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足利氏満

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
足利 氏満
足利氏満像
時代 南北朝時代 - 室町時代
生誕 正平14年/延文4年8月12日
1359年9月4日
死没 応永5年11月4日1398年12月12日[1]
改名 金王丸(幼名)→氏満
戒名 永安寺髟玉山道全[2]
官位 従四位下左兵衛督
幕府 室町幕府第2代鎌倉公方
(在職:1367年 - 1398年
氏族 足利氏
父母 父:足利基氏、母:畠山家国の娘
満兼満直満隆満貞満季
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足利 氏満(あしかが うじみつ)は、南北朝時代から室町時代にかけての武将。第2代鎌倉公方(在職:正平22年/貞治6年5月29日1367年6月26日) - 応永5年11月4日1398年12月12日))。父は足利基氏[3]、母は畠山家国の娘。

生涯

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正平22年/貞治6年(1367年)4月、父基氏の死去をうけて鎌倉公方となる。ただし幼少のため、5月に京都から佐々木道誉が下向、引継ぎの事務に携わっている。

公方となって間もなくの正平23年/貞治7年(1368年)1月に武蔵平一揆の乱が起こるが、10歳という幼少ながらみずから軍勢を率いて河越に出陣。京都から引き返した関東管領上杉憲顕も加わって、同年6月17日には平一揆を鎮圧した。同年(貞治は応安に改元)9月19日に憲顕が亡くなった後は憲顕の息子・能憲と甥の朝房が関東管領に就任、2人の補佐を受けた。能憲の死後は能憲の兄弟で関東管領を継いだ上杉憲春と共に、宇都宮氏綱をはじめとする関東諸勢力と戦い屈服させ、関東に強力な支配権を形成した。翌正平24年/応安2年(1369年)1月21日に元服、従兄で第3代将軍足利義満偏諱を受けて氏満と名乗った[4]

天授5年/康暦元年(1379年)、中央で室町幕府内部の抗争である康暦の政変が起こると、それに呼応して将軍・足利義満に対して挙兵しようとしたが、憲春が自刃して諌めたために断念した。佐藤進一は、斯波氏が氏満を勧誘、煽動して挙兵を促したと指摘している[5]。しかし、このことはやがて京都に伝わり、氏満は謝罪の使者を送るほかなかった。これを機に義満は氏満への圧迫を強め、氏満の教育係であった義堂周信を強引に招請し、義満と結ぶ新しい関東管領上杉憲方(憲春の兄弟)の圧迫もあってこれを認めざるを得なくなったのである。

その後、氏満は関東の親幕府派や南朝方の武家などを攻撃して自己の権力拡大に結び付ける路線を取った。すなわち、新田氏小山氏小田氏田村庄司氏などを次々と討伐していったのである。特に小山氏の乱においては北関東有数の名門武家であった小山氏を徹底的に滅ぼして、上杉氏や関東の有力武家たちに対する牽制とした。

元中9年/明徳3年(1392年)、氏満は義満から陸奥出羽の統治も任された。その背景には伊達氏白河結城氏など有力武家を奥州管領が十分に統率できなかったことや前年に発生した明徳の乱を受けて鎌倉府の離反を阻止する意図があったとみられている。だが、これによって義満と氏満、あるいは鎌倉の鎌倉府と京都の将軍家と対立が解消されることはなく、氏満の子満兼、孫の持氏と代を重ねるごとに拡大し、両家の本格的な抗争につながっていったのである。

応永5年(1398年)に病没。享年40。早世だが、父が没した正平22年/貞治6年(1367年)から31年にわたって鎌倉公方を務めており、在職期間は歴代公方の中では最長である[6]

官歴

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※日付=旧暦

寺院建立

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  • 海蔵寺・・・神奈川県鎌倉市扇ガ谷にあり、氏満の命により上杉氏定心昭空外を招いて再建した寺院。
  • 東際寺・・・神奈川県小田原市にあり、建長寺九十二世慶堂資善大和尚を開山とする寺院。

偏諱を受けた人物

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脚注

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  1. ^ 足利氏満』 - コトバンク
  2. ^ 髟と玉の字は、髟の字の下に玉の字が入って一字となる。
  3. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』三省堂、2009年、29頁。
  4. ^ 『朝日日本歴史人物事典』「足利氏満」の項(執筆:江田郁夫、参照:コトバンク)『世界大百科事典 第2版』(参照:コトバンク
  5. ^ 田辺久子『上杉憲実』(新装版)吉川弘文館〈人物叢書〉、1999年、25頁。ISBN 4-642-05215-1 
  6. ^ 鎌倉公方の後身である古河公方も含めると足利成氏の42年が最長となる。
  7. ^ 従三位昇叙のことは『喜連川判鑑』『古河御所之伝』に見えるのみで、『公卿補任』『尊卑分脈』『足利系図』などには所見がない。
  8. ^ a b c d e f g h 江田郁夫『室町幕府東国支配の研究』高志書院、2008年。
  9. ^ 小山満泰については従来、氏満の子・足利満兼の偏諱を受けたとする説明がされてきたが、江田郁夫が満兼の偏諱であれば「兼」の字を受けている筈だと指摘し、小山泰朝と満泰は系譜にある親子関係ではなく、偏諱を受けて改名した同一人物とする説を呈示している。

関連書籍

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