで初めて生放送された。両国間で日韓犯罪人引き渡し条約を締結しているが、靖国神社に放火した犯人を政治犯として釈放したことについて、安倍晋三内閣総理大臣は「条約を無視する行為である」と述べ韓国側の対応を批判した[168]。
中華民国:台湾(中華民国)は、日清戦争で大日本帝国に割譲されて以来第二次世界大戦終結まで50年間の日本統治時代を経験している。第二次世界大戦後は国共内戦で中国共産党軍(現在の中国人民解放軍)に敗北した中国国民党が1990年代まで独裁政治を敷いてきた。かつて日本は中華民国を中国の代表政権と見なしていたが、1970年代の日中国交正常化の際、日本は中華人民共和国を正当な国家として認定し、かつ中華人民共和国に配慮し台湾を独立した国家とはみないことを約束した。日本政府は現在までこの中華人民共和国優先政策を対中台外交の基本姿勢としている。2011年現在も台湾を国家として承認しておらず、双方ともに大使館を配置しない代わりに民間の利益代表部を置く。1996年に国民党一党独裁が解消され、その後は国民党と民主進歩党との二大政党である。日本統治時代を経験した多数派の本省人が親日的傾向が強いのに対し、政治的実権を握っていた少数派の外省人は、反日姿勢が強いと言われていたが、1990年代には本省人である李登輝が総統に就任するなど融和が進展した。安全保障面において台湾は、台湾関係法などを背景にアメリカ軍と密接な関係にあり、日米安保体制を維持する日本とも間接的な協力関係にある。1970年代以降、日台間でも尖閣諸島の領有問題があり係争も勃発したが、深刻な対立に至っていない。人的・経済的な交流は、一貫して盛んで、特に近年は李登輝政権以降の台湾本土化運動の結果として国民の親日姿勢が強まる傾向にある。2011年3月11日発生の東北地方太平洋沖地震・東日本大震災では、台湾から世界最多となる200億円超の義援金が日本に送金された。また、交通面において海外で初めて日本の新幹線システムの一部を採用した。
東南アジア
歴史的には日本と東南アジア地域との関係は朱印船貿易が盛んだった16世紀末から17世紀ごろまでさかのぼる。日本が鎖国をした江戸時代の間に、タイ王国を除けば東南アジア地域は欧米列強(アメリカ、イギリス、オランダ、フランス)の植民地になっていった。第二次世界大戦では日本と同地域を植民地支配する欧米列強との交戦地となったために同地域の住民にも多数の犠牲を出した。しかし第二次世界大戦後に独立を果たした各国は日本と国交を結び、良好な友好関係を構築し、それを堅持している。タイ、フィリピン、マレーシアなど経済的にも文化的にも関係が深く、互いの国民に対する感情も良いとされる。また、日本は、これら各国との経済関係を1970年代ごろからASEAN(東南アジア諸国連合)を通じて深めており、1997年からASEAN+3に参加している。また自由貿易協定 (FTA) の締結を模索している。自衛隊のPKOとしての派遣も、初の派遣がカンボジアへ、また東ティモールへも派遣された。東南アジア諸国連合 (ASEAN) 諸国との間で定期的に首脳会談を行い、関係を重視している。また、この海域(特にマラッカ海峡)は、中東から輸入した原油の9割近くが通過するなど非常に重要なルートであるが、海賊が頻繁に出没する。その対策として、海上保安庁が各国の沿岸警備隊に対して指導・共同訓練を行っている。天皇皇后がタイ、マレーシア、インドネシア、シンガポール、フィリピンを訪問している。
タイ:タイ王室と皇室との関係も良好で、日本とタイの貿易結合度は第一位となっており、世界とタイとの平均的な結合度の4倍となっている[169]。
フィリピン:フィリピンの主要貿易相手国はアメリカと日本であるが、近年は中国や韓国との貿易も増えている。在日フィリピン人は、在日外国人として国籍別で第4位の人口を有する。16世紀にはスペインが当時の領有地だったフィリピンを対日貿易の拠点とし、日本を追放された高山右近も受け入れたが、江戸幕府の鎖国政策による外交関係の断絶とともに日本との交流は途絶えた。太平洋戦争(大東亜戦争)では当時アメリカ自治領だったフィリピンに日本軍が侵攻し、現地住民を巻き込んで激戦地となった経緯があり(フィリピンの戦い)、戦後のフィリピンでは対日感情が悪かったが、経済支援などによって徐々に改善が進められた。
ベトナム:1905年(明治38年)、フランス領インドシナとしてのフランス統治に反発するベトナム民族運動家達は日露戦争勝利後の日本に留学する東遊運動を行ったが、日本政府は1907年(明治40年)締結の日仏協約によって運動家を追放した。第二次世界大戦でフランス第三共和政が崩壊した後、日本は日中戦争(支那事変)の一環として1940年(昭和15年)に仏印進駐を北部に、1941年(昭和16年)には南部に実施したが、特に南部仏印進駐は同年12月の日米開戦を強く促した。1945年(昭和20年)3月にベトナム帝国を成立させてフランスを排除した日本が同年9月に降伏すると、北ベトナムとして成立したベトナム民主共和国、現在のベトナム社会主義共和国は、ベトナム戦争において日本と安全保障面で協力関係にあるアメリカ合衆国と交戦したベトナム共産党による独裁政権であるが、同戦争では日本は直接参戦を行わなかった。ベトナム戦争終結前、まだ南ベトナム政府が残留していた1973年(昭和48年)には日本との国交を樹立し、日本はベトナムに多額の開発援助を続けてきた。近年も日本の国際連合安全保障理事会(通称:国連安保理)への常任理事国参入をどのような圧力を受けたとしても支持すると表明するなど日本に協力的である[170]。一方、1975年のベトナム統一後に社会主義政策を嫌ってボートピープルとなったベトナム難民(インドシナ難民)の一部を日本は受け入れている。2018年には15万人を超えるベトナム人労働者を技能実習生として受け入れており2019年に新設された在留資格である特定技能の覚書を交わすなど日本にとってベトナムは重要な労働者の供給地となっている[171][172]。
シンガポール:イギリス領マラヤの中心都市だったシンガポールは1942年(昭和17年)にシンガポールの戦いによってイギリス軍を破った日本軍が占領すると昭南島と改称され(日本占領時期のシンガポール)、1945年(昭和20年)の日本の降伏まで軍事占領と華僑系を中心とした住民の抵抗が続いた。1966年(昭和41年)にシンガポールがマレーシアから追放されて分離独立すると日本は直ちに承認し、友好関係を維持した。2002年(平成14年)には日本・シンガポール新時代経済連携協定を結び、日本にとって初の自由貿易協定締結国である。
カンボジア:旧フランス植民地のカンボジアでは、日本からは経済面での支援や地雷撤去の活動なども精力的に行われている。また、文化面でもクメール・ルージュによって破壊・弾圧された仏教の施設や信仰の復興に、日本の仏教界が大きく貢献している。カンボジアは日本の常任理事国参入について不変の支持を行っている[170]。一党独裁化を強め欧米から批判を受け支援を打ち切られているカンボジアに対し日本だけが支援をしており日本は経済支援と民主化の同時進行を促す立場をとっている[173]。しかし日本がカンボジアに選挙の資金援助した2018年の選挙ではカンボジア政府が最大野党の解体を決定、全議席が与党のものとなり民主化は逆行している[174]。
インドネシア:旧オランダ植民地で、独立の際に一部の日本人が関与したこともあり、親日派もいた一方、1960年代の政局の混乱のなか共産党勢力の台頭に伴い中国等へ接近したが、1966年以降のスハルト体制は再び日本との関係を強めた。2001年のアメリカ同時多発テロによって米国との関係が悪化し、2005年まで武器禁輸などの制裁を受けた。そのためロシアや中国との関係強化をすすめ、多極外交を展開している。日本との関係は良好で、LNG貿易をはじめ日系企業も多数進出し、また日本の政府開発援助 (ODA) はハードインフラ整備に加え、市民警察活動促進計画[175] など統治能力支援(ガバナンス支援)や法整備支援[176] などソフトインフラ整備の支援も近年行っている。スマトラ島沖地震では、金額で国別3位の支援を早急に決めて拠出し、更にアチェ州へ海上自衛隊の艦艇を派遣した。防災システムの構築にも支援を行っている。
アメリカ合衆国
アメリカ合衆国:軍事・経済・政治すべてにおいて緊密な関係にある。黒船来航から始まる経済関係は、アメリカ合衆国の経済力を背景に大きなものであり続け、2006年(平成18年)まで最大の貿易相手国だった。大東亜戦争(当時の日本側呼称、第二次世界大戦戦線の一部)では、東アジア・西太平洋地域で4年間戦闘に至った末に降伏し、米軍を中心とした連合軍に占領された。アメリカ合衆国はGHQ(SCAP)を通して7年の占領統治で中心的な役割を果たした。日本はサンフランシスコ講和条約にもとづき1952年(昭和27年)4月28日に主権が回復するが、依然として在日米軍に自国の安全保障の大部分を依存している関係は続き、翌年には日米安全保障条約が締結されいわゆる「日米同盟」が成立した。アメリカ合衆国にとっても本土から遠距離にある極東地域に軍事基地用地を提供し、日本においては思いやり予算とも呼ばれる多額の軍隊駐留費用を負担する同盟国の存在は重要なものであり、強固な同盟関係が続いている。これについて反対運動、特に基地の地元住民の米軍基地反対運動と基地移転問題が外交問題に発展することもある[177][178]。日米関係は親密であるがゆえに時として摩擦も大きくなることがあり、ジャパンバッシングのような現象が起きることがある。そしてアメリカ合衆国政府の意向は、対日要望書などの形を通して日本政府に伝えられ、日本の政策決定に影響力を与える「外圧」となっているとされる。また、犯罪人引渡し条約を締結する数少ない国の一つである。
オセアニア
オセアニアの中でも南洋諸島の各国は、かつて日本が委任統治領ないし占領地として統治下に置いていたこともあり、関係が比較的深い。ミクロネシア連邦では、日系人のトシオ・ナカヤマやマニー・モリが大統領に選ばれている。パラオは、かつて日系のクニオ・ナカムラが大統領に就任し、一部の自治体で日本語が国の公用語として採用されている(実際に日本語を日常的に使用しているわけでなく、象徴的な意味合いが強い)などの経緯もあり、官民とも非常に親日的である。
オーストラリア:オセアニアで最大の影響力を持つオーストラリアと非常に緊密な関係を築いている。日米豪の防衛首脳会談が行われたこともあり、経済、軍事、外交などで共同歩調を取る。2007年(平成19年)3月には、自衛隊とオーストラリア軍とが国際連合平和維持活動(PKO活動)の共同訓練、反テロ活動、津波など地域災害に協力して当たることなどが盛り込まれた安全保障協力に関する日豪共同宣言に調印した。これにより、日本にとって安全保障分野で正式な協力関係を結ぶ(アメリカに続く)2番目の国となる。
ロシア・中央アジア諸国
日本とロシアとの関係は1792年にアダム・ラクスマンが当時のロシア帝国の使節として根室(現在の北海道根室市)に来航したときにはじまる。江戸時代末期・幕末に江戸幕府との間で択捉島と得撫島の間を国境とする『日露和親条約』が締結された(日本ではこの条約を「北方領土」の固有性の根拠としている)。ラクスマン来航のときにすでにロシアは南下政策をとっており、中央アジアやコーカサス地域も征服しており社会主義革命でソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)が成立してからもこれら地域はソ連の構成国として維持された。そのために、中央アジアの西トルキスタン諸国やコーカサス地方の国々との関係は1991年のソ連崩壊後に本格化した。1997年(平成9年)に橋本政権が「ユーラシア外交」が提案されのちの政権も継承されることになった。しかし、2001年9月11日の米国ニューヨークでの同時多発テロ以降は低調である。経済基盤の貧弱な国が多く、更に海に面していないために輸送コストなども掛かるなどの理由から、一部の希少な地下資源を除き、貿易などの経済的な関係も他地域と比べて活発と言えない状況にある。ただ、この地域に栄えた古代王朝や仏教遺跡の研究などの学術関係での交流は活発である。
ロシア:日露関係は断続的に関係が深まる時期をはさみつつも、対立の時期が長い。これはかつての帝政ロシアが伝統的に南下政策を取り、太平洋への出口を求めたため、通り道の日本との間に地政学的な対立構造があるからである。満州(現在の中国東北部)・朝鮮半島の支配権をめぐって1904年(明治37年)に勃発した日露戦争や、1917年(大正6年)に起こったロシア革命に日本などの諸国が干渉して起こしたシベリア出兵、第二次世界大戦終戦直前にソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破棄して日本支配地域に侵攻したソ連対日参戦などが起こってきた。日本のポツダム宣言受諾(日本の降伏)による終戦後も南樺太と千島列島への侵攻を続け併合し、日本軍兵士を捕虜として連行してシベリア抑留をするなどの行為が日本の人々の反感を生み、1956年(昭和31年)の日ソ共同宣言で一応国交が回復した後も、冷戦の中で緊張関係が続いてきた。1986年(昭和61年)以降に関係の改善が進み、1991年のソ連崩壊によりその外交権を継承したロシア連邦も比較的友好的な対日政策を取った。現在の日露両国の間では、経済的な交流も盛んだが、領土問題やそれに起因する漁民銃撃・拿捕事件、資源問題(サハリン2を参照)なども生じており、その関係は円滑ではない。
南アジア・西アジア
