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足利氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
足利氏
家紋
五七桐

足利二つ引あしかがふたつひき
本姓 清和源氏河内源氏
義国流
家祖 足利義康
種別 武家
華族子爵
出身地 下野国足利郡足利庄
主な根拠地 山城国
下野国足利
相模国鎌倉
京都市上京区
著名な人物 足利尊氏
足利直義
足利義満
足利義持
足利義教
足利義政
足利義輝
足利義昭
支流、分家 細川氏(武家侯爵)
喜連川氏(武家・子爵)
斯波氏(武家・男爵)
畠山氏(武家・士族)
今川氏(武家・士族)
吉良氏(武家・士族)
宮原家(武家・士族)
平島家(武家・平民)
一色氏(武家)
加古氏(武家)
小俣氏(武家)
石橋氏(武家)
渋川氏(武家)
大崎氏(武家)
上野氏(武家)
桃井氏(武家)
仁木氏(武家)など
凡例 / Category:日本の氏族

足利氏(あしかがし)は、武家華族だった日本氏族清和源氏河内源氏源義家の孫義康下野国足利に住して足利を称したのに始まる[1]鎌倉幕府においては御家人であると同時に将軍家一門たる御門葉の地位にあった。室町時代には嫡流足利将軍家として天下人となったが、応仁の乱以降戦国時代幕府の権威は落ちていき[2]1573年織田信長により滅ぼされた[1]。分流の古河公方足利家の子孫は下野国喜連川に移って喜連川氏を称し、江戸時代を通じて喜連川藩を領し、明治に至って足利に復姓して華族の子爵家に列した[3]

藤原秀郷の子孫の藤原姓足利氏(藤姓足利氏)に対して源姓足利氏という場合がある。

通字は、「」(よし、足利将軍家ほか)または「」(うじ、鎌倉時代の歴代当主および鎌倉公方古河公方家など)。

歴史

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出自

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平安時代河内源氏の3代目棟梁、源義家(八幡太郎義家)の三男・源義国(足利式部大夫)は下野国足利荘栃木県足利市)を領して本貫とし、次男・源義康以降の子孫が足利氏を称する。

新田氏とは同祖の関係とされるが、足利氏と新田氏を別の氏族としたのは軍記物である『太平記』のみで史料的な裏付けはなく(『太平記』史観)、源義国の子孫を足利氏と定義すべき(つまり新田氏は細川氏などと同様の足利氏支流)とする主張もある[4]。少なくとも、室町時代には新田氏の支流である岩松氏山名氏里見氏などは足利氏一門という扱いになっていた[5]

平安・鎌倉時代

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義国の次男・源義康(足利義康)は鳥羽上皇北面武士となり、保元の乱において平清盛源義朝とともに戦う。また、熱田神宮大宮司であった藤原季範の娘(実は季範長男・範忠の娘=源頼朝の母の姪)を妻にしている。その子足利義兼治承4年(1180年源頼朝挙兵の際、治承・寿永の乱奥州合戦などに参加し、鎌倉幕府の有力御家人となり、御門葉として源氏将軍家の一門的地位にあった。

足利義氏以降のことと思われるが、上総三河の守護職を務める。また三河足利氏(吉良氏)、足利尾張守家(斯波氏)などの別家を分出し、さらに細川氏仁木氏桃井氏一色氏小俣氏加古氏石塔氏畠山氏今川氏上野氏戸崎氏などの庶流を分出し、一族は全国に広がった。

源氏将軍家滅亡後も北条氏とは婚姻や偏諱を通じて良好な従属関係を維持してきた(後述)が、第4代当主・足利泰氏鎌倉幕府に無断で自由出家(一説では、謀反の疑いがあったとされるが真偽は不明である)・引退し、第5代当主・足利頼氏上杉重房の娘の間に生まれた第6代当主・足利家時霜月騒動に関連して自害したといわれている。一方で、家時の死は北条時宗への殉死によって北条氏からの猜疑を回避する要素があり、その結果幕府滅亡直前まで足利氏は北条氏の信頼を受けたとする見方もある。

