永山義在
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正3年3月5日(1575年4月15日) |
死没 | 寛永12年1月25日(1635年3月14日)[1] |
改名 | 千寿(幼名)→義在 |
別名 | 通称:右近、休(久)兵衛 |
藩 | 薩摩藩 |
氏族 | 永山氏 |
父母 | 父:足利義昭? |
兄弟 | 足利義尋、一色義喬?、義在?、矢島秀行?[2]、矢島重成?[3] |
妻 | 永山氏娘 |
子 | 義房 |
永山 義在(ながやま よしあり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての人物。室町幕府15代将軍・足利義昭の子として薩摩藩の史料に登場する。通称は右近、休(久)兵衛。『姓氏家系大辞典』やそれを引用した本の影響のため、一般的には永山休兵衛で知られる[4]。
略歴
[編集]足利義昭の和泉国蟄居の際に誕生したとされる[5]。既に流浪の身となっていた父親の許を離れ、島津氏の食客として薩摩国に身を置き、薩摩藩士・永山某の娘婿となり、永山休(久)兵衛と称したという。なお「鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集三」においても、大隅国に下り、永山信濃守の食客となり、その姓を借用して永山氏を称したとあり、こちらでも永山氏の娘を室にした旨が記載されている。のちに鹿児島城下に移ったとされる。
しかし同系図では兄・足利義尋は登場するが、一色藤長に養育されたというもう一人の兄弟・一色義喬は登場しない[6]。義在自体は『系図纂要』にも登場するものの、その出自に疑義がもたれている人物でもある。また、永山家自体も義在が創設したのではなく、永山家は藤原姓薩摩蒲生氏分家であり、義在来鹿以前から存在していた。
平嶋公方側の史料、足利譜系図にも登場する。秀吉の征韓の折、その従軍を断って剃髪し高野山に隠れるが、多病のため下山し、後に薩州に渡る云々とある。
子孫
[編集]子は永山彦右衛門義房、孫は永山休兵衛義比。その後も血統はともかく家統は存続しており、「嘉永4年辛亥斉彬公流儀御覧之一冊」(鹿児島県立図書館所蔵)に永山休兵衛の名がある。また、『鹿児島城下絵図散歩』では現在の鹿児島市山之口町に「永山休兵衛」の名が見える。
なお、一色義喬の子孫・坂本氏が会津藩の江戸留守居や用人になり、戊辰戦争でも物頭を勤めたのとは対照的に、永山氏はそれほど出世していない。また、明治10年(1877年)、西南戦争で政府軍と戦った永山弥一郎(元薩摩藩小姓父休悦、弟休ニ)は末裔といわれるが、義在から弥一郎までの系図は不明確。
脚注
[編集]- ^ ただし、下記参考文献所収「永山氏系図」では具体的な生没年の記載はない。
- ^ 『旧柳川藩志』第十八章・人物・第十六節 柳川偉人小伝(六)P.954によると、実は足利義昭の子、近江矢島氏を継ぐ。妻は菊亭晴季の女。子に矢島重成、八千子(立花宗茂継室)。
- ^ 中野等『立花宗茂』P.270によると、矢島重成について実は義昭の子であるとする説もある。
- ^ 『姓氏家系大辞典』では、永山休兵衛としか呼称されていない。
- ^ 「永山氏系図」参照。「系図纂要」にもある。
- ^ ただし、「永山氏系図」では義尋は僧の身でありながら子供をもうけて寺を追放されているとあるので、言わば足利将軍家の汚点であるのであえて記載していない可能性もある。この場合、一色義喬は義尋の私生児ということになる。
出典
[編集]- 『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集三』鹿児島県歴史資料センター黎明館編
- 『鹿児島城下絵図散歩』塩満郁夫、友野春久編、高城書房
- 大田亮『姓氏家系大辞典』角川書店