南アジア各国とは友好関係を維持している。6世紀とされる仏教公伝以来、日本の宗教・文化・政治に深く根ざした仏教(大乗仏教)の発祥地として古代インドは「天竺」の名で広く知られ[注 24]、サンスクリット(梵語)で書かれた仏教経典や哲学思想が広く流入した。また、16世紀後半からの南蛮貿易ではポルトガルがインド西海岸のゴアに築いていたポルトガル領インド植民地が重要な中継点となっていたが、南アジア諸国と日本の正式な外交関係は第二次世界大戦後の各国独立と日本の主権回復後に始められた。日本は「戦争による唯一の被爆国」であるということから(日本への原子爆弾投下)、核実験を実施したインドやパキスタンと距離を置いていた時期もあったが、近年、両国との関係が重視されるようになり、2006年(平成18年)に外務省アジア大洋州局に南部アジア部を新設した。宗教的な対立要因が存在していないため、両国間では特に厳しい対立関係にあるインド・パキスタン双方を含め、各国民の対日感情は比較的良好とされる。
一方、間に巨大な中国文化圏が存在し、7世紀以降に西アジアで広く信仰されたイスラム教の日本伝播が20世紀まで非常に希で、政治・経済面でも戦前の日本が英仏統治下の西アジアに入る余地はなかったため、日本と西アジア地域はトルコやペルシア(1935年からイラン)との小規模ながら友好的な外交関係を除くと希薄なままだった。しかし、1950年代に日本がペルシア湾周辺の油田についてイラン・サウジアラビア・クウェートなどの湾岸諸国と相次いで協定を結び[179]、1960年代以降は原油輸入元の大半を中東諸国が占めるに至って[180][181]、日本経済の根幹に関わる「エネルギー外交」で中東諸国との関係が死活的に重要となった。近年では日本の自衛隊が中東地域での活動を行い、一方では日本人が犠牲になった殺害事件も起こるなど、西アジア諸国との関係は新たな段階に入っている。
インド:19世紀後半以降、日本とイギリス領インド帝国は綿織物市場で激しい国際競争を続けたが、日露戦争での日本の勝利はインドの民族運動家に「アジアの解放」という希望を与えた。その後の日本が帝国主義政策を進めると、ジャワハルラール・ネルーはこれを批判したが[182]、スバス・チャンドラ・ボースはその後も日本に期待し、第二次世界大戦で日英が開戦すると日本は「大東亜共栄圏」の一員としてボースによる自由インド仮政府設立を支援し、インパール作戦でインド侵攻を目指したが敗退した。しかし、日本の軍事行動がイギリスのインド統治に打撃を与えた事もあり、ネルー首相の下で1947年に独立したインド共和国は「非同盟運動」を掲げながらも敗戦国日本への融和と支援を続けた。
その後はインド国民会議派政権が非同盟を掲げながらソ連との軍事協力を重視し、国内でも国家統制や計画経済を基本とした「インド型社会主義体制」を取り、さらには1974年に核実験を実施した影響で、日本とインドの関係は知名度や距離の割には強くなかったが、1990年代のインド経済の市場化やインド人民党による政権交代などで、日本の経済進出が加速した。また、巨大化する中国を東西から挟む地政学的な理由もあり、今後関係が特に親密になると期待されている国のひとつで、近年の著しい経済発展や、情報技術での実績が注目されている。日本とインドはG4として共に行動する立場であり、2008年10月には、両国首脳が日印安全保障協力共同宣言(日本国とインドとの間の安全保障協力に関する共同宣言)に署名し、日本にとって、アメリカ、オーストラリアに次いで、安全保障分野で正式な協力関係を結んだ3番目の国となった[183]。さらに2011年、日本とインドは関税を段階的に撤廃するFTA(自由貿易協定)を柱としたEPA(経済連携 協定)が発効[184]。これが達成されれば、日本からインドへの輸出の約90%、インドから日本への輸出では約97%に相当する物品で、10年以内に関税がゼロになる。
パキスタン:1998年の地下核実験から2005年4月まで援助を停止していた。しかし、自衛隊イラク派遣などで、安全保障の観点から中東への影響力が強いパキスタンの協力が必要と感じた日本政府は、当時の小泉純一郎首相が訪問したのを機に有償資金援助を再開した。
バングラデシュ:1973年の独立以来世界最貧国の一つとも言われ、日本は、経済、保健、自然災害対策など多くの面で援助を行っている。また、日本と比べると非常に安い製造費での出荷が可能という点が着目され、アパレル産業を中心とした日系企業の進出が続いている。近年はバングラデシュの高度経済成長が続いているが[185]、その労働条件の劣悪さが非難される事もある[186]。
アフガニスタン:日本は、バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群の修復などに多額の援助を行っている。アメリカ合衆国が行った武力攻撃を支持したが、部隊の派遣は、自衛隊インド洋派遣に留めている。
イラン:日本と共に古代から続く領域国家で、8世紀に収められた奈良の「正倉院」の宝物庫にはサーサーン朝ペルシアの影響を受けた文物も収められている。正式な国交樹立はパフラヴィー朝成立後の1926年まで遅れ、第二次世界大戦末期の1945年2月には英ソ両国に占領されたイランが対日宣戦を布告したが、1953年の国交回復後は石油輸入元の確保を求める日本側とイギリスからの石油利権奪回を狙うイラン側の利益が一致し、油田開発や反共主義外交で両国間の関係は緊密になった。1979年にイラン革命が成功してイスラム教による国家統治と強烈な反米主義を掲げるイラン・イスラム共和国が発足した後も両国は友好関係の維持を求めたが、続くイラン・イラク戦争やアメリカによる対イラン経済制裁の影響を受けてイラン・ジャパン石油化学(IJPC)プロジェクトが中止され[注 25]、その後もイランの核開発問題[注 26]などが災いして、両国間の経済関係は現在でも双方の期待ほどには進展していない。
イラク:イラク戦争の後、自衛隊イラク派遣を行った。
イスラエル:日本は、中東和平やパレスチナ問題に関して中立の立場であり、政府高官が訪問する際には、イスラエル・パレスチナ自治政府の双方と会談が設定される等、バランスが図られている。
トルコ:親日国の代表として紹介される国である。オスマン帝国末期の1890年のエルトゥールル号遭難事件が友好関係の起源としてしばしば取り上げられる。経済技術面での交流では日本の建設会社によってボスポラス海峡にファーティフ・スルタン・メフメト橋を建設したことが挙げられる。
ヨーロッパ
日本が明治維新において近代化の模範としたのがロシアを含むヨーロッパ、よりわけ西欧諸国であり、『脱亜入欧』(福沢諭吉)の造語にあるように、明治時代以降に日本が留学生の派遣、お雇い外国人の使用などで積極的に学問、技術、文化の摂取に努めた。第二次世界大戦以降、西ヨーロッパを中心とする北大西洋条約機構(NATO)諸国と間接的な同盟関係にある。また、皇室は、イギリス王室をはじめ、オランダ、スウェーデン、ベルギーなどのヨーロッパ各国の王室と深い友好関係を築いている。一方、特にオランダなどには、第二次大戦で交戦したことによる悪感情が一部に残っているとも言われる[187]。冷戦の終結によって「鉄のカーテン」が撤去されると社会主義陣営に属していた旧東欧諸国やバルト三国との交流も活発となり、天皇・皇后美智子が2002年(平成14年)にポーランド、ハンガリー、チェコを、2007年にエストニア、ラトビア、リトアニアを訪問している(立ち寄りもふくむ)。
フランス:日仏関係は、幕末には江戸幕府がフランスの軍制を採用するなど、交流が始まり、明治期には法制面で影響を受けた。政治・経済面よりも文化面での交流が深い点に特徴がある。江戸時代の日本の文化は「ジャポニズム」として印象派美術などフランス文化に影響を与えた。またフランス文化は、美術、音楽、食文化、文芸などの面で日本の近代化に大きな影響を与えた。近年ではサブカルチュアーの分野での交流が盛んである。
ドイツ:日独関係は、日本が近代化を進めるにあたって、イギリスおよびアメリカ合衆国との関係に次いで重要な役割を果たした。科学技術・音楽・法律・文芸などにおけるドイツの影響は、現在の日本にも色濃く残っている。第一次世界大戦で日本と当時の帝政ドイツは交戦国となり、勝利した日本はアジア・太平洋地域におけるドイツの利権を獲得する。第二次世界大戦で日本とナチス・ドイツは対ソ連を意識して日独伊三国軍事同盟を締結したが、同盟はついに実効的なものとはなり得ず、両国は互いに不本意ながら米英を敵に回し敗北するという結末となった。戦後は、共に焼け野原から奇跡の復興を果たした経済大国として平和的な関係となり、重要なパートナーとしてイギリスやフランスを凌ぐヨーロッパ最大の貿易相手国となった。さらに、政治の面でも共に常任理事国参入を目指すG4のパートナーとして行動する。
イギリス:日英関係は、江戸時代前期の三浦按針に始まり、途中日本の鎖国や第二次世界大戦による中断をはさみながら長く続いている。特に強調されるのは19世紀後半から20世紀初頭の日本の近代化に果たしたイギリスの役割であり、イギリスは経済・文化・学術・政治・軍事のあらゆる面において日本に最も強い影響力があった。1902年(明治35年)、両国はロシアへの対抗として日英同盟を締結し、日露戦争や第一次世界大戦、シベリア出兵において相互に支援を行った。しかし、日中戦争(支那事変)と日独伊三国同盟によって両国は敵対することとなり、第二次世界大戦において交戦国となった。終戦後、イギリスは連合国の日本占領に参加した。占領終了後は、日本の皇室とイギリス王室の交流をはじめ、経済・文化面でも深い関係を築いている。
ブルガリア:日本とブルガリアの関係は、ジフコフ国家評議会議長が二度来日するなど、社会主義時代から交流があった。大阪万博でブルガリア館がヨーグルトを展示して以降、日本ではヨーグルトの国として有名であり、明治ブルガリアヨーグルトはブルガリア政府から許可を得て国名が使用されている。
中央・南アメリカ
総じてラテンアメリカと呼ばれる地域とほぼ一致するアメリカ大陸の中南部は、日本が西欧諸国との接触を持った16世紀には既にスペインやポルトガルの支配下にあった。スペインは現在の中米諸国やフィリピンを含むヌエバ・エスパーニャを統治し、ここを通じて対日貿易の展開や慶長遣欧使節の受入などを行ったが、使節団の帰国時には江戸幕府の鎖国政策が強化されており、日本と同地域との交流は17世紀前半に一度途絶した。
19世紀後半に日本が開国し、続いて明治維新が起きた時、ラテンアメリカ地域は既にほとんどが独立していた。明治政府は江戸幕府がアメリカ合衆国や西欧諸国との間で結んだ「不平等条約」の解消に苦心する中、ラテンアメリカ諸国との平等条約締結による外交実績の強化に動き、メキシコを皮切りに次々と外交関係を樹立した。中南米諸国も農業労働力の確保に利点を見いだし、19世紀末から日本人移民の受入を開始した。ただし、この地域はモンロー主義以来、アメリカ合衆国が強い関心と影響力を維持しており、真珠湾攻撃で1941年に日本とアメリカが第二次世界大戦(太平洋戦争)に突入するとメキシコ以外の中米諸国は即座に、それ以外の国も1942年のブラジル・メキシコから1945年までに全て対日宣戦布告を行って、一部では日系人の強制収容やアメリカ合衆国への国外追放も実施した。戦後は日本がアメリカの強い影響下に入った事もあり、両地域の交流は再び強化され、日本企業の進出や日系人労働者の日本移入なども行われた。また、東南アジアの経済発展も取り込む環太平洋パートナーシップ協定(TPP)に日本やメキシコ、ペルー、チリなどが参加し、同協定に不参加となったアメリカ合衆国を抜きにした独自の協力強化も進められている。
中央アメリカ(中米)諸国とは、人的・文化的な交流に乏しいものの、経済的な関係を中心に平穏な関係を保つ。また、キューバなどの社会主義国とも経済・文化の両面で友好的な関係が築かれ、ペルー日本大使公邸占拠事件でも日本の要請を受けたキューバがゲリラの亡命受け入れを受諾するなど協力した。
南アメリカ(南米)は、地理的に地球の真裏に位置するが、下記のように19世紀の後半からペルーやアルゼンチンと深い友好関係を有する。また、かつて日本からの移民を大量に受け入れた経緯もある。貿易関係では、チリとの関係が特に大きく、戦前からの友好関係が続くアルゼンチンやパラグアイといった親日的な国も多い。
バハマ:1973年7月10日の独立から二日後の同27日に独立承認。1975年から外交関係が設立される。2011年に「脱税の防止のための情報の交換及び個人の所得についての課税権の配分に関する日本国政府とバハマ国政府との間の協定」が結ばれたが2017年1月に改定することが両国で実質合意した。(バハマはタックス・ヘイブンとして知られている)[188]
メキシコ:中米諸国の中で最も関係が深い。幕末〜明治期の開国以降に結ばれた日墨修好通商条約は、それまで列強各国の不平等条約に苦難を強いられた日本にとって、初めての平等条約である。その関係で、数ある諸外国の大使館の中でも国政の中枢地区ともいえる東京都千代田区・永田町に所在するのは、メキシコ大使館のみである。第二次世界大戦では1942年にメキシコが対日宣戦布告を行い、フィリピン戦線では日本軍とメキシコ軍が交戦したが、メキシコ政府は国内の日系人に対する強制収容は見送った。戦後の両国間の関係は良好で、多数の日本企業が進出するなど経済的な関係も深い。特に自動車産業はメキシコと接するアメリカ合衆国への輸出も盛んで、1994年に発効した北米自由貿易協定(NAFTA)の恩恵も受けたが、自国産業や労働力の保護をアメリカ政府が取るとその影響を受ける環境にもある。
ペルー:1872年(明治5年)にマリア・ルス号事件をきっかけに修交が始まった。多くの移民が渡航し、ラテンアメリカ(中南米)で2番目に日系人口が多く、第二次世界大戦では日系人の逮捕とアメリカ合衆国への国外追放がラテンアメリカ諸国で最も多く行われた。1990年代に日系人であるアルベルト・フジモリ(スペイン語で「フヒモリ」)が大統領に就任して急速に関係が緊密化し、在ペルー日本大使公邸占拠事件の強行解決にも成功したが、失脚の後、日本に亡命した。フジモリは出生時の日本国籍所持が有効と認められて参議院議員選挙に立候補した後にペルーに帰国して有罪判決を受けたが、娘のケイコ・フジモリは2度にわたり大統領選挙で惜敗するなど、日本及び日系人の存在感は今でも強い。フジモリ派と近いペドロ・パブロ・クチンスキ政権はTPP参加を決めるなど、日本との関係を重視している。
