足利義種
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足利 義種(あしかが よしかず/よしたね、天正2年9月2日(1574年9月16日) - 寛永7年4月13日(1630年5月24日))は、足利義助の子。平島公方3代。号は玄徳院。『平島記』を著わしたのは義種である[1]。
生涯
[編集]慶長13年(1608年)、七浦山を所領としてもらっている。ここで切り出した木材や加工した炭など産物は、平島公方家の重要な資金源の一つであった。
慶長19年(1614年)、平島公方家側の史料では、大坂の陣の折り、大坂方としての参陣要請があったが、断っているという[2][3]。
墓所は平島館にあったというが、現存していない。
家族
[編集]母は大内氏家臣の柳沢主膳正の娘。妻は平島公方家側の史料では足利義輝の弟・周暠の孫にあたる祝賀とし、他方、『系図纂要』では中納言の水無瀬氏成の娘という。
子に足利義次、足利義俊、宗徳(分右衛門)、飛め、寿満(中津藩士・西山図書室)。
平島記
[編集]『阿州足利平島伝来記』が本来の名前で、他に『平島記』、『平島家旧記』ともいう。『阿波國徴古雑抄』所載の書物。寛永6年(1629年)9月に、義種が嗣子義次に書き与えたものである。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『系図纂要』
- 『平島公方史料集』
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