第7代当主・足利貞氏正室である北条一族の金沢顕時の娘・釈迦堂殿との間に長男・足利高義をもうけたが、高義は早世したため上杉重房の子、頼重の娘・上杉清子との間にもうけた足利尊氏(高氏)が足利氏第8代当主を継いだ(現在の研究では貞氏 → 高義 → 貞氏(復帰) → 尊氏と継承されたと考えられているが、高義は歴代には数えられない)。清子との間には尊氏と並んで両将軍と呼ばれた足利直義ももうけている。尊氏は正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の挙兵に応じて鎌倉幕府を倒す功績を挙げた。

そもそも祖先の源義国は源氏の源義家の子ではあるが傍流に過ぎなかった。孫の義兼と源頼朝が縁戚関係にあって従弟であったこともあり、義兼は早くから幕府に出仕、その血縁もあって頼朝の声がかりで北条時政の娘を妻にして以来、前半は北条得宗家と、幕政後半は北条氏の庶流でも有力な一族と、幕府を率いる北条氏との縁戚関係が幕末まで続いた。また、官位などの面においても、足利氏当主の昇進は北条氏得宗家の次に早く、後に北条氏庶家並みになるものの、それも彼らの昇進が早くなったことによるもので、足利氏の家格の下落によるものではなく、依然として北条氏以外の御家人との比較では他に群を抜いていた。また、足利氏は平時においては鎌倉殿(将軍)への伺候を、戦時には源氏の門葉として軍勢を率いることで奉仕した家柄であった。特に北条氏にとっても重大な危機であった承久の乱で足利義氏が北条泰時・北条時房を補佐する一軍の将であったことは、北条氏にとっても嘉例として認識され、足利氏を排除する意図を抑制することになった[6]。その結果、源氏将軍断絶の後、有力御家人にして源氏の有力な一流とみなされるようになっていた。そのため、幕末の後醍醐天皇の挙兵に際して、足利氏の帰趨が大きな影響を与えた。

北条氏との関係

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鎌倉期の嫡流家の歴代当主の北条氏得宗家当主の偏諱通字の「氏」で構成されており[7]、具体的には、泰氏外祖父北条泰時[8]頼氏北条時頼[8]貞氏北条貞時[9]、貞氏の三人の息子(高義高氏高国)が北条高時[10]からそれぞれ偏諱を受けた。

また、義兼が頼朝の妻北条政子の同母妹である北条時子を妻に迎えたのをはじめとして、代々北条氏と縁戚関係を結んでいた。具体的には、義氏は北条泰時の娘[注 1]を、泰氏は北条時氏の娘[注 2]を、頼氏は佐介時盛の娘を、家時は常盤時茂の娘を、貞氏は金沢顕時の娘・釈迦堂殿を、高氏は赤橋久時の娘・登子を、それぞれ正室に迎えた[11]

このように足利氏の歴代当主は、代々北条氏一門の女性を正室に迎え、その間に生まれた子が嫡子となり、たとえその子より年長の子(兄)が何人あっても、彼らは皆庶子として扱われ家を継ぐことができないという決まりがあった[8]が、正室(北条時盛の娘)が子を生む前に早世した頼氏の跡は、その庶子であった家時(貞氏の父、母は上杉重房の娘)が家督を継いだ。家時に「氏」が付かないのはこのためであるようだ[8]が、代わりに用いられた「時」の字は北条氏の通字であり、やはり北条氏から偏諱を受けたものであるとみられる[12]

貞氏(家時の子)の長男・足利高義の名にも「氏」が用いられておらず、2文字目に清和源氏通字である「義」の字が使われている背景にはこの当時の足利氏と北条得宗家の良好な関係の象徴であり、得宗家が足利氏の将軍および得宗家への忠節と引換に「源氏嫡流」として認められたとする見方がある(→「門葉」)[7]。しかしこの高義も早世したので、家時の時と同じように、庶子であった次男の高氏(尊氏)が最終的に足利氏宗家を継いだのである。

ちなみに、泰氏の父・義氏の「義」の字に関しても同様の考えで北条義時から賜ったと考えることもできなくはないが、それについては現状の研究では言及されておらず、ひとまずは前述の清和源氏より続く、義氏までの足利氏の通字とみなすのがよいと思われる。