アルゼンチン:1898年(明治31年)、当時のロシア帝国との戦争に備えて軍艦リバダビア、モレノをそれぞれ春日、日進として購入し、それらが日露戦争で活躍したことなどから本格的な関係が開始された。また、フォークランド諸島の領有権を巡って勃発したイギリス対アルゼンチンのマルビナス戦争(フォークランド紛争)の最中、アメリカ政府やイギリス政府などからの再三の要請にもかかわらず、アルゼンチンへの禁輸措置を実施しないなどの日本の独自外交は、アルゼンチンの知日家から高く評価される。
ブラジル:約180万人という海外で最大規模の日系人社会が築かれていることもあり(日系ブラジル人)、政治・経済面のみならず、文化的な面からも非常に深い関係を維持している。特に、Jリーグが開催し始めて以降、ブラジル人選手が最多数の外国人選手であり続けている。また、G4として共に国連安保理常任理事国参入を目指していることもあり、国際政治上で連携することも多い。
アフリカ
アフリカ諸国は、日本とは歴史的に関係が少なかった。主に日本からアフリカ諸国への開発援助と、アフリカ諸国からの地下資源や農水産物の輸入と日本からの工業製品の輸出という貿易関係が多い。
1993年から、ODAなどの経済支援を含む経済的・人的な交流を深める目的で、日本、国際連合、アフリカのためのグローバル連合、世界銀行が共催し、アフリカ開発会議 (TICAD:Tokyo International Conference on African Development) を開始した。
近年、アフリカ諸国に大使館を増設するなど関係強化に乗り出している。
サッカーなどスポーツの分野においては、アフリカ諸国の選手団を日本に招待した試合が行われており、良好な関係を築いている。
南アフリカ共和国:アパルトヘイト(人種隔離政策)で世界から孤立していた時代にも、多数の日本企業が進出して比較的密接な関係を築いていた。このため、国際社会から厳しい非難を浴びていた時期に、日本人は同国から「名誉白人」(国連から非難決議を受けた)の扱いを受けていた。
BBC国際世論調査
日本の影響力について (2012 BBC Poll[189])
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イギリスの公共放送BBCによる国際世論調査では、好ましい国の上位に挙げられている。2013年実施の調査結果では好ましい国の4位となっているが、大韓民国、中華人民共和国からの評価は低い[189]。
領土問題等
以下の領有を巡る領土問題等を抱える。
- 日本政府が「解決すべき領土問題」と認識して国際的な了承を得ているもの
- 北方地域
- →詳細は「北方領土問題」を参照
- 第二次世界大戦の終結が決定的となる日本によるポツダム宣言の受諾(1945年8月14日)後、1945年8月28日から9月5日にかけ、大戦前から日本が領有していた千島列島(ロシア名:クリル諸島)に日ソ中立条約の破棄を通告したソ連軍が侵攻し占領した。以後、ソ連を承継したロシア連邦が現在に至るまで実効支配している。
- ロシア(ソ連)は、戦争で獲得した領土と主張する。一方、日本は、北方地域(歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島)をその固有の領土として返還を求めている。ロシアは、歯舞群島・色丹島について日ソ共同宣言を根拠に日本への将来の返還を示唆している。日本は、択捉島・国後島を含む4島の一括返還を求め、これを拒否する。また、日本は、択捉島と得撫島との間での国境の確定にロシアが同意すれば、引き続きロシアによる統治を認める旨を提示したが、ロシアが拒否した。2007年にロシアが「面積二分割」案を提示した。現在、解決の目処が立っていない。樺太・千島列島を日本領と主張する有識者、団体も存在し、日本共産党は、千島列島の全域を日本の領土と主張する(ソ連による千島の占領がカイロ宣言等で示された連合国の「領土不拡大」原則に反し、違法であるとの理由から)ほか、一部では南樺太ないし樺太(全域)(サハリン)の返還も主張される。日本側は南樺太と千島全島はロシアとの間に領有権未定だと主張している。
- 相手国政府は「領土問題」はないと認識しているが、日本政府が「解決すべき領土問題」と認識しているもの
- 竹島(韓国・朝鮮名:独島)
- →詳細は「竹島 (島根県)」を参照
- 日本の島根県・隠岐島から北西約157km、大韓民国の慶尚北道・鬱陵島から約92kmに位置する、2つの岩礁からなる小島である。日韓が領有を主張(韓国を朝鮮民主主義人民共和国も支持)して対立する。
- 韓国併合以前、大日本帝国と大韓帝国と、どちらの領土だったかを巡る議論に帰する。日本の国内法上、1905年の閣議決定・島根県告示によって編入された。これについて韓国は、「秘密裏に、また強制的に行われたものであり、法的根拠は持たず無効である。」と主張するが、日本は、「国際法に則った適法な手続きがなされたものであり、また新聞などでも報道されており秘密裏に行われたとの指摘は当たらない」と主張する。韓国は、独立から間もなく李承晩ラインを一方的に設定し、その内に入った日本の漁船・漁民を拿捕して釜山収容所に抑留したのみならず、第一大邦丸事件など漁船を相次いで銃撃し、多数の死傷者を出した。その後の日韓国交正常化交渉で李承晩ラインの不当性や竹島の領有を日本が強く主張し、1965年に李承晩ラインが廃止された[190]。
- 1954年7月に韓国海軍が占拠し、現在、独島警備隊が引き継いで駐屯する。これに対して日本は、韓国による不法占拠として抗議し続け、また、1954年と1962年に国際司法裁判所への付託を提案したが、韓国は、これに同意しない。
- 韓国民にとって独立の象徴と考えられていること、周辺の海域が豊かな漁場であること、また、莫大なメタンハイドレートや海底油田の埋蔵が推測されること、などが解決を難しくしている。
- 1965年の日韓基本条約の締結の際には日韓の実力者交渉で「竹島爆破」による領土問題の解消も囁かれたものの至らず、条約締結以降は外交的配慮で日本側からの提訴は控えられ、民主党政権では政府見解から「不法占拠」の表現が曖昧になるなど引け目になっていたが、2012年に李明博大統領による韓国トップとしては初の竹島上陸が強行されたことに対する世論の批判を受けた形で3度目の提訴が予定されている。
- 日本政府は「領土問題はない」と認識しているが、外国から領有権の主張がなされているもの。
- 尖閣諸島(中国名:釣魚台列島など)
- →詳細は「尖閣諸島問題」を参照
- 1895年(明治28年)に、当時の第2次伊藤内閣(伊藤博文首相)が「尖閣諸島を日本の領土に編入すること」を閣議決定している。第二次世界大戦後は、沖縄県(琉球諸島および大東諸島)の一部としてアメリカ合衆国の施政権の下にあった。沖縄返還時に、施政権が日本に返還されて以降、現在まで日本が実効支配するが、その他に中華人民共和国(中国)政府および中華民国(台湾)政府がそれぞれ自国の領有を主張する。日本政府は「日本固有の領土にして統治されている尖閣諸島に領土問題は存在しない」という見解を示している。上の経済水域の問題や中台間の問題も絡み、複雑化の様相を呈する。アメリカ合衆国との沖縄返還交渉および1970年代初頭の東シナ海における天然ガス発見を機に、表面化した。中台に対抗し、度々、日本の右翼団体が上陸して灯台を建設(現在、日本政府が管理)するなどした。2005年、台湾の漁民が海上保安庁による取締に対して海上で抗議デモを行った。2002年からは政府が私有地を借りる形で管理し2012年には国有化されており、許可なく民間人の立ち入りが出来ない状況であるが、近年の中国人活動家による領海侵犯・不法上陸に対する政府の対応の甘さを指摘する世論の反発を受けている。
- その他
- 領土問題に準じる、いくつかの問題がある。
- 日中間の排他的経済水域
- →詳細は「東シナ海ガス田問題」を参照
- 中華人民共和国(中国)との間における、東シナ海で両国が主張する排他的経済水域の範囲の違いに起因する。日本は、両国の国境の中間線を境界線として主張し、中国は、ユーラシア大陸の大陸棚部分を自国の領域と主張する。国際的には、日本の主張が優勢であるが、中国と同様の主張をする国も存在し、現在、平行線を辿る。
- 近年、この問題が重要化したのは、この海域の地下に豊富な天然ガスの存在が明らかになったためである。中国は、天然ガスを採掘するプラント(春暁ガス田)を日本が主張する境界の近辺(中国側)に建設するなど強硬な姿勢を取る。これに対して日本は、日本側の資源も採掘される可能性があるとして抗議し、また、この海域での試掘権を設定し、日本の企業が取得した。日本が国際司法裁判所に判断を委ねようとする立場なのに対し、これに同意しない中国は、両国での共同開発を提示するが、日本は、これを中国に有利な条件と認識するなど、依然、解決の糸口が見えない。
- 沖ノ鳥島
- サンフランシスコ講和条約においては沖ノ鳥島の存在が明記されているため、締結国と日本の間に問題は存在しない。日韓基本条約はサンフランシスコ講和条約の関係規定を想起し条約を締結することに決定と規定されているが、韓国政府は2009年(平成21年)以降沖ノ鳥島を岩だと主張している[191][192]。
- 日本政府は1931年(昭和6年)7月の第2次若槻内閣(若槻禮次郎首相)での内務省告示以来、沖ノ鳥島を島として支配しそれを継続していること、また、国連海洋法条約において島の定義が存在しないことを理由として、沖ノ鳥島を「島」であるとしている[193]。それに対して中国政府および韓国政府は、沖ノ鳥島に関する日本の権利を容認しながらも[要出典]、国連海洋法条約121条3項における「岩礁」の定義に基づいて沖ノ鳥島は岩礁であると主張しており、沖ノ鳥島を起点に設定される日本の排他的経済水域(EEZ)については容認していない。
- 日本海の呼称
- →詳細は「日本海呼称問題」を参照
- 与那国島上空の防空識別圏
- →「与那国空港 § 防空識別圏問題」も参照
- 与那国島の西2/3が、沖縄のアメリカ統治期に東経123度線に沿って設置された防空識別圏(ADIZ、アディズ)を引き継いでいるため、中華民国(台湾)政府の管理下にある。現在、両国の関係が良好であるために情報の交換もスムーズだが、台湾有事において防衛上の重要な問題となる可能性が高い。2005年末から2006年にかけて台湾が防空識別圏から与那国島を除外して運用していたことも判明しているが、特に両国で取り決められたわけでもなく、曖昧なままである。
- 2010年(平成22年)6月25日、日本は菅内閣(菅直人首相)下で「防衛省訓令改正」により防空識別圏を与那国島上空にも拡大した。台湾には外交ルートを通じて説明した[194] が、台湾の外交部は「事前に我々と十分な連絡をとらなかった」として遺憾の意を表明[195]、日本の決定を受け入れないとしている。
- 南樺太・千島列島の放棄後帰属問題
- 南樺太および千島列島は、大日本帝国時代、いわゆる「内地」であったが、サンフランシスコ講和条約で日本は領土を放棄した。しかし、ソ連・ロシアとは北方領土問題のみ解決などから領有権を認めず、「未帰属」後として扱った。しかし、ロシアが実効支配しており、マスコミでも日本語名称は使用されなくなりつつある。(樺太→サハリン、豊原→ユジノサハリンスク、等)
- 当時ソ連の対日宣戦布告が違法とする立場や、ソ連(ロシア)がサンフランシスコ講和条約を批准していないことを根拠に、「主権残留説」も出ており、一部の論者はこれらの地域の領有権を主張している。また、それとは別に日本共産党が「千島列島返還」を主張している。維新政党・新風は南樺太と千島列島の全域が日本領であるとしている。
- 日本政府はこれらの問題について、「未帰属」(=未解決)としており、ロシアとの平和条約が締結された後で解決するとしている。
- 台湾の放棄後帰属問題
- 日本は台湾の領有権を放棄したが、いまだに中華人民共和国の領土とは、認めていない。一時は中華民国に割譲したが、今の日本政府は中華民国を「合法政府」とは認識しておらず、台湾の地位については、「発言する立場にない」としている。
- 台湾の主権が日本に残留している、あるいは、台湾の帰属は台湾住民の意思によって決定するべきである、という意見もある。
- 韓国の反日過激派による対馬の領有権主張問題
- 大韓民国には、対馬は韓国領であると主張する、一部の過激派が存在する。
- しかし、韓国政府もそのような主張は、決して承認しておらず、日韓の右派団体同士による衝突を除けば、国際問題にはなっていない。
渡航する日本人
- 安全
- 近年、海外への渡航の増加に伴い、犯罪に巻き込まれるケースも増えている。特にアメリカ同時多発テロ事件以降、爆破や拉致・監禁事件なども多発し、有名な例としては、イラク日本人人質事件、アフガニスタン日本人拉致事件、アルジェリア人質事件では武装勢力に殺害される事件も2013年に起きた。また、2002年にニューカレドニアのリゾート地で現地の風習・文化をよく知らずに聖地とされる場所に無断で侵入したために地元民に殺害される事件も発生した。
- 世界的に最も良い方である日本の治安、例えば殺人の発生率が低い順に第3位(2000年〔平成12年〕)であることなど、日本人が日本での治安の感覚と同じように海外で行動すると、その感覚の大きな隔たりから犯罪に巻き込まれることがある。
- マナー
- 米最大手の旅行ウェブサイトであるエクスペディアが行ったアンケート調査で、「行儀がいい」、「礼儀正しい」、「物静かで慎ましい」、「クレーム・不平が少ない」の各分野で1位を獲得するなど、2位のアメリカ人を大きく引き離して1位となった[196]。
- 一方、以下のような事例も存在する。
治安維持
対内
