足利義助
時代 | 戦国時代 ‐ 安土桃山時代 |
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生誕 | 天文10年(1541年)5月 |
死没 | 天正20年7月25日(1592年9月1日) |
戒名 | 大龍院宝山[1] |
墓所 | 徳島県阿南市の西光寺 |
幕府 | 室町幕府 |
氏族 | 足利氏(平島公方) |
父母 | 父:足利義維、母:不詳 |
兄弟 | 義栄、義助、義任ほか |
妻 | 柳沢主膳正の娘 |
子 | 義種、義遠 |
足利 義助(あしかが よしすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての人物。2代目の平島公方。室町幕府の14代将軍・足利義栄の弟[2]。
生涯
[編集]天文10年(1541年)、平島公方・足利義維の次男として、阿波の平島で誕生した。
永禄9年(1566年)9月23日、兄の義栄が畿内へ渡海して、摂津の越水城に入城した[3][4]。このとき、義助は父の義維とともに阿波から渡海し、義栄に同道する形で越水城に入っている[4]。
永禄11年(1568年)10月、兄の義栄が腫物により死去した。義栄の幕府の崩壊により、義助は父の義維とともに、阿波の平島に帰還した[5]。
天正元年(1573年)10月8日、父の義維が死去し、義助は2代目の平島公方となった[6]。だが、後ろ盾であった阿波三好氏も力を失っており、阿波での逼塞が続いた。
天正4年(1576年)3月、阿波三好氏の当主である三好長治が主君の細川真之に滅ぼされた[6]。これにより、その翌年から土佐の長宗我部元親が阿波に侵攻することになった[6]。
天正5年(1577年)8月、義助は元親から阿波への出兵と所領の安堵を伝えられた[6]。長宗我部氏が義助を尊重する意思を示したのは、阿波はもとより四国では依然として、足利将軍家の家格による効力があったからである[6]。
天正10年(1582年)6月、織田信長が死去して四国への圧力がなくなると、8月から元親と阿波の十河存保(三好長治の弟)との間で中富川の戦いが勃発した[6]。そのさなか、9月2日に義助は元親から馬を送られており、元親との友好を深めている[6]。他方、元親は阿波に下国していた細川昭元とも関係を構築しており、阿波や讃岐への進出の大義名分として、その権威を利用した[7]。
天正13年(1585年)7月、義助を尊重していた元親が豊臣秀吉の四国征伐で敗れ、土佐一国を領有するのみとなった[8]。そして、戦後の論功行賞により、阿波は蜂須賀家政に与えられた。
蜂須賀氏の阿波入りに至って、義助は三千貫の所領を没収され、平島に100石を「茶料」として与えられるまでに落とされた[8][9][10]。これ以外に、後の徳島市富田町3丁目に当たる地を得て、蜂須賀氏との折衝などのための出屋敷として使用した。平島公方の権威は長宗我部氏らには尊重されたが、豊臣政権の下で国持大名となった蜂須賀氏の下では、そうした権威は自身の統治において邪魔な存在でしかなかった[8]。
天正20年(1592年)7月25日、義助は平島で死去した。享年52。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 西光寺の墓碑銘によると、大龍院殿絶山道徹大居士とある。
- ^ 阿南市立阿波公方・民俗資料館所蔵の『嶋公方・阿波公方譜』によると、「義栄の一男。実は義維の次男」とあり、義栄の養子であったともされる。
- ^ 若松 2013, p. 55.
- ^ a b 榎原 & 清水 2017, p. 383.
- ^ 榎原 & 清水 2017, p. 373.
- ^ a b c d e f g 榎原 & 清水 2017, p. 390.
- ^ 榎原 & 清水 2017, pp. 390–391.
- ^ a b c 榎原 & 清水 2017, p. 391.
- ^ 『阿淡年表秘録』
- ^ 『平島記』によると、義助は阿波退去を引き留められて断念し、100石の知行をうけ、家臣の大部分に暇を出したとある。
出典
[編集]参考文献
[編集]関連項目
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