喜連川頼氏
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正8年(1580年) |
死没 | 寛永7年6月13日(1630年7月22日) |
改名 | 龍王丸(幼名)→喜連川頼氏 |
別名 | 足利頼氏 |
戒名 | 大樹院殿涼山蔭公大禅定門 |
墓所 | 栃木県さくら市喜連川の龍光寺 |
官位 | 左馬頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家康→秀忠→家光 |
藩 | 下野喜連川藩主 |
氏族 | 足利氏(喜連川家) |
父母 | 父:足利頼純、母:佐野晴綱娘 |
兄弟 | 女子、月桂院(豊臣秀吉側室)、国朝、頼氏、瓊山法清尼 |
妻 | 正室:足利義氏の娘・氏姫 |
子 | 義親、島田守政正室 |
喜連川 頼氏(きつれがわ よりうじ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士・大名。下野国喜連川藩初代藩主。
略歴
[編集]天正8年(1580年)、小弓公方・足利義明の次男である足利頼純(頼淳)の次男として誕生した。
文禄2年(1593年)、兄・国朝が文禄の役で九州に赴く途上の安芸国で病死したため、兄の正室であった足利氏姫が頼氏と再婚することで足利氏後裔喜連川家の名跡を継いだ。慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が死去すると、10月20日から頼氏は関東十刹についての公帖を発給しはじめる[1]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、頼氏は会津の上杉景勝を押さえる結城秀康に従って本拠地の喜連川城に在陣し、その戦功を評価され慶長7年に徳川家康から1000石を加増された[2]。
元和2年(1616年)正月の年頭御礼の際、頼氏の順番は国持大名と諸大夫の間に位置づけられており、太刀目録の進上については徳川国松・松平忠直・徳川御三家と同じ方法が用いられている[3]。喜連川藩の知行地はわずか5000石弱に過ぎなかったが、江戸幕府を開いた徳川家康から足利氏末流の名族として重んじられ、10万石並の国主格大名の待遇を受けた[要出典]。これに対し、泉正人氏は、頼氏が江戸幕府から那須衆の一員として位置づけられていたとしている[2]。
寛永7年(1630年)、死去した。嫡男義親の子の尊信が跡を継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
子女
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 斉藤司「喜連川家の公帖発給について」『信濃』第39巻第3号、1987年。
- 阿部能久「喜連川家の誕生」『戦国期関東公方の研究』、思文閣出版、2006年。
- 泉正人「近世初期の喜連川家と徳川氏―関ヶ原の戦いを中心に―」『早実研究紀要』第44号、2010年。
外部リンク
[編集]- 喜連川家書札礼(喜連川頼氏文書案) - 古典籍総合データベース(早稲田大学図書館)