国内の治安維持は、主に警察が担う。警察の機構は、内閣府の一機関たる国家公安委員会・警察庁、そして各都道府県の公安委員会・警察本部による二層構造であり、後者の下部組織たる警察署、更に日本から発祥の交番の存在が地域の安全を担う。交番は地域に根ざして、小ブロックの担当地域を効率的かつ濃密に警備できる。日本の警察はSAT等をも擁する文民警察である。
警察以外では、沿岸警備隊たる海上保安庁が国土交通省の外局として、また、国境警備隊たる機能の一部を担う法務省出入国在留管理庁(入国警備官)や財務省の税関(税関職員)、あるいは、特に薬物犯罪を専門に管轄する厚生労働省の各地方厚生局麻薬取締部(麻薬取締官)などが、それぞれ設置されている。
銃砲刀剣類所持等取締法により、銃・刀剣などの武器の所持を厳しく規制している。国連薬物犯罪事務所の統計によれば、国連加盟192国の内、犯罪・刑事司法の統計を報告している国の中で、殺人、誘拐、強制性交、強盗などの暴力犯罪の発生率が著しく低い[197][198][199][200][201]。その理由については、制度的な要素、社会的な要素、日本人の遵法意識の高さなど諸説あるが、その一つとして厳しい銃規制も挙げられる。但し、イギリスの銃規制に見られるように日本と同等ないし罰則だけなら日本よりも厳しいのにもかかわらず、殺人事件に占める銃の使用される比率が日本の倍を超える国が存在するなど、銃規制のみが治安維持に貢献しているわけではない。
対外
日本の防衛組織として自衛隊が存在する。自衛隊は「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たる」ために設置され、事実上の軍隊として機能し[注 27]、陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊から構成され、内閣総理大臣と防衛大臣による文民統制(シビリアン・コントロール)の下、防衛省によって管理される。また、事実上の準軍事組織として沿岸警備隊たる海上保安庁が存在するが、海上保安庁での対処が困難な事態が発生した場合、主に海上自衛隊が担当する。
大日本帝国憲法の統帥権を根拠に旧日本軍が政治に深く関与したことへの反省から、自衛隊法第7条により、内閣総理大臣が自衛隊の最高指揮監督権を持つと規定され、文民統制に注意が払われている。また、同じく戦前への反省から自衛隊海外派遣は長らく行われてこなかったが、自衛隊ペルシャ湾派遣や自衛隊カンボジア派遣を契機に開始された。現在では、海外派遣任務は自衛隊の主要任務となっている。
第二次世界大戦後、日本の部隊は、その所属にかかわらず、一切の直接の戦闘を経験していない。連合国軍の占領下にあった1950年、朝鮮戦争で海上保安庁の機雷掃海部隊(特別掃海隊)が派遣されたことがあり、死傷者も出している。富士総合火力演習やその他の公開演習などを通じて高い練度を評価されることも多いが、他国の軍隊や民兵組織と交戦に至った経験はなく、実際の戦闘においての能力は、未知数である。
日米安全保障条約に基づき、在日米軍が駐留する[202]。
(イギリスの経済紙・エコノミストの調査部門であるエコノミスト・インテリジェンス・ユニットが平和の指標として24項目を数値化する)「世界平和度指数」の2009年度版によると、戦争・内戦・テロ、それによる死傷者が無く、軍事費のGDP比が低く、犯罪率が低いことなどから、ニュージーランド、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、オーストリア、スウェーデンに次いで7位に評価され、2010年には3位とされている[203][204]。ただ、この指標にはアメリカに防衛を依存している日本などに対し有利な計算方法との指摘が出ている。
要員・装備・予算
以下のような政策・傾向を継続している。
- 防衛費の絶対額では世界上位。しかし、国の経済力に対する防衛費の割合は、著しく低水準に抑えられている。
- 兵員・戦車・作戦機・軍艦の数などに見られる規模の小ささを、質の向上や同盟国(アメリカ合衆国)の能力によって補完する。
- 近年は財政状況の悪化により、仮想敵国や周辺諸国との協調的な軍縮でなく、単独で一方的・自主的に軍縮する。
ストックホルム国際平和研究所 (SIPRI) の統計によると、以下の通りである。
- 国内総生産 (GDP) に対する軍事費の割合ランキングは、世界の150位前後である[205](これは、アメリカ中央情報局 (CIA) の発行する CIA World Factbook の統計においても同様である[206])。
- 2008年度の防衛に関連する予算の総額は、為替レートベースで463億(アメリカ)ドルであり、1位のアメリカ合衆国、2位の中華人民共和国、3位のフランス、4位のイギリス、5位のロシア、6位のドイツに次ぎ、世界7位である[207]。
- 1999年 - 2008年の10年間の軍事費の増減率は、中国が194%増、ロシアが173%増、韓国が51.5%増、日本が1.7%減であり、周辺諸国に対して相対的に低下している[207](これについてはアメリカからも懸念が示されている[208][209])。
このように GDP に対する割合の順位(世界の150位前後)に比べてドル換算した絶対額の順位(世界7位)の方が格段に高い理由として、以下が挙げられる。
- GDP そのものが大きく、国力が高い。
- 円が強い通貨である。
- 広大な領海・EEZと長大なシーレーンを抱える。
- 周囲を軍事大国に囲まれる。
- 規模が相対的に小さい故に、質の高い要員・装備を目指しているため、装備調達や訓練にコストがかかる傾向にある。
- 人件費が高く、予算の大きな部分を占める。
- 装備の国産化を指向するにもかかわらず、武器輸出三原則で輸出を自粛していたため、購入単価が下がらない(しかし、2014年4月第二次安倍内閣によって防衛装備移転三原則へと移行したため改善する可能性もある。)。
- 要員
- 2018年における自衛官の定員(千人未満を四捨五入)は、陸自が約15万人、海自が約4万5千人、空自が約4万7千人、統合幕僚監部等が4千人、合計24万7千人、実数は、陸自が約13万8千人、海自が約4万2千人、空自が約4万3千人、統合幕僚監部等が4千人、合計22万6千人である[210][211]。特徴として、予備役に相当する予備自衛官等が約4万8千人であり、現役と比べての割合が非常に少ない(通常、予備役の数は現役の数を超える)。
- 防衛省の文官は、約2万1千人である[212]。
- 徴兵制度は第二次大戦以降、廃止されている。
- 装備
- 定評ある海外製の兵器や、それと同等ないしさらに高性能と見られる国産装備を多く保有する。高い基礎工業力を生かし、車両や艦船の多く、そして航空機の一部が独自開発である。ただし、それらの輸出は武器輸出三原則によって自粛してきた。また、他国の製品であってもライセンス生産を行うなど、可能な限り、国内で調達する傾向がある。これによって、自衛隊の調達する兵器の多くは海外の同等のものよりも高コストとなっているが、他国の意志に左右されず兵器本体および保守部品の生産ができ、兵器の製造ノウハウを蓄積することによって、保守・運用の効率を高め、ひいては稼働率を高く保つことを狙っている。
- 予算
- かつては防衛費をGNPの1%以下に抑える防衛費1%枠という閣議決定があり、現在は撤廃されているが、現在でもこの割合が基本となっている。
- 2014年のGDPに対する防衛費の割合は、SIPRI の統計による世界全体の GDP に対する軍事費の割合2.4%に対し、1.0%である[213][214][215][216]。
- 2009年度の防衛に関連する予算の総額は、4兆7741億円(本体予算4兆7028億円+沖縄に関する特別行動委員会費112億円+米軍再編関係費602億円)、前年比で55億円 (0.1%) 減で、2002年度をピークに2003年度から2009年度まで7年連続で微減傾向である[217]。2012年に民主党政権から自民党政権へ政権が交代され尖閣諸島問題など緊迫する情勢から2013年度防衛予算ではおよそ11年ぶりである300億円の増額が決定された。また自衛隊員の増員も検討されているが、今のところ目途は立っていない。
情勢・脅威
冷戦の時代、ソビエト連邦が最大の仮想敵国であり、自衛隊の部隊も北海道など北方に重点が置いて配置されていた。冷戦はソ連崩壊によって終結し、現在は軍拡を続ける中国、水際外交や国家犯罪を繰り返す北朝鮮の脅威の方が増している、これらへの対抗から部隊の西方への移転が進められている。防衛白書も、近年は中国・北朝鮮に対する脅威を主張している。しかし、根拠地の移転には広大な敷地や大規模な工事が必要なこともあり、あまり進んでいない。
- アメリカ以外との安全保障協力
- 2007年3月にオーストラリアとの間で安全保障協力に関する日豪共同宣言が、続けて2008年10月にインドとの間で日本国とインドとの間の安全保障協力に関する共同宣言が、それぞれ調印された。
- 核抑止
- 日本はアメリカ軍の広島・長崎への原爆投下によって無辜の一般市民が大量虐殺された経験や唯一の被爆国としての立場から、国民レベルでは核抑止論に対する抵抗・反発の感情が強い。しかし日本政府は「非核三原則」を標榜しつつも非核地帯宣言はせず、事実上の核抑止論の立場に立っており、アメリカの「核の傘」に頼っている。周辺諸国ではアメリカ、ロシア、中国が核兵器の大量保有国である上、北朝鮮が核兵器の開発の成功を発表している。それらに対し、独自の核保有もしくはアメリカとのニュークリア・シェアリングを検討すべきという民間レベルの議論もあるものの、政府および国会に議席を持つ全ての政党が核兵器の開発・保有に反対している。
- シーレーン防衛
- 日本は、第二次大戦中に連合軍の通商破壊戦によってシーレーンを遮断され、物資が極度に窮乏する状況に追い込まれた。さらに1980年代より日本の海洋国家論の高まりと同時に、軍事のみならず、経済・食糧・エネルギー・環境などの総合安全保障の概念が認識されるようになった。漁業の安全や世界中との貿易での立国を維持する上でシーレーンの防衛(海戦や通商破壊などの危険回避)が重要であるものの、グローバルに広がるシーレーンの全ての防衛を独力で完遂することは、現実的にも困難であり、憲法第9条の制約もある。よって、同じく海洋国家として「海洋の自由」を標榜し、グローバルに軍事展開するアメリカと協力することで、コストを抑制しての有効な海洋の安全を図っている。一方で、マラッカ海峡などの海賊やテロも、東アジア全域のみならず、グローバルな共通の危機となり、非対称戦争に対応した国際的な警察力の強化、紛争予防も重要な課題となっている。
- 中華人民共和国
- 2001年から一貫して国防費の成長という急速な軍拡を続け[218]、軍事力の近代化を進めている。その実態や将来像、意思決定の過程が不透明であることが脅威である[219] 上に、文民統制が不十分で軍部の暴発すら心配される[220]。日本とは海を挟んで接しているが、中国は外洋艦隊の建設によって海洋権益を拡張する姿勢を強めており、周辺国と係争や紛争を行っている。中でも台湾の併合(台湾回収)は国是[221] となっており、独立の動きがあれば武力侵攻することを示唆している。しかも中国の主張によれば台湾には沖縄県尖閣諸島が含まれており、中国の領有を主張している。さらには、中国の論壇にみられる沖縄県の独立もしくは併合(琉球回収)の主張に対して、一部の軍人が同調する発言すらみられる。今後は南西諸島ないしは太平洋北西部(フィリピン海)に中国人民解放軍海軍が強い影響力を及ぼすことが懸念される。このような情勢の下で日本は、中国との対話を続ける一方で、中国の軍事力に対抗する抑止力を整備し、日米安全保障態勢の維持・強化を図る。
経済・産業
制度・規模・位置
日本は、修正資本主義・市場経済を採用する工業国であり、2018年時点で、国内総生産 (GDP) がUSドル時価換算の為替レートで世界第3位(購買力平価 (PPP) で世界第3位)に位置する経済大国である。一人当たり GDP は2018年時点で、USドル時価換算で世界第26位、購買力平価 (PPP) で世界第31位である。
通貨である円 (¥, yen, JPY) は、高い信認を有する国際通貨の一つである。日本人は、その信認の高さから現金決済や貯蓄を好む傾向がある。1964年に経済協力開発機構 (OECD) に加盟し、サミット(主要国首脳会議・当時のG5・後にG7・G8)にも1975年の第1回から参加している。
経済史
明治以来、西欧型の民法典を導入し、財産権を基礎とした資本主義を経済の基本とする。第二次世界大戦時の戦時体制を経験した後、物価統制令や傾斜生産方式、外貨準備に伴う割当制など、通産省や大蔵省が主導する護送船団方式により、製造業を軸に高度経済成長を果たした。1968年、国民総生産 (GNP) ベースでアメリカ合衆国に次いで世界第2位の規模の資本主義国となった。他の資本主義諸国と比較して失業率も低く、「最も成功した社会主義国家」と言われた時代もあった。1974年のオイルショックを機に安定成長期に入り、自動車、電化製品、コンピュータなどの軽薄短小産業(ハイテク産業)が急成長する産業構造の転換が進んだ。円高が進む中、比較劣位の産業のいくつかは、競争力を喪失して衰退し、自動車産業など、比較優位で競争力の高い輸出産業は、円高の波を乗り切り、基幹産業として世界でも最高水準の競争力を持つに至った。しかし、製造業では生産拠点が海外に流出する空洞化が進行している。1990年代前半にバブル景気が崩壊したことによる不況で、「失われた10年」と呼ばれる長期不況に苦しんだ。日本の経済成長率は、高度成長期はもちろん、安定成長期にも欧米を上回っていたが、1990年代以降は欧米や他の東アジア諸国を大幅に下回っている(1991年から2018年までの日本の平均経済成長率は1.0%)。日本は継続的にアメリカ国債を購入し、2016年10月時点で1兆1319億ドル分を保有し世界第1位の保有量となっているが、近年のドル安で約40兆円の為替差損が発生している。アメリカ国債からは毎年14.5兆円が償還されるが、償還金をアメリカ国債再購入に充てている[222]。