また実朝没後の鎌倉時代には「源氏の嫡流」は存在しなかったとする見解もある。鎌倉時代の足利氏が「源氏の嫡流」だったとする同時代の史料は確認できず、この説が記されているのは戦国時代成立の『今川記』『今川家譜』である。鎌倉時代の足利氏の位置付けは「源氏の嫡流」ではなく「御家人の中の名門」と考えるのが妥当で、実朝没後の鎌倉時代には武士たちは「源氏の嫡流」は滅亡したからもういないと考えていたとする見解である[13]

南北朝時代

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尊氏は当初後醍醐天皇の建武の新政に参加したが、中先代の乱を機に、建武の新政から離反した後、光明天皇から征夷大将軍任じられ京都室町幕府を開いた。

尊氏は庶流である諸氏を諸国の守護などの要職に任じている。庶流の中でも、吉良氏斯波氏渋川氏などは、歴代足利宗家当主の庶兄を祖とし、宗家から独立した鎌倉幕府御家人(別流の足利氏)として認められて、任官もしており、足利氏宗家は彼らに対して未だ嫡流としての地位を十分に確立できていなかった。

南北朝の動乱下にあって、急激に力を持つに至った足利氏一族は必ずしも、宗家当主(尊氏・義詮)の意向に忠実とはいえず、宗家に対する反乱や南朝につく離反などが相次いだ。尊氏は、正室所生で早逝した足利高義の庶弟で、本来、足利宗家の家督を継承する立場になかった、という上述の事情も存在した。足利一族の一人である今川貞世が『難太平記』の中で祖父(今川基氏、今川氏2代目当主)以前の歴史を十分に知らないことを告白するとともに[注 3]、幕府成立後も一族内に尊氏の系統を宗家嫡流であることを認めない者がいたこと[注 4]や今川氏が他の庶流と違って宗家に忠実であったことを主張している[14]。 このような状況において、室町幕府は常に存亡の危機に立たされたが、そのたびに乗り越え、尊氏の孫であり第3代将軍・足利義満の時代になって南北朝合一を達成することとなる。

室町幕府将軍家

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足利義満は明徳の乱応永の乱などで有力守護大名を挑発しては討伐してその勢力を削減し、中国王朝から「日本国王」として冊封を受けて天皇に迫る権威を確立するなどして、幕府の安定化と全盛期を築き上げた。義満は公家としての称号を室町殿(むろまちどの)と定め、以降の将軍家代々(足利氏嫡流)は家名として室町を称した。

しかし義満が死去すると次第に将軍権力の弱体化、守護大名の台頭が顕著になっていく。第6代将軍・足利義教は父・義満の政治路線を受け継いで将軍権力の強化を行ったが、そのあまりに強硬的なやり方は周囲の反発を招き、嘉吉の乱で殺害されるに至って、遂に将軍権力の衰退と権威の失墜が露呈する結果となった。

第8代将軍・足利義政の時代には後継問題などをめぐって応仁の乱が発生し、室町幕府は京都だけを支配する一地方政権に転落した。

第10代将軍・足利義稙管領細川政元によって将軍職を追われ(明応の政変)、以後の将軍は実権を奪われて名目的存在となり、有力大名の支持なくしては将軍の地位さえ保てなくなった。

その後、足利将軍家では将軍の若死になども相次ぎ、第13代将軍・足利義輝の時代にわずかに将軍権力が復興される兆しもあったものの、永禄8年(1565年)5月に三好三人衆らによって殺害されてしまい、将軍は有名無実化した(永禄の変)。なお、義輝殺害後の3年間、室町幕府では将軍空位の時代が続き、一時的に幕府は消滅している(政所などの官僚機構は存在していた)。

義輝の実弟・足利義昭は、永禄11年(1568年)に織田信長とともに上洛し、第15代将軍となった。この時、14代将軍であった義栄阿波に逃れた。彼の系統は平島公方家と呼ばれる。やがて将軍の義昭は信長と対立して元亀4年(1573年)に京都を追放(槇島城の戦い)され備後に移り、室町幕府は終焉を迎えた。なお公卿補任は、天正16年(1588年)に豊臣政権が確立し足利義昭が京都で出家するまでは将軍職にあったと記録している。

義昭の子、義尋の男子は全て出家し、足利将軍家の直系は絶家した。なお、義昭の子あるいは孫と伝承される人物に一色義喬永山義在がいるが、その出自を証明する明確な証拠は現在のところない。

