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足利義種

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

足利 義種(あしかが よしかず/よしたね、天正2年9月2日1574年9月16日) - 寛永7年4月13日1630年5月24日))は、足利義助の子。平島公方3代。は玄徳院。『平島記』を著わしたのは義種である[1]

生涯

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慶長13年(1608年)、七浦山を所領としてもらっている。ここで切り出した木材や加工した炭など産物は、平島公方家の重要な資金源の一つであった。

慶長19年(1614年)、平島公方家側の史料では、大坂の陣の折り、大坂方としての参陣要請があったが、断っているという[2][3]

墓所は平島館にあったというが、現存していない。

家族

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母は大内氏家臣の柳沢主膳正の娘。妻は平島公方家側の史料では足利義輝の弟・周暠の孫にあたる祝賀とし、他方、『系図纂要』では中納言の水無瀬氏成の娘という。

子に足利義次足利義俊宗徳(分右衛門)飛め寿満中津藩士・西山図書室)。

平島記

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『阿州足利平島伝来記』が本来の名前で、他に『平島記』、『平島家旧記』ともいう。『阿波國徴古雑抄』所載の書物。寛永6年(1629年)9月に、義種が嗣子義次に書き与えたものである。

脚注

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  1. ^ 『平島記』の「源家平島先祖」の中の義種の項に、拙者儀也とある。
  2. ^ 『阿波公方系譜』によると、至鎮帰国後、酒肴と白銀30枚を贈ったとある
  3. ^ 平嶋記』には、至鎮は公方に米30石を贈ったとある。

参考文献

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  • 『系図纂要』
  • 『平島公方史料集』
先代
足利義助
平島公方
第3代
次代
足利義次