- 所得
- 高度経済成長を遂げた日本では、「国民総中流」と呼ばれる貧困層が存在しないかのような意識が浸透していたが、近年、貧困層の存在が広く知られ、貧富の差が拡大しているという意識が広まった。経済協力開発機構 (OECD) の統計によれば、2005年度の貧困率は、OECD加盟国(30ヶ国のうち、貧困率を統計する17ヶ国[223])の内の第2位、15.3%である。この原因としては、高齢化社会による年金生活者や賃金の低い非正規雇用の増加が挙げられる。
- 雇用
- 戦後の日本企業では1980年代までは長期継続雇用が主流だったので、社会構造の変化による衰退産業・衰退企業や、経営破たん企業による、解雇や人員削減以外には、失業が社会問題化することは例外であり、経済成長率が高く、成長産業・成長企業による求人が豊富だったので、失業者も再就職による職業や生活の立て直しは困難ではなかった。1990年代以後のグローバル化の進行、GDPのゼロ成長、デフレ、非正規雇用の増大により、不安定雇用、低所得、貧富の格差の拡大、失業、再就職の困難などが社会問題化した。また、2008年以降の世界金融危機によって完全失業率は戦後最悪水準の5.0%にまで悪化していたが2015年は3.4%まで回復した[225][226]。2016年10月時の完全失業率は3.0%である。
- 債務
- 1990年代以降における財政政策により、公的債務(国・地方の合計)が1100兆円以上となっているが、そのほとんどは国内で消化しており、外国に対する債務は5%程度と低い。
- 政府
- OECD調査によれば、日本は人口に占める公務員の比率はOECD諸国平均よりも低く、経済に占める公営企業の規模も小さい[227]。なお、GDPあたりの租税負担率においては、日本は28.6%であり、OECD諸国平均以下である(2011年)[224]。
農林水産業
- 農業
- 他国と比較して生産量が多い農産物は、生糸、キャベツ、イネ(米)、サツマイモ、タロイモ(主にサトイモ)、茶、ホップなどである。
- 林業
- 1970年以降の木材の輸入自由化により競争力を喪失し、一部のブランド木材の産地を除き、既に壊滅状態に追い込まれている。
- 水産業・漁業
- 漁獲高は、2015年時点で世界第7位(466万トン)である。[229] 漁獲量制限などの措置は行っているが漁師の反発から徹底しておらず乱獲[230] の結果漁獲枠オーバー、漁業資源の枯渇が相次いでいる[231][232][233][234]。西太平洋など公海を対象とした日本主導の漁獲量制限には当事者が守っていない、日本の割当の割合が多い[注 28][235] と批判されている[236]。
- 貿易(輸入・輸出)
- 食料自給率は、60%を世界各地からの輸入に頼るため、約40%と低い。近年、食の安全への関心の高まりから国産ブランドの需要が回復し、一部の農産物は、高級食材として輸出される。また、中国での魚介類を消費する習慣の広がりにより、水産物の輸出が急増している[237][238]。
- 従事者
- 高齢化が進み、将来の人材の育成が課題とされている。[239]
鉱工業
- 鉱業
- 地下資源は、全体としての産出量が概して少ないものの、埋蔵される鉱物の種類が非常に豊富で、俗に「鉱物の博物館」[240] と呼ばれる。鉱業の中心を占めるのは、世界第5位(2001年〔平成13年〕)の320万トンを産出する硫黄、そして、世界第2位(2005年〔平成17年〕)の6500トンを産出するヨウ素である。その他、産出量では、天然ガスの101千兆ジュールや石炭の302万トンが目立つ。少量ながら、原油をも産出する(約37万キロリットル・2001年時点)。金属資源は、亜鉛の4万3000トンを筆頭に、鉛、銅を産出する。この3金属は、いずれも非鉄金属として非常に重要である。しかし、いずれも国内消費量の4%、6.8%、0.02%しか賄えない。かつて大量に産出していた金や銀も採掘されるが、現在いずれも世界的なシェアが0.5%以下(金8.6トン・銀81トン)である。国内需要を賄うだけの産出量がある地下資源は、石灰岩(セメント原料)、珪石(水晶/ガラス・レンズ・光ファイバー・建築材料の原料)など、ごく僅かである。
- 現在、あまり資源として活用されていないが、メタンハイドレートが近海に多く眠ることが分かっている。これは、採掘の手法が未だ確立していないが、将来的に石油が枯渇した際における新エネルギーとして注目を浴びている[241][242]。近年では、都市鉱山という考え方も普及し、日本に蓄積される貴金属やレアメタルの埋蔵量が世界有数であるとの研究があり、廃棄される家電や電子機器などから、これらをリサイクルする事業活動も広がりを見せる。
- 工業
- 基幹産業であり、特に素材・金属加工・造船・土木工学・機械工学・電気工学・電子工学などの製造業は、世界最高水準の技術を維持する。原油・ゴム・鉄鉱石などの原材料を輸入して自動車、電気製品、電子機器、電子部品、化学製品などの工業製品を輸出する加工貿易が特徴であるが、近年、大韓民国や中華民国からの電子部品や電子機器などの半製品の輸入も増大し、輸出品、輸入品、共に電子機器が最大である。
- トヨタ自動車や日産自動車、本田技研工業などを筆頭に世界有数の自動車産業を擁し、世界第3位の新車販売、世界第2位の保有台数を記録する[243]。
- →「日本車」も参照
- 一方、航空宇宙産業(航空宇宙工学)・医薬品化学・バイオテクノロジー・情報技術などの新しい産業の分野においては、最高水準と言えず、また、全体としての製造業は、中国や韓国、台湾などの新興国の成長に押され、1980年代をピークに収益率も下落を続ける。そのため、ナノテクノロジーや民生用のロボット工学、生物工学、金融工学、情報技術などに活路を見出そうとしている。
- 現在の日本工業の中核は上記のような重工業だが、1870年代以降に明治政府が進めた工業化政策の中心は繊維工業だった。それ自体も重要な輸出品だった生糸を利用した絹織物、次いで外国からの輸入綿花を利用した綿織物は日本の輸出を支えたが、1960年代以降は東南アジア諸国や中国での安価な大量生産に押されて構造不況に陥った。現在では国内市場の多くを輸入品に譲っているが、「アパレル産業」とも呼ばれるようになった同業界は高い付加価値がつく伝統工芸品の生産などにも活路も見いだしている。
通商・金融
2017年時点の主要な輸出相手国・地域は、1位:アメリカ合衆国(19.3%)、2位:中華人民共和国(19%)、3位:大韓民国(7.6%)、4位:台湾(5.8%)、5位:香港(5%)、6位:タイ王国(4.2%)、7位:シンガポール(3.2%)、8位:ドイツ(2.7%)、9位:オーストラリア(2.2%)、10位:ベトナム(2.1%)であり、アジアへの輸出だけで約55%を占める。輸入相手国・地域は、1位:中華人民共和国(24.4%)、2位:アメリカ合衆国(10.7%)、3位:オーストラリア(5.7%)、4位:大韓民国(4.1%)、5位:サウジアラビア(4%)、6位:台湾(3.7%)、7位:ドイツ(3.4%)、8位:タイ王国(3.3%)、9位:アラブ首長国連邦(3%)、10位:インドネシア(2.9%)であり、アジアだけで約49%を占める。貿易収支は、黒字(2018年に約3兆円)である。主要な輸出品は、金額ベースで自動車(15.1%)、半導体等電子部品(5.1%)、自動車の部品(5%)、鉄鋼(4.2%)、原動機(3.5%)、半導体製造装置(3.3%)、プラスチック(3.2%)、科学光学機器(3.1%)、電気回路等の機器(2.6%)、有機化合物(2.5%)の順である。主な輸入品は、原油及び粗油(9.5%)、LNG(5.2%)、衣類及び同付属品(4.1%)、通信機(4%)、半導体等電子部品(3.7%)、医薬品(3.5%)、石炭(3.4%)、周辺機器を含む電算機器(2.6%)、非鉄金属(2.3%)、科学光学機器(2.2%)である。
日本の産業は、発展の過程で間接金融による資金調達を広く用いたため、銀行が経済に与える影響が大きい。銀行は、融資で土地資産を担保に取ることが多かったため、土地が経済に与える影響も大きい。しかし、バブル景気の崩壊後は、直接金融や市場型間接金融への転換が進められている。金融機関では、バブル時期の焦げ付き、いわゆる不良債権問題が長引き、1990年代初頭に金融危機を引き起こした。しかし、政府主導で大合併が行われて公的資金を注入しての強引な解決が図られ、その後は、超低金利政策の下、高収益を上げるようになった。日本銀行は、2006年にゼロ金利を解除したが、未だ金利の水準が低く推移し、個人消費の伸びも見られないなど、経済回復が明確でなく、2007年現在、それ以上の金利引き上げに至っていない。
また、継続的な経常黒字により、世界最大の債権国であり、世界経済からの配当や利子の受け取りが次第に増大している。2017年末時点で、日本の対外資産残高は1012兆4310億円、対外負債残高は683兆9840億円で、差し引き対外純資産残高は27年連続世界最大の328兆4470億円である[244]。
日本としては世界最大の黒字国であるが、日本政府は歳入の47.9%が公債で賄われている状況である(平成23年度一般会計予算)[245]。しかしながら、日本国債のほとんどは国内保有であり、日本国内の資産となっている。
マスメディア
交通
古くから北太平洋および北東アジアの交通の要所として海運や航空において重要な位置を占め、世界的に有数の規模の海運会社や航空会社が存在し、各国を結ぶ。また、アジアにおいて最も早く鉄道を導入した国の一つであり、世界初の高速鉄道である新幹線を導入し、私鉄による鉄道網が全国を網羅している。また、高度経済成長以降、モータリゼーションが進み、道路網・高速自動車専用道路網が発達している。2010年代以降、高度経済成長期に作られたインフラが老朽化するなど問題も起きている[246]。
- 鉄道
- 明治維新以降、1872年10月14日の新橋駅(のちの汐留駅) - 横浜駅(現・桜木町駅)間の開通を皮切りに、国策として全国に鉄道網が急速に敷設され、日本国有鉄道(国鉄)や他の数多くの私鉄へと発展した。1942年には世界初の海底鉄道トンネルである関門鉄道トンネルが開通した。1970年代までに私鉄、国鉄ともに多くの路線が電化され、世界に例を見ない規模で分刻み・秒単位のスケジュールで運行され、その規模、技術、運営ノウハウ共に世界最高水準と言われる。
- 1964年に日本国有鉄道(現在のJR)によって導入された新幹線は、都市間を結ぶ世界初の高速鉄道として空路に並ぶ地位を築いた[247]。
戦後に東海道本線の輸送がひっ迫した事が東海道新幹線計画の契機となった[248]。新幹線は秒単位という世界に類を見ない定時性で運行され、2016年度は年間13万本が運行して、1列車あたりの平均遅延時間は24秒だった。これは、地震や豪雨、大雪などの自然災害による遅延も含めたもので、平常時は秒単位での定時運行が実現されている[249][250]。在来線と規格が異なるので全国を網羅はしていないが、北海道・北陸・九州の各地で整備が続く。
- 都市圏では、これら普通鉄道に地下鉄やモノレールなどが加わる。更に、近年の環境問題の意識から路面電車が見直され、富山県などでライトレールが導入されている。
- 2003年8月の沖縄都市モノレール線(ゆいレール)の開通によって全ての都道府県に広がり、2004年の時点での全国における総全長は、23,577 kmである。
- その一方で2016年にはJR留萌本線の留萌駅 - 増毛駅間が廃線になるなど地方の鉄道が人口減少に伴い採算が取れなくなり、消滅し始めている。[251]
- 航空
- →「日本の航空機産業」も参照
- 戦前にはごく限られた利用しかなかった日本の航空・空運業は敗戦直後に占領軍が出した航空活動禁止指令により完全に機能を停止したが、独立を回復して航空活動も復活した1950年代以降、日本航空が日本のフラッグ・キャリアとして国内外に路線を広げ、アフリカを除く全大陸へ就航し、現在もアジアのみならず世界でも有数の規模を誇る航空会社として知られていたが、2010年、会社更生法の適用を受けた。また、1980年代まで国内線のみを運航した全日本空輸 (ANA) は現在、アジア圏を中心に日本航空(JAL)と共に欧米へ国際線を運航する。
- 1990年代以降の規制緩和を受け、スカイマークや北海道国際航空(エア・ドゥ)、スカイネットアジア航空などが新規参入し、国内航空運賃の引き下げに寄与した。
- 歴代の国土開発計画が「高速交通サービス空白地帯の解消」を重要課題の一つに掲げたこともあり、地方を中心に空港インフラが充実し、国内に98もの空港を有する。東京国際空港(羽田空港)と北海道(札幌都市圏)の新千歳空港、東京と福岡空港を結ぶ2路線は年間800万人を輸送する世界屈指の大幹線に成長した。
羽田空港は2014年、スカイトラックスが実施した「Global Airport Ranking 2014」において日本の空港として初めて世界最高水準の5つ星を獲得した[253] 2018年3月、スカイトラックスは、世界の空港ランキングでは2017年の第2位から順位を落として第3位として選出したものの、世界で最も清潔な空港では第1位として選出した。[254] 鹿児島・沖縄両県の南西諸島をはじめとした離島に整備された空港は輸送量は小さいが、住民の日常生活を支えている。一方、騒音問題や用地確保などによって都市部における空港インフラは整備途上で慢性的な容量不足であり、航空網充実の足かせとなっている。また、一部の地方空港では採算面の課題も浮上している。
