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喜連川縄氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
喜連川 縄氏
時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代
生誕 天保15年4月7日1844年5月23日
死没 明治7年(1874年3月2日
改名 余一麿(幼名)→松平昭縄→喜連川縄氏→足利縄氏
戒名 瑞光院殿艮山仁公大禅大門
墓所 栃木県さくら市龍光寺
官位 左馬頭
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂慶喜
下野喜連川藩
氏族 水戸徳川家喜連川家
父母 父:徳川斉昭、母:利子(立原杏所の娘)
養父:喜連川宜氏
兄弟 徳川慶篤池田慶徳徳川慶喜松平直侯池田茂政松平武聰縄氏松平忠和土屋挙直徳川昭武松平喜徳松平頼之
正室:松前崇広の娘・武子
足利於菟丸亀三郎(次男)、順子(渡辺某室)
養子:聡氏
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喜連川 縄氏(きつれがわ つなうじ / つぐうじ)は、江戸時代幕末)の大名下野喜連川藩の第11代藩主。

生涯

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天保15年(1844年)4月7日、水戸藩徳川斉昭の十一男(庶子)として生まれる。幼名余一麿、初名は父より偏諱を受け昭縄(あきつな/あきつぐ)。文久2年(1862年)6月28日、喜連川藩主の喜連川宜氏が早世したため、末期養子として家督を継いだ。喜連川家通字により縄氏に改め、通称として左馬頭を称する。同年閏8月4日、第14代将軍徳川家茂御目見する。

明治元年(1868年)5月28日、新政府に対し、病気の藩主縄氏に代わり、重臣を上洛させることを願う(第15代将軍となっていた実兄の徳川慶喜との直接的な対立を避ける意図もあったと思われる)。同年7月9日、新政府軍に対し、兵糧の献上を許可される。同年7月15日、新政府軍に対し会津藩に内通していると讒言を行った藩士二階堂安芸・主殿輔父子らの処分を命じる。同年8月8日、肥前藩兵とともに白河に藩兵を派遣する。同年、足利に復姓する。

明治2年(1869年)5月5日、病気を理由に養子の聡氏(実子の足利於菟丸はまだ生まれていなかった)に家督を譲って隠居し、明治7年(1874年)3月2日に死去した。

系譜

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父母

正室

子女

養子