平島公方家

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織田信長により阿波国に追われた14代将軍足利義栄の系統の平島公方家は室町幕府滅亡後も続き、長宗我部氏蜂須賀氏の支配下に置かれた。生活に困窮して、江戸時代中期以降は京都に移住して所縁の寺から扶助してもらって生活していた[15]。明治時代の当主足利義孝は華族取り立ての請願運動を熱心に行っていたが、結局成功しなかった[15]。現在の当主は足利義弘で(旧・創造学園大学元教授[16])、全国足利氏ゆかりの会[17]特別顧問。

関東公方家

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尊氏の子で関東支配のために父によって派遣された鎌倉公方足利基氏は鎌倉を中心として関東を支配した。しかし基氏の死後、その子孫は京都の室町幕府将軍家と対立・抗争を繰り返し、遂に第4代公方・足利持氏に至っては第6代将軍・足利義教と衝突する事態に至った(永享の乱)。この戦いに敗れた持氏は義教の命令で自害を余儀なくされ、鎌倉公方家は滅亡した。

しかし義教の死後、義教によって助命されていた持氏の末子・足利成氏が足利義政より再興を許されて、第5代鎌倉公方となった。しかし成氏は関東管領上杉氏と対立し、鎌倉を放棄して下総古河に移って古河公方と称した。成氏の死後、古河公方家では内紛が相次いで衰退し、第5代公方・足利義氏天正11年(1583年)に死去すると、古河公方家は断絶した。

なお、足利義政の兄・足利政知から始まる堀越公方家は、第2代公方・足利茶々丸の時代に北条早雲によって滅ぼされた。第2代古河公方である足利政氏の次男・足利義明から始まる小弓公方家も天文7年(1538年)に北条氏綱によって滅ぼされた。こうして戦国時代までに、関東足利氏は政治の表舞台からことごとく姿を消すこととなる。

しかし義明の孫・足利国朝は室町幕府滅亡後、天下人となった豊臣秀吉に関東公方の足利氏再興を許されて、足利義氏の娘と結婚した上で下野喜連川に領地を与えられた。のちに喜連川氏に改め、その子孫は江戸時代には禄高5000ながら10万石格の国主大名待遇の家として存続した(喜連川藩)。

足利子爵家

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徳川幕府滅亡後の明治元年(1868年)、当時の当主喜連川縄氏は、徳川将軍家を憚って使用を避けてきた「足利」に復姓した[18]

明治2年(1869年)5月に縄氏が隠居し、養子(宮原方斎の子)の足利聡氏が相続[19]

明治2年(1869年)6月17日の版籍奉還時に大名と公家が「皇室の藩屏」として統合されて華族制度が誕生すると、足利聡氏も旧大名として華族に列する。版籍奉還の際に定められた個人財産たる家禄は現米で193石[20][21][注 5]

明治3年(1870年)7月17日に廃藩置県に先立って管地を奉還した[18]

明治9年8月5日の金禄公債証書発行条例に基づき家禄の代わりに支給された金禄公債の額は8740円7銭3厘(華族受給者中428位)[23]

明治9年9月に聡氏が隠居し、縄氏の実子の足利於菟丸に家督を譲った。於菟丸の代の明治前期の住居は東京市本所区新小梅町にあった[21]

明治17年(1884年)7月7日の華族令施行で華族が五爵制になると、翌8日に於菟丸は子爵に叙せられた[3]。各爵位の基準を定めていた叙爵内規は、旧大名からの子爵について「旧小藩知事即ち現米五万石未満及び一新前旧諸侯たりし家」と定めているが、この定義の後半の「一新前旧諸侯たりし家」とは、表高が1万石に達していなかったが諸侯扱いになっていた旧喜連川家(現足利家)の特殊性から、同家のためにわざわざ付けられていた表現である[24]

昭和前期の当主も於菟丸で、当時の住居は京都市上京区衣笠天神森町にあった[25]

於菟丸は昭和10年に隠居し、足利惇氏が爵位と家督を相続。彼は京都大学名誉教授や東海大学長を務めた[19]

真偽不明の自称子孫

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明治21年(1888年)6月14日『大阪朝日新聞』朝刊に、峰山在住の士族で「足利尊氏の末裔」を名乗る柳金麿が、内務省宮内省に叙爵請願書を提出するため東京を訪れたことが報じられている。しかし不許可となり、華族とはなれなかった[26]