- 世界有数の航空網を整備した空運業に対し、戦後の航空活動禁止令で解体された航空機製造はその国内需要を全く満たしていない。1964年に正式出荷を始めたYS-11は東京オリンピックでオリンピック聖火を輸送したが1973年に製造を中止し、2006年に民間航空路線から完全に撤退した。YS-11開発の中核だった三菱重工業は2015年に新たな国産旅客機のMitsubishi SpaceJetを初飛行させ、商業生産への準備を進めている。一方、本田技研工業はアメリカの子会社工場でHondaJetの開発に成功し、2016年から日本国外での販売を開始した。
- 道路
- 高度経済成長以降、自動車産業の保護を目的に、国内における陸運の主力をトラックにする政策が採用されたことなどから、全国的に道路・高速道路の整備が進められた。しかし、近年、都市部を中心に慢性化した渋滞や通行料の高さ、駐車スペース確保の困難さ、環境問題への対策として、鉄道や航空機などの公共輸送、船舶輸送などが見直されている。また、高速道路の一部はアジアハイウェイ1号線(AH1)に指定されている。
- 2016年4月時点での舗装された道路の全長は、1,278,183.5 km である。
- 海運
- →「海運 § 日本の海運会社」、および「造船 § 日本の造船史」も参照
- 四方を海に囲まれ、日本には欠かせない運送手段であり、沿岸部に工業地域・工業地帯や人口が集中する理由でもある。日本郵船や商船三井などの世界有数の規模を持つ船会社が19世紀の後半から各国との間に貨物船や旅客船を運航してきた。現在、中東や東南アジアから石油や天然ガスなどの資源が輸入され、ヨーロッパやアメリカ合衆国へ電化製品や自動車などが輸出される。さらに、大小の船会社によって多数の貨客フェリーや高速船が運航される。また、造船分野においても、その技術力の高さから世界有数の規模を保つ。
文化
日本は東アジアに位置しており、現在の中国や朝鮮半島など近隣の地域から様々な文化的要素を取り入れてきた。一方で海洋によって大陸から隔てられた島国であることや、遣唐使の停止や鎖国なども伴い、独自の文化も発展させてきた。現在では情報通信の発達に伴い、世界規模で様々な文化の影響を受けつつ、日本独自の文化の発信も行われている[255][256][257]。
被服
日本では伝統的な被服は和服であったが、現在では洋服が広く普及している。三宅一生や川久保玲など世界的に展開するファッションデザイナーも居る。
食
日本の国土は大部分が温帯に属し、南北に長く、海洋に囲まれているため、四季がはっきりしており降水量も多い。そのため、魚介類や海藻、野菜や山菜、果物など様々な食品が自然の恵みとして得られる。また、稲作の導入、仏教や鉄砲の伝来、鎖国や文明開化、第二次世界大戦などを経て、様々な異なる食文化の影響を取捨選択した独自の食文化が成り立っている。日本の伝統的な食文化である和食はユネスコの無形文化遺産に登録された。現在の日本では貿易や情報通信などの発展に伴い、伝統的な日本の食文化だけでなく、世界中の食品や料理、風習などを伴う食文化に接することができる[258][259][260][261][262]。
食品
四季があり降水量が多いため、米を含む穀物、野菜や山菜などの種類が豊富である。また暖流と寒流が交わる海洋に囲まれているため、魚介類や海藻などの種類も豊富である。これらの食品は、多く採れかつ味の良くなる旬を大事にする形で利用されてきた。一方で、ウシやニワトリなどの肉食が禁止されたことがあることなどの影響から、食肉や乳製品はあまり普及しなかった。現在では食肉や乳製品も一般的に利用されており、また小麦や大豆など輸入が多い食品もある[258][259][261][263]。食料自給率は高くない。
料理
一汁三菜など飯を中心としたメニュー、献立が多い。また様々な食品と豊富な水を利用した「だし」によるうま味も特徴として挙げられる[258][259][261]。
栄養
伝統的な食事は、比較的に栄養バランスに優れ低カロリーという特徴がある。一方で凶作や戦争、貧困などによる栄養失調や生活習慣病もある[261][264][265]。
作法
食事の際の挨拶や、食器を手に持つことが許され、音をたてて食事をすることに寛容など、独自の作法がある[260][261]。
道具
食品の貯蔵や調理に用いた縄文土器や、食器に用いる漆器や陶磁器、調理に用いる包丁など、様々な道具が用いられてきた[259][266]。
建築
日本は山林が多く、木造建築が伝統的に用いられてきた。現在では都市を中心として高層建築物も立ち並ぶ。ゼネコンなど世界的に展開する企業もある。
社会
日本の社会的支出は高齢者に集中している[271]。少子高齢化による医療費負担の増大に伴い、財政の逼迫した健康保険組合が増え、組合管掌健保や協会けんぽの保険料率や国庫負担率の引き上げが議論される[272]。現在、毎年のように国民年金保険料や厚生年金の社会保険負担率が引き上げられて現役世代への負担が増し、公的年金の世代間格差が問題になっている。
- 戦前
- 主に家族や地域社会における相互扶助によるものとされたが、軍人をはじめ公務員に特有の恩給制度があった。1942年に戦費の調達を目的に発足した労働者年金保険が、日本の社会保障制度の始まりである。1944年に厚生年金保険法が制定されたのを契機に民間労働者の厚生年金も普及した。並行して民間企業における熟練労働者の長期雇用、年功賃金、企業年金、退職金といった、戦後の日本型福祉社会を担う企業福祉も普及した。
- 戦後
- 日本国憲法第25条が定める「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」、すなわち生存権の実現を目指した。政府は、「最低限度の生活を営む」ための児童保育、学校教育、職業訓練、雇用保険(1974年までの失業保険を継承)、障害者介護・自立支援、生活保護といった福祉サービスを提供しつつ、企業福祉を充実させる社会政策を採用した。その過程で被用者保険から外れた対象を救済するため、1958年に官庁や企業に組織化されない対象のために地域保険となる国民健康保険制度が発足し、1961年以降、ほぼ国民皆保険(ユニバーサルヘルスケア)が実現した。また、1959年に企業年金や職域年金から外れた対象のために国民年金も発足した。
- 近年から現在に至る課題
- 人口の4割をカバーする国民健康保険は、2009年には保険料未納率が12%まで達している[272]。また前年に健康問題を指摘された人のうち26%は費用を惜しんで医療を受診しておらず、この傾向は低所得層のほうがより高い[272]。
- 生活保護制度も数々の生活保護問題を抱えている。当初より不正受給などの問題があったが、不況の長期化により受給者が増加し続けており財政負担が無視できないものになっている。またデフレの進行に伴う賃金の低下や非正規雇用の増加は、相対的に生活保護の生活水準を引き上げることになった。これにより国民年金のみや低賃金労働で生活するよりも、生活保護を受けたほうが良い暮らしをできるという可能性が、自立を目指さないというモラルハザードを生むのではないかという批判を強めることになった。
保健
社会保険方式によるユニバーサルヘルスケアが達成されているが、GDP増加を上回るペースで医療費が増加している[272]。2009年のOECD対日審査では医療制度改革に一節が割かれ、老人医療費の上昇に対して若者世代の負担を抑えながら対応するかが鍵であるとOECDは報告している[272]。
- 平均余命
- 2017年度の平均寿命は、男性81.09歳、女性87.26歳である[273][274]。女性は世界で2番目男性は3番目の順位である[275]。健康寿命では、男性72.14歳、女性74.79歳[276]。
- 主な死因
- 終戦直後まで結核などの感染症が多かったが、平成30年現在では、一に悪性新生物(癌)、二に心疾患、三に老衰と、生活習慣病を中心とする慢性疾患が主である[277]。
- 保健(健康)への支出
- GDP に占める比率が7.8%、政府が負担する比率が81.3%で、一人当たりの GDP が20,000ドル以上の国々の中における標準的な水準である[278]。公費負担率はOECD平均より1割ほど上回っている[279]。
- 急速に進む出生率の低下・労働世代人口の減少・高齢化社会への対応として、公的医療保険料の増額、医療費自己負担分の増加、後期高齢者医療制度の導入など、一連の医療制度改革により、負担が増加する傾向にある。
- 医療供給体制
- 医療従事者の人数は、2013年統計では医師が人口1000人あたり2.2(OECD平均は3.2)であり、一方で看護師は人口1000人あたり10.0(OECD平均は8.8)であった[279]。
- 一方で病床数では供給過剰が指摘されており、人口あたりの病床数は世界1位でOECD平均の2倍以上、また患者の平均入院日数もOECD各国中で1位であった[279]。そのため社会的入院などの問題が指摘されている。
- 過剰診療
- 過剰診療が指摘されており、人口一人あたりの受診回数はOECD平均の2倍(OECD各国で2位)、医師一人あたりの診療回数についてはOECD各国で2位であり[272]、そのため患者から寄せられる共通した苦情は「3時間待ちの3分診療」であった[272]。
- 検疫など
- 近年、大学の医学教育や基礎医学研究の場における感染症や寄生虫症の扱いが後退し、麻疹の輸出国として非難されている。また、海外からの病原体の移入や海外旅行者が帰国した後の感染症・寄生虫症などの発症に対しての態勢にも危惧が抱かれている。
少子高齢化
OECD諸国の中で最も少子高齢化が進んでいる[267]。高齢社会白書では「我が国は世界のどの国も経験したことのない高齢社会を迎えている」と述べられている[280]。2050年には65歳以上の高齢者が人口の約4割を占め、高齢者1人を1.3人で支える超高齢社会となる[267]。
- 少子化・育児・子育て
- 一時は、明治以降の近代化の過程で、乳児の死亡率の低下や国力の上昇によって人口の激増が起こった他、戦後のベビーブーム(団塊の世代)により、若年層ほど多いピラミッド状の構成となった。しかし、高度経済成長以降、一人の女性が生涯に産む数(合計特殊出生率)も世界最少レベルの1.3近くまで低下した。その原因として、以下などの複合的な要因が指摘される[281]。
- 政府は、出生率の低下を深刻な問題とし、現在の人口を維持できる2.0〜2.1前後までの増加を理想とするが、有効な対策が成らず、その見通しも立たない。2010年4月より、子ども手当法が施行されたばかりである。
- 高齢化社会・介護
- 経済的に豊かになったことや医学・医療の向上により、平均寿命・平均健康寿命が世界で最も高い国になったが、同時に、介護が必要な高齢者人口の増加にも至った。(育児と同様、)時間の不足や仕事との両立の困難さ、核家族化による祖父母の世代との別居や高齢者のみ(夫婦2人や1人)世帯の増加、地域社会における相互扶助の希薄化などが複合的な要因となり、伝統的に行われてきた家族による高齢者の介護が困難となったことから、2000年に介護保険が創設され、家族・行政・地域社会の協力による政策に転換した。
自殺
自殺は主要な死因の一つである。自殺率はOECD諸国において韓国、ラトビア、スロベニアに次いで第4位であり、OECD平均と比べ未だ高い数値であるため明らかに要注意であるとOECDは勧告している[282][283]。世界保健機関 (WHO) の2010年統計によると、WHOに自殺統計を報告する104か国の中における自殺率の順位は高い方から第6位である(国の自殺率順リスト)。
自殺の原因については、宗教・死生観など日本人の様々な精神性が仮説として提示されるが、依然として解明されていない。政府は、先進国でも極めて高いこの自殺率を重要な問題と認識し、2006年に自殺対策基本法を制定したが、基本的な枠組みを規定するにとどまった[284]。OECDは精神保健政策の緊急の高度を要する課題を指摘している[283]。
教育・科学・技術
根拠法として教育基本法が制定されており、文部科学省が所管している。1990年時点の識字率は、99.8%(男99.9%、女99.7%)。
教育段階
日本国籍を有する6歳から15歳までの9年間(学齢)を対象とする義務教育が実施される。一般には、小学校6年間、中学校3年間。特別支援学校については、小学部6年間、中学部3年間。中等教育学校については、前期課程3年間。なお、中学校を卒業した内の約96%が高等学校に進学する。
国民の25-64歳人口について、その53%がISCED-3レベル以上の中等教育を修了している[285]。なお第3期の教育の修了者については、タイプBが20%、タイプAが26%であった[285]。
生涯学習・教育訓練
この節の加筆が望まれています。 |
テクノロジー
世界的にも多くの分野で高水準のテクノロジーを有する。国際特許の出願数は、中国、アメリカ合衆国に次ぐ世界第3位[286]、特許収入もアメリカに次ぐ世界第2位の黒字国である。
- 環境・エネルギーに関連する技術
- 世界的にも高水準の技術を有する。ディーゼルエンジンの特許の出願数は、世界第1位である。原子力発電システムを独自開発する技術を持つ国のひとつ。世界的に最も高水準の二次電池技術を有し、ハイブリッドカーや高性能な携帯情報機器の基盤となっている。バイオ燃料や燃料電池、太陽光発電など新エネルギーの研究も盛んだが、普及面で言えば諸外国に立ち遅れている。
- 情報技術
- マイクロプロセッサ設計に関しては高水準の技術を有し、マイクロコントローラ開発ではアメリカ合衆国に次ぐ開発拠点となっている。日本企業は半導体デバイスの製造装置で高いシェアを有するが、ハードディスクドライブ (HDD)、フラッシュメモリや液晶ディスプレイの生産では、近年の円高により韓国や台湾に押されている。電子機器分野などでは中国・韓国などの技術者の引き抜きもこの要因となっている。光ファイバーや結晶引上技術など素材に関する研究に厚みがあり、その基礎技術は、依然として優位である。ソフトウェア分野では、業務に関するシステムエンジニアや組み込みシステムの技術者の人数が特に多い。日本製ソフトウェアの世界的シェアは低く、オープンソースソフトウェアへの貢献も少ない。世界的に次の産業革命を引き起こすと期待されている人工知能技術に関しても、先進国の中では遅れを取っている現状がある。
- 原材料・ナノテクノロジー
- 特殊鋼、合成繊維、セラミックスなど幅広い分野で世界的にも高水準の技術を有している。特に複合材料を得意とし、自動車産業・造船・航空宇宙・防衛産業などを支える。
- 先端計測技術
- 磁力や近接場マイクロ波、中性子の利用技術、複合計測技術などは、高い水準にあるが、イオンやレーザー利用技術などは、低水準である。
- ライフサイエンス(生命科学)
- アメリカ合衆国、そしてヨーロッパ全体に次ぐ3番手の位置にある。幹細胞に関連する技術についても人工多能性幹細胞(iPS細胞)の技術で世界を先行するが、幹細胞に関連する技術の全体で言えば、特許の出願数の半分以上がアメリカ合衆国で、以下、EU、日本と続く。
- 宇宙開発
- 1970年に糸川英夫率いる東京大学宇宙航空研究所(現在の宇宙科学研究所の前身)が日本初の人工衛星「おおすみ」を打ち上げ、日本はソ米仏に続き世界で4番目に衛星を自力で打ち上げた国となった。以来世界有数の衛星打ち上げ国であり、現在ではH-IIA・H-IIBロケットやM-Vロケットなどの純国産化に成功したロケットの打ち上げがされている。2013年夏にはM-Vロケットの後継機となる新型の固体ロケットイプシロンロケットの打ち上げが予定されている。近年では2010年に小惑星探査機はやぶさが世界初となる月以外の天体からのサンプルリターンに成功し国内外から多くの注目を集めた。自国による有人宇宙飛行はまだ実現しておらず諸外国には立ち遅れている一方、毛利衛宇宙飛行士が1992年にスペースシャトルで宇宙に旅立って以来8名の宇宙飛行士が宇宙へ飛んでいる。国際宇宙ステーション計画には日本がアジアで唯一参加しており、独自の研究棟を保有している。宇宙ステーション補給機の開発・運用により宇宙ステーションへの物資運送の一翼を担っており、宇宙開発分野における国際貢献が進んでいる。
スポーツ
スポーツが盛んであり、野球は大衆の娯楽となっており、日本のみならず大リーグで活躍する日本人選手もいる。また、相撲は古来から続く日本の国技である。[287]
近年はサッカーも盛り上がりを見せており、1993年にJリーグが開始された他、2018年のワールドカップではベスト16入りを果たした。[288]
日本でのオリンピック開催回数(4回、2020年の東京オリンピックを含む)はアメリカ(8回)・フランス(5回)に次いで世界で3番目に多い。1964年の東京オリンピックは日本初のオリンピックであると同時にアジア初のオリンピック、さらには有色人種国家初のオリンピック開催となった。[289]
1964年の東京オリンピック・1972年の札幌冬季オリンピック・1998年の長野冬季オリンピックが開催されており、2020年には東京オリンピックが再び開催される予定である。
国民
人口
日本は1950年以降急速な少子化、高齢化が進行している。そして、1970年に高齢化社会(65歳以上の人口割合が7%から14%)に、1994年に高齢社会(65歳以上の人口割合が14%から21%)になり、2007年には超高齢社会(65歳以上の人口割合が21%以上)となった。2015年の国勢調査では前回と比べ約93万3千人減少しており統計開始以来初めて人口が減少した。
- 127,110,347人(国勢調査 2015年10月1日)[290]
- 約126,310,000人(総務省統計局「人口推計月報」2019年〔平成31年〕2月1日確定値[291][292])
- 126,168,156人 (CIAワールドファクトブック、2018年7月[293])
- 127,443,563(総務省による住民基本台帳に基づく人口の調査 2019年1月1日)
- 日本国籍を持つ者の割合:97.91%(2019年〔平成31年〕1月現在[294])
- 外国人住人:2,667,199人(2019年1月時点)
年齢5歳階級別人口
2017年1月1日現在推計人口
総計 [単位 万人]
年齢5歳階級別人口
2017年1月1日現在推計人口
男女別 [単位 万人]
- データ出典:平成29年1月報 (平成28年8月確定値,平成29年1月概算値)
(総務省統計局)
地域別人口分布
画像外部リンク | |
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Views of the World による人口を加味した日本統計地図 | |
Japan Gridded Population Cartogram 人口地図 地形 | |
Japan Gridded Population 人口地図 |
日本の各地方の人口は次の通りである。2015年10月1日に実施された国勢調査の速報値による[296]。
- 北海道地方:5,383,579人
- 東北地方:8,982,080人
- 北関東地方:6,866,004人
- 南関東地方:36,126,355人
- 北陸地方:5,313,423人
- 関西地方:20,728,079人
- 中国地方:7,622,402人
- 四国地方:3,847,120人
- 九州・沖縄地方:14,454,861人
福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県、沖縄県
100万人規模以上の人口を有する大都市が各地方に点在しており、国民の多くはこれらの大都市、または、その周辺部で生活している。国土全体を対象とした人口密度調査においても領域国家として世界有数の高さを示すが、沿岸の平野部に都市部が集中していて、国土の1割に人口の9割が住む。また、日本海側に比べて太平洋側に人口が集中している。中でも特に東京を中心とした南関東の人口は、日本の人口の約4分の1を超え、世界最大の都市圏を構成する。そのため、都心部では土地の値段が高騰化し、ドーナツ化現象などの問題も起きている。しかし近年では、特に首都圏では、東京都心部の土地の値段が下落し都心回帰の現象も見られる。
2015年10月1日に行われた国勢調査の速報数を集計した結果、人口総数が500万人を超過する上位9都道府県は次の通りである[297]。
- 東京都:13,513,734人(6,168.1人/km2)
- 神奈川県:9,127,323人(3,778.2人/km2)
- 大阪府: 8,838,908人(4,639.9人/km2)
- 愛知県:7,484,094人(1,446.9人/km2)
- 埼玉県:7,261,271人(1,912.0人/km2)
- 千葉県:6,224,027人(1,206.8人/km2)
- 兵庫県:5,536,989人(659.1人/km2)
- 北海道:5,383,579人(68.6人/km2)
- 福岡県:5,102,871人(1,023.4人/km2)
少子化のため、2040年には全国市区町村のうち約半数(896自治体=消滅可能性都市)の存続が難しくなり、かつ523の自治体は人口1万人以下になるとの推定がなされている(限界集落)[298]。
現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。 |
民族・国籍
ヤマト王権の側から書かれた古代史には、九州地方に熊襲、東日本に蝦夷など、文化を異にする部族がいたという記録がある。彼らは、徐々に大和朝廷に臣従しながら大和民族と同化していったとされる。アイヌ語と日本語との比較言語学的な関連が見出せないことから、アイヌと大和民族との関連について様々な議論があるが、遺伝学や考古学的証拠から大和民族との関係を重視する学説が有力になり、大和民族に同化しきらなかった蝦夷が、オホーツク文化などの影響を受けつつ、徐々に中世頃から分化したものと考えられている。
外国人・帰化人
2018年末時点で223万人の外国人がおり日本在住人口の約2.16%を占めている[300]。2018年時点で中国籍、韓国籍、ベトナム国籍、フィリピン国籍、ブラジル国籍[301]の順に多く、韓国・朝鮮籍を除けば増加傾向にある。近年[いつ?]の外国籍の増加の背景には、1990年の入管法改正でブラジルなどに移民した日本人の子孫の日本での就労が自由化されたことが大きく、更に結婚の国際化などもある。
全人口の98.1%が日本民族とされるが、日本政府は日本国籍を有する者を日本民族としてみなしているため、アメリカ合衆国やイギリス、カナダなど移民の多い国で一般的に調査される、民族・人種調査は国勢調査では行われていない。そのため、アイヌ人などの少数民族、渡来人や亡命ロシア人の子孫、外国からの帰化人や国際結婚の配偶者、さらにはその子どもなども98.1%の日本民族という項目に含まれている。これらの政策が単一民族国家的な価値観に基づいた同化主義であるという見方もある。
中国籍の半分は永住者及び定住者であり定住者は中国残留孤児の家族である。
韓国籍、朝鮮籍、および台湾籍については、戦前の旧・日本領の出身者、および両親のうちいずれか(あるいは両方)がその出身である者の子孫が多く韓国籍、朝鮮籍に関しては、戦後になってから朝鮮戦争や貧困・圧政から逃れて渡来してきた難民[302] が一部含まれている。
1895年に台湾を、1910年に朝鮮半島を併合後、第二次世界大戦敗戦まで日本の一部として、台湾人、朝鮮人にも日本国籍を与えていたため、これらの地域にルーツを持つ人々が多く、順次、経済的に豊かであった本土に移住してきた者も少なくない[303]。明治の日本は西欧人の居住や移動、営業に関しては領事裁判権を認める代わりとして居留地制による制限を設けていたが、朝鮮人や中国人については制限がなく、日本国内の各地での雑居が認められていた。1899年に西欧各国との領事裁判権の撤廃が成り、居留地制度は一律に廃止され(内地雑居)たが、中国(清・中華民国:支那)人を含む外国人労働者には居住・就労の制限が設けられた(勅令第352号[304])。これはおもに華人(支那人)を規制する目的のもので朝鮮人には実質的に適用されなかったとされる[305]。台湾人もまた併合後は帝国臣民であり居住に制限はなかったが、台湾・朝鮮とも戸籍(台湾戸籍、朝鮮戸籍)の離脱は認められず、あくまで内地での寄留であった。台湾人の移住は戦前は少なく[306]、日本在住の台湾人は総じて学歴があり、華人(支那人)や朝鮮人とは異なり、オランダや明遺臣、清朝の植民地支配の歴史的経験があり、民族的な屈託がなく日本語(や外国語)に通暁しよく働くので厚遇された。華人(支那人)は三刀(料理人・理髪師・仕立屋)が、朝鮮人は労働者が中心で、移住規模も多かった[307][308]。
朝鮮人労働者の日本内地への移動は日韓併合の1910年に2600人であった移動者が1923年には13万人あまりと増加傾向にあり、1919年4月の「朝鮮人の旅行取締に関する件」(警務総覧部第3号)により朝鮮人の日本渡航への直接規制(旅行証明書制度)に転換し、移動制限を口実に実質的な居住規制に方針が転換された[309]。朝鮮半島領域では実施されていなかった参政権も普通選挙法(1925年)施行後の内地では認められており、希望を持ち移動し定住した者も多かったが生活は決して恵まれたものではなかった[310]。大戦中には軍人・軍属、あるいは就業目的として渡海した。また徴用労働者として800名以上が渡海した。
終戦の後、彼らの多くが祖国へ引き上げたが、各人の判断や事情によって日本に留まった者もいる。また、戦後相当の数の朝鮮人が祖国の混乱(朝鮮戦争)(国連による難民認定がされている)や韓国軍による虐殺(済州島四・三事件、保導連盟事件など)を逃れて日本に渡った。その後、サンフランシスコ平和条約締結によって彼らは日本国籍を喪失し朝鮮籍となったが、そのまま特別永住者として日本に在住し続けた。現在では、日本生まれが多数派であり、帰化して日本国籍を取得する者も多く[311]、在日コリアンは減少を続けている。近年では朝鮮籍から韓国籍に登録を変更する者が多数となっている。
アイデンティティと国籍の問題は明治の開国以来、日本が否応なく直面することになった人権問題であり、戦前から華僑・印僑の人々や様々な移住者、戦後ながらくは台湾・中国系日本人コミュニティの間で葛藤を生んできた。1990年代以降、ブラジルなどの日系移民2世3世の出稼ぎ労働や、東南アジア・中国からの「研修労働者」、不法入国(滞在)労働者の人権問題などが発生している。
起源
日本人の起源は、ユーラシア大陸から弥生時代以降に複数回にわたって移住した人々弥生人と、縄文時代以前から定住していた人々縄文人が融合して形成されたものである。移住してきた経路は時代によって異なる。主な経路としては、サハリンなどの北方経路、朝鮮半島を基点とする日本海経路、南西諸島を経由する南シナ海経路である。最も古い系列は、モンゴロイドのグレイト・ジャーニーの時期に北方経路で大型獣を追ってやってきたと推測される。[要出典]
最初に主流になったのは、沖縄・南九州・東北地方に多い縄文人である。この時期、日本海経路で小規模ながら交易がおこなわれていたことが出土品から証明されている。その後、稲作文化とともに大陸からやってきた人々が、北九州から中部地方に多い弥生人の基盤となった。日本列島に移住してきた経路や、規模、時期の詳細については、定かでない部分が多く、諸説ある。縄文系と弥生系では身体的特徴に違いがある。縄文系は古モンゴロイドに属し、目が大きい、彫りが深い、骨太で筋肉質、二重まぶた、歯は短い、耳垢が湿っている、体毛が濃い、などの特徴を持つ場合が多い。弥生系は新モンゴロイドに属し、目が細い、彫りが薄い、長身ですらっとした体格、歯が長い、耳垢が乾いている、などの特徴を持つ場合が多い。
島国という地理的な特性から、小規模な移住が何度も繰り返された結果として、複数の民族が互いに混血し、文化を取り込みながら発展したと推測される。それらの中から最大勢力として発展してきたのが自称として「和人」、あるいは近代的な民族意識の下で「大和民族」あるいは「日本民族」である。