足利氏の貴種性の喪失と下剋上

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足利氏(足利将軍家)とその一門の衰退については、応仁の乱明応の政変永禄の変などの個々の事件だけではなく、足利氏が室町時代を通じて維持してきた貴種性の喪失にその原因を求める説もある。

谷口雄太の研究によれば、足利尊氏は室町幕府の成立後に軍事力のみならず儀礼の整備などを通じて、足利氏一門、特に将軍家の貴種性を高める努力を行い、その結果、足利氏一門は別格であるという認識が確立され、たとえ同じ格式の家同士でも足利氏一門はそれ以外よりも上位に位置づけられた[27][28][注 6]。特別な功績を挙げた武家にも恩賞として一門の待遇を与えられることはあったが、その獲得と維持は極めて困難であったのに対し、血統によって足利氏一門とされた武家はその待遇を剥奪されることはなかった[注 7]。そして、美濃源氏土岐氏のように「御一家の次、諸家の頭」(足利氏一門には劣るが、それ以外の武家の中では一番の名門)と名乗る武家まで現れた。

ところが、応仁の乱の際に東西に分かれた室町幕府は自己を支持する武士をつなぎとめるため、国人の越智氏や細川氏被官の安富氏を守護に補任しようとした。乱後も、将軍側近が「入名字」を行って、形式的に足利氏一門などの養子となって幕府に取り立てられている[注 8]。戦国時代に入ると、地方の大名を御相伴衆御供衆に任じるようになり、天文15年(1546年)には三管領どころか足利氏一門でもない六角定頼が管領代に任ぜられ、永禄2年(1559年)には同じく足利氏一門ではない伊達晴宗大友義鎮が、足利氏一門のみが任ぜられてきた奥州探題九州探題に任ぜられた。こうした措置は足利将軍からみて信頼できる者、あるいは能力のある者を取り立てて幕府の再建を図ろうとした措置であったが、同時に身分間の壁が崩れたことで足利氏一門の貴種性を失わせていった。足利氏の貴種性の喪失は足利将軍側の思惑とは反対に、足利将軍家や室町幕府の権威を否定する方向で日本全国に広がり、足利一門である守護大名は下剋上に巻き込まれて領国を失い、同じ足利一門でも吉良氏の支流であった今川氏が一門の秩序を無視して吉良氏や斯波氏を破り、遠江国を奪う事態も生じた。さらには、勝手に足利氏一門の末裔を名乗る者[注 9]の出現をみたとする。つまり、谷口の論考によれば、足利将軍家や室町幕府を再建するために行った「上からの改革」が、結果的にはそれまでの身分秩序によって維持されてきた足利氏の貴種性、ひいては足利将軍家や室町幕府の権威をも失わせて滅亡に至ったということになる。これに対して、後北条氏の支配下に置かれながらも書札礼などの儀礼的な秩序の維持を認められてきた古河公方(かつての鎌倉公方)が、中央よりもわずかな期間であるが延命できたのは、足利氏の貴種性が関東地方では引き続き有効性を維持できたからと考えられている。

歴代棟梁

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  1. 足利義康
  2. 足利義兼
  3. 足利義氏
  4. 足利泰氏
  5. 足利頼氏
  6. 足利家時
  7. 足利貞氏
  8. 足利高氏(尊氏)足利将軍家

系図

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太字は当主、実線は実子、点線は養子。

宗家(室町以前)

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将軍家・連枝

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鎌倉公方系統

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足利氏の支族

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谷口雄太は、室町時代の武家故実の文献から、当時、御一家(足利一門)として認識されていた支族として、吉良氏渋川氏石橋氏畠山氏桃井氏今川氏斯波氏石塔氏一色氏上野氏小俣氏加子氏新田氏山名氏里見氏仁木氏細川氏大舘氏大島氏大井田氏竹林氏牛沢氏鳥山氏堀口氏一井氏得河氏世良田氏江田氏荒川氏田中氏戸賀崎氏岩松氏吉見氏明石氏(=明石覚一)の諸氏が挙げられると指摘する。なお、吉見氏は源頼朝の弟・範頼の子孫、すなわち源為義流であるが、頼朝と足利将軍家との連続性を示すため足利尊氏の時代に一門に組み込まれたものであるという[34]