なお、アイヌ民族は、和人との交流の中で、中世から近世にかけて成立したとされるが、成立の詳細な過程については不明な点が多い(詳細はアイヌを参照)。
古墳時代、北東北地方を除く本州・四国・北九州の人々は、大和盆地を本拠地とするヤマト王権のもとに連合し、倭人(和人)としての文化を形成する。飛鳥時代の律令国家の確立に伴い、和人の文化的一体性が確立された。その後、朝廷の支配下に入るのが遅れた北東北(蝦夷)・南九州(熊襲)の人々を同化しながら文化圏の拡大を続け、平安時代までに本州・四国・九州の全域が和人の生活範囲となった。江戸時代には、薩摩藩による琉球への侵攻、松前藩のアイヌ支配の確立により、北海道・南西諸島を含む日本列島の全域が和人の勢力圏に置かれた。
「蝦夷地」と総称された現在の北海道・千島列島・樺太南部に居住したアイヌや、琉球王国を樹立した南西諸島の人々は、弥生時代以降、本土と交流を持ち続けつつも、江戸時代まで政治的には本土の政権の支配下には入らず異なる歴史を歩んだ経緯がある。現在、アイヌ語を第一母語とする人々は極めて少ないが、アイヌ文化振興法が制定されてアイヌ文化の保存・再興が図られている。なお、アイヌと共に南樺太にいたウィルタやニヴフの多くは、ソビエトの侵攻・占領の後、北海道や本州へ移住した。
また、小笠原諸島には、19世紀初頭にハワイからの移民団が史上初めて定住し、欧米系島民(ヨーロッパ系アメリカ人やハワイ人)による小規模なコロニーが形成されたが、明治維新の後に日本による領有が確定すると順次、彼らも日本国籍を取得して日本人社会に溶け込んでいった。
言語
日本には公用語を明示する法令が存在しない[312][313] が、日本語がほぼ全ての国民の母語であり、慣習に基づく事実上の公用語である。全土で均質化された日本語による義務教育が行われている。識字率は極めて高い。日本に定住する外国人も多くは日本語を理解する。国会では、アイヌ語などが使用された例もある[314] が、憲法や法律は、日本語で記したものが正文である[注 29]。世界中の多くの言語が、他の言語からの派生を繰り返して生み出されてきたが、日本語に関しては派生元の言語が明らかになっていない孤立した言語とされるか、琉球語を別言語とみなし日本語とともに日本語族を成すとされる。
近代以前の日本語は、文語と口語との乖離が大きかった。口語では京都方言(江戸時代中期以前)および江戸方言(江戸時代後期以降)が中央語と意識され広く通用したが、地域や階層による方言差が大きかった。明治維新による近代的な国民国家の創設に伴って言文一致運動が起こり、口語に近い文章語の確立が朝野の双方から推し進められた。東京方言を基盤に整えられた新しい文語や口語(標準語・共通語)は、教育・報道・行政・軍隊などを通じて国民に広く浸透し、国民的一体感の形成に寄与した。共通語の浸透に伴い各地の方言は衰退・変容を余儀なくされた。近年、地域文化・アイデンティティーとして見直す機運が高まり、教育現場においても共存が図られるようになった[315]。
日本は漢字文化圏に属し、日本語の表記には漢字とそれから派生した仮名を主に使用する。第二次世界大戦後、GHQの指導などもあって、政府は漢字の全廃を決定し、全廃まで当面使用できる漢字をまとめた「当用漢字表」を告示して漢字の使用を制限した。しかしその後、当用漢字よりも緩やかな「目安」として「常用漢字表」が制定され、漢字全廃の方針は撤回された。そうしたなかで、一部の漢字は正字体(旧字体)から新字体に簡略化された。固有名詞は別扱いであることから、人名・地名などでは旧字体や異体字の使用が続いており、異体字の扱いは現在もしばしば問題となる。仮名の正書法に関しても、終戦後、従来の歴史的仮名遣から現代仮名遣いに変更された。近年、コンピュータの普及や文字コードの拡張などに伴い、漢字の使用に関する制限は緩められる傾向にある。
日本語以外には、アイヌが用いるアイヌ語や、樺太から移住した少数住民が用いたニヴフ語・ウィルタ語がある。現在ではニヴフ語・ウィルタ語の母語話者によるコミュニティは消滅し、アイヌ語も母語話者が10人以下に限られる危機に瀕する言語であるが、アイヌ語再興の取り組みも活発である。琉球列島の伝統的な言葉は本土方言と違いが大きく、本土方言とともに日本語の二大方言の一つである琉球方言か、日本語とは系統の同じ姉妹語(「琉球語」)か、その位置づけには議論がある。琉球方言(「琉球語」)内部でも地域差が大きく、複数の言語の集合として「琉球語派」や「琉球諸語」と位置づける場合がある[316][317]。
その他の言語は、日本語に単語として取り入れられた外来語を除き、日本人同士の意思疎通にはほとんど用いられず、高等教育の教授言語としても常用されない。日本人にとって最も身近な外国語は国際語のひとつである英語であり、実務上での便益や諸外国人への配慮から、国際取引や学術研究の場で使用が奨励されることがある。義務教育の中学校の必修科目である外国語科では英語を扱うことが圧倒的に多く、それ以降の高等教育機関でも多くの日本人が英語を学ぶ。とはいえ、多くの日本人にとって、日本語から遠い系統の言語であるため習得が難しく、また日常生活や職務上での必要性が低いことなどから、帰国子女など特殊な例を除き、英語に堪能な者は少ない。
大学で学ぶ第二外国語としては、主にドイツ語・フランス語が選択されてきたが、近年は中国の経済発展に伴って中国語の選択が増えた。朝鮮語(韓国語)は日本人にとって比較的習得が容易な言語であるが、韓国朝鮮系の住民を除いて学習者は多くなかった。近年、韓国の大衆文化が盛んに輸入されていることに伴い、学習者が増加傾向にある。ロシア語の学習者は多くないが、冷戦崩壊後、極東ロシアとの貿易が活発化しているため、北海道や日本海側の都市で外国語表記に取り入れられるなどしている。安全保障上の理由から学ばれている言語は、米軍との意思疎通を図るための英語と、仮想敵のロシア語・中国語・朝鮮語が主である(予備自衛官補の語学技能枠で一般公募もされている)。
外国籍の住民および帰化外国人、日本に定住する外国人が用いる主な言語には、在日韓国・朝鮮人の一部が用いる朝鮮語(在日朝鮮語)、在日中国人・在日台湾人を中心に約60万人が用いる中国語・台湾語、日系ブラジル人を中心に約30万人が用いるポルトガル語、フィリピン人・欧米人を中心に約25万人が用いる英語などがある。
脚注
注釈
- ^ 現在も使用されている日本の国璽(国家の表徴として押す印章、1874年完成)には「大日本國璽」(大日本国璽、大日本国)と"大"が冠されている。大日本帝国憲法下の日本では大日本帝国とも呼ばれていた。
- ^ 北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々
- ^ 英字社名。日本語での社名では「にほん」を用いる。
- ^ 「有漢、皇魏、聖晋、大宋」等。例外として「大元・大明・大清」があり、この3例のみ二文字で正式国名。
- ^ 日本国の公印である「国璽」では、明治時代に作製された「大日本國璽」が使用され続けている。
- ^ 一方、ドイツ語やポーランド語などでは侮蔑的な意味を込めずに「JAP」が日本の略称として広く用いられ、両言語版のウィキペディアでも使用されている。
- ^ ロシア語のЯпонияでは「о」にアクセントがあるが、「Я」音はアクセントが無い場合に発音が「/ja/」から「/ji/」に変化する場合がある。ソビエト連邦時代に事実上の標準語として連邦全土で定着したモスクワ方言ではこの傾向が顕著で、綴りに忠実な前者「ヤポーニヤ」よりも後者「イポーニヤ」の発音になる(語尾変化による格の形を明確にするために後の「я」は「/ja/」のまま)。後者の場合、ポーランド語のラテン文字表記とロシア語のキリル文字表記との相互置換が完全に一致していても、双方の間に発音のずれが生じる。
- ^ 「Rìběn」表記は中国標準語(または北京語)の場合。なお、中国語のアルファベット表記にはさまざまな形式があり、この場合の「rì(日)」も形式によって「rih」「jih」などとも表記される(en:Bopomofo#Comparisonを参照)。つまり、この子音は「r」にも「j」にも似た音であり、特に巻き舌をしない地域(台湾南部など)では「j」や「z」に発音が近い。一方、第2音節の「b」は「p」の無気音で、いわゆる濁音の「b」とは異なるが、アルファベットにはそれに相当する文字がないため、「b」が用いられる。「ě」はシュワーだが、英語などの曖昧母音とは性格が異なる、1つの独立した母音(「エ」と「オ」の中間のような音)である。この「bě」に相当する日本語の文字がないため、ここでは便宜上、「ベ」としてある。ただしeの後にnが続いた鼻母音enは、日本語や英語のそれに近い発音になるため、「リ(ジ)ーベン」という転写も間違いではない。
- ^ ベトナムは、フランスの植民地になるまで漢字を使用していたときの名残。ベトナム語大辞典などで実際の発音を確認できる。
- ^ 1851年に発表された小説『白鯨』では海図を確認する場面で『Niphon』の表記が登場する。
- ^ 天武天皇は、飛鳥浄御原令が成立する以前の686年に没している。
- ^ これらの記述は、天武天皇が大友皇子の近江朝廷を滅亡させた壬申の乱を示すとする説がある。
- ^ 井真成墓誌は、中華人民共和国の陝西省西安市内工事現場で発見されたと、2004年10月に発表された。
- ^ 神野志隆光は、日本の称が中国の世界観の中から生まれた可能性を指摘した上で、故に日本の国号が唐に受け容れられたのではないかと考察している。
- ^ 現生人類の到達は3.5万年前。それ以前の遺跡はデニソワ人などの旧人が遺したものである。
- ^ 近年の研究では氷河期の最寒期でも津軽海峡、対馬海峡には海が残り陸続きにならなかったことが分かってきている。
- ^ この手続きについては異論もある。憲法無効論を参照。
- ^ 1970年代以降、横ばい状況にある。ブラジル57%、カナダ51%など、減少傾向にある世界各国の森林率に比べると突出した数値である。
- ^ 前掲の「中央高地」の項目によれば、「山梨・長野・岐阜3県にまたがる本州中央部の高地地域の称。(中略)地理区としては東山地方と同義で, 東海地方・北陸地方に対する。」となっている。
- ^ 天皇を君主とすれば「立憲君主制」や「象徴君主制」とする説もある。
- ^ ロシアが実効支配している6村は数に含まれていない。
- ^ 1945-72年に行われた沖縄県のアメリカ統治を除く。また、東京府から東京都、北海道庁から北海道への改称、都道府県間の境界変更などはしばしば行われている。
- ^ b:民法第263条は、「共有の性質を有する入会権については、各地方の慣習に従う」と定めるなど、ほとんど慣習法に委ねる規定が民法上に散見される他、b:商法第1条2項は「この法律に定めがない事項については商慣習に従い、商慣習がないときは、民法 (明治二十九年法律第八十九号)の定めるところによる。」とし、商慣習法を民法より優越させる。
- ^ 現在のインド共和国の領域とは少し異なる。
- ^ 同プロジェクトの中心だった三井物産は、この撤退による損失を機に総合商社業界で首位の座を三菱商事に明け渡した。
- ^ 2015年に最終合意がなされ、2018年にアメリカが離脱した核開発制限合意では、イランと最終合意文書を調印した国連安保理常任理事国の5カ国にドイツを加えた「P5プラス1」に日本は加わらず、その合意遵守を呼びかける立場を取っている。
- ^ 事実上の軍隊として機能しているが、憲法第9条との兼ね合いから正式な国軍化がされておらず、政策的な制約が多く存在する。憲法が特別裁判所の設置を禁じているため、軍法会議も有しない。しかし、ハーグ陸戦条約が定めるところの交戦資格を持つ団体の条件を有しており、国際的に軍隊として扱われる。装備や編成も軍隊に準じており、各種制約を加味しても事実上の軍隊と見做されている
- ^ 2017年の国際会議で自由に漁の出来る公海のサンマの資源管理で日本24万トン台湾19万トン中国4.6万トンの枠を提案した
- ^ 外国語を正文とする条約は、日本における国内法的効力に注目すれば、「外国語で記された日本法」ということになる。
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- ^ 高柳光寿・竹内理三編『角川日本史辞典 第二版』(角川書店、1974年12月発行)の「琉球王国」の項目によれば、「1609(慶長14)薩摩藩が大軍をもって征服し、以後薩摩は琉球の王国体制を温存し、琉球王国に貢納を課し、那覇に在番奉行を置いた。」と記されている。
- ^ 前掲の「小笠原諸島」によれば、「1827(文政10)イギリス軍艦が探検、占領。その後アメリカ人が移住。」と記載されている。
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- ^ 高柳光寿・竹内理三編『角川日本史辞典 第二版』(角川書店、1974年12月発行)の「満州事変」の項目によれば、「1931年9月18日の柳条湖事件によって開始された日本の満州(中国東北部)侵略戦争。」と記されている。
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) (説明) - ^ 那珂通世は、『緯書』の鄭玄注に、1260年に一度(干支一運の60年(「1元」)×21元=「1蔀」)の辛酉年には大革命が起こるとあり、これをもって推古天皇9年(601年)の辛酉年から1260年前で当たる紀元前660年に神武天皇が即位したとされたとする説を唱えた。なお、神武天皇に殺された長髄彦の兄安日彦が津軽に亡命したことをもって日本の建国とする古文書・古文献(『中尊寺文書』、『平泉雑記』など)が東北地方に伝わる。
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関連項目
外部リンク
政府
観光