足利氏の直臣

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脚注

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注釈

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  1. ^ 今川記では北条義時の娘。
  2. ^ 時氏が寛喜2年(1230年)に28歳で亡くなるよりも前に生まれたことになり、仮に時頼と同年の生まれだとしても数え年14歳で頼氏を生んだということになる。
  3. ^ 今川氏は2代基氏の子の代から、三河国幡豆郡今川荘より遠江国引間荘へ移住している。
  4. ^ 難太平記』によれば、2代将軍である義詮の時代になっても「我等が先祖は当御所(足利将軍)には兄の流のよし」と主張して義詮に自らの家系図を示して自家の優位を主張する者がいたという。
  5. ^ 明治2年6月17日の版籍奉還時、藩財政と藩知事の個人財産の分離のため、藩の実収入(現米)の十分の一をもって藩知事個人の家禄と定められた[22]
  6. ^ 例えば、甲斐武田氏駿河今川氏は同じ外様衆であったが、書札礼の世界では足利氏一門である今川氏が上位とみなされた[29]
  7. ^ たとえば、大内氏大内義弘が足利義満によって一門の待遇を与えられたものの、応永の乱を起こして待遇を没収され、大内義興足利義稙を将軍に復帰させた時ですら待遇の復活はなかった。これに対して、同じ時期に明徳の乱を起こした足利氏一門の山名氏は、その後も一門として遇せられている[30]
  8. ^ たとえば、六角氏と同族である大原氏出身の僧侶が足利義政に気に入られ、淡路守護細川氏の養子となって武士に取り立てられた例がある[31]
  9. ^ 松平清康世良田氏を称し、孫の家康徳川氏(得川氏)と改称したのも、両氏がいずれも足利氏一門(新田氏一門ではなく)であったからと考えられる[32]
  10. ^ 斯波詮教の三男。
  11. ^ 伊予大洲藩主加藤泰衑の長男。
  12. ^ 足利一門/肥後宇土藩一門・細川定良(藩主・細川興文の四男・細川孝応の次男)の長男。
  13. ^ 足利一門/肥後熊本藩主細川斉護の六男。
  14. ^ 常陸水戸藩主徳川斉昭の十一男。

出典

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  6. ^ 前田治幸 著「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」、阿部猛 編『中世政治史の研究』日本史史料研究会、2010年。 /所収:田中 2013, p. 179 - 228
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  9. ^ 田中 2013, p. 68, 臼井信義 「尊氏の父祖 ―頼氏・家時年代考―」
  10. ^ 田中 2013, p. 69, 臼井信義 「尊氏の父祖 ―頼氏・家時年代考―」.
  11. ^ 田中 2013, p. 133, 小谷俊彦「北条氏の専制政治と足利氏」内の「足利・北条両氏関係系図」.
  12. ^ 田中 2013, p. 131, 小谷俊彦「北条氏の専制政治と足利氏」。年代を考慮すれば北条時宗から下賜されたものと思われる。
  13. ^ 鈴木由美「足利将軍家誕生は、「源氏の嫡流」の復活だったのか?」(日本史史料研究会監修・関口崇史編『征夷大将軍研究の最前線 ここまでわかった「武家の棟梁」の実像洋泉社歴史新書y、2018年、P.78-93)
  14. ^ 市沢哲「『難太平記』二つの歴史的射程-室町初期の『平家物語』を考えるために」『文学』第3巻第4号、2002年。 /所収:市沢哲『日本中世公家政治史の研究』校倉書房、2011年。 
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  30. ^ 谷口 2019, pp. 187–188, 198.
  31. ^ 設楽薫 著「足利義晴期における内談衆の人的構成に関する考察—その出身・経歴についての検討を中心に」、木下昌規 編『足利義晴』戎光祥出版〈室町幕府の研究 3〉、2017年、85-89,118-120頁。 
  32. ^ 谷口 2019, p. 202.
  33. ^ 企画展 さくら市の歴史と文化 喜連川のお殿さま”. さくら市ミュージアム 荒井寛方記念館. さくら市 (2017年11月9日). 2017年11月25日閲覧。
  34. ^ 谷口雄太「足利一門再考 : 「足利的秩序」とその崩壊」『史学雑誌』第122巻第12号、2013年。 /所収:谷口 2019, pp. 184–193

参考文献

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関連項目

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