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推古天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
推古天皇
『推古天皇像』(部分)
土佐光芳 画・叡福寺

在位期間
593年1月15日 - 628年4月15日
崇峻天皇5年12月8日 - 推古天皇36年3月7日
時代 飛鳥時代
先代 崇峻天皇
次代 舒明天皇

誕生 554年5月21日欽明天皇15年乙巳朔癸丑)
崩御 628年4月15日(推古天皇36年3月7日
小墾田宮
陵所 大野岡上磯長山田陵(科長大陵)
漢風諡号 推古天皇
和風諡号 豊御食炊屋姫天皇
額田部
別称 豊御食炊屋姫尊
豊御食炊屋比売命
炊屋姫尊
小治田大宮治天下大王天皇(法隆寺金堂薬師如来像光背銘)
父親 欽明天皇
母親 蘇我堅塩媛
子女 菟道貝蛸皇女
竹田皇子
小墾田皇女
鸕鶿守皇女
尾張皇子
田眼皇女
桜井弓張皇女
皇居 豊浦宮
小墾田宮

最初の天皇号使用者(異説あり)
史上初の女性天皇
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推古天皇
第30代天皇后
在位期間
576年4月23日 - 585年9月15日
敏達天皇5年3月10日 - 敏達天皇14年8月15日
皇后 576年4月23日(敏達天皇5年3月10日)(大后)

配偶者 敏達天皇
結婚 571年(欽明天皇32年)
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推古天皇(すいこてんのう、554年5月21日欽明天皇15年乙巳朔癸丑: 4月9日〉- 628年4月15日〈推古天皇36年3月7日[注 1][注 2])は、日本の第33代天皇(在位:593年1月15日崇峻天皇5年12月8日〉 - 628年4月15日〈推古天皇36年3月7日〉)。

日本史上最初の女帝とされる[注 3]。欽明天皇と蘇我堅塩媛の娘として生まれ、額田部王(ぬかたべ)。和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと、『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命という)である。炊屋姫尊とも称される。漢風諡号の「推古天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって名付けられたとされる[注 4]

成長した後、異母兄である渟中倉太珠敷皇子(後の敏達天皇)の妻となった。敏達天皇の崩御後、同母兄の用明天皇が即位したが、その治世は2年ほどの短命に終わった。用明天皇の治世中より帝位を望んでいた穴穂部皇子を擁立する動きが出ると、額田部皇女は穴穂部皇子の誅殺を命じ彼に組した物部守屋も滅ぼした。その後、蘇我馬子と共に泊瀬部皇子(崇峻天皇)を擁立したが、即位後の崇峻天皇と蘇我馬子は激しく対立し、馬子によって殺害された(592年)。翌年、群臣の推戴を受け、額田部皇女が天皇として即位した(推古天皇)。

彼女の治世は日本で本格的に仏教が興隆していく時代であり、初の遣隋使(一般に西暦600年とされる)が派遣されて、中華王朝との外交関係の構築が行われた時代でもある。また、彼女は厩戸皇子聖徳太子[注 5])を皇太子とした。聖徳太子はその後の日本で模範たるべき伝説的な人物として語り継がれることになる。厩戸皇子は推古天皇の存命中に薨去(622年)し、その後に蘇我馬子も薨去した(626年)。推古天皇の崩御に際し、その後継者として田村皇子と山背大兄王が候補に挙がり、群臣の意見は割れた。推古天皇は田村皇子を支持したとされ、最終的に蘇我蝦夷(蘇我馬子の息子)も推す田村皇子が即位した(舒明天皇、629年)[2]

来歴

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出自と背景

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天皇系図 26~37代

後に推古天皇となる額田部(ぬかたべ)皇女(王)は欽明天皇大臣蘇我稲目の娘、堅塩媛との間に生まれた。彼女の系譜を伝えるのは『日本書紀』と『古事記』であり、『日本書紀』541年(欽明天皇2年)3月の立妃記事によれば堅塩媛は七男六女を産み、額田部王はその中で四番目の子であった[3]。兄弟の数と額田部王の出生順は『古事記』の系譜でも同様である[4]。第30代敏達天皇は異母兄で夫でもある。第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟、蘇我馬子は母方の叔父であった。

諱は額田部(ぬかたべ)である。6世紀後半から7世紀にかけて、天皇(大王)の子は男女の別なく「王(みこ)」と称されており、「皇子(みこ)」号が成立するのは天武朝(7世紀後半)においてである[5][6]。『古事記』では古い記法が保存されており「額田部王」と記載されている[6]持統朝(7世紀末から8世紀初頭)には、「皇子(みこ)」「皇女(ひめみこ)」の書き分けが成立し、『日本書紀』では推古朝を含む過去の時代までこの書き分けを遡って適用しているため「額田部皇女」と書かれている[6]。和風諡号は豊御食炊屋姫尊である[注 6]。とも称される。現代の学者が推古天皇に言及する際には、利便性を重視して漢風諡号の「推古」を用いる場合や、「額田部[2]」「額田部王[2]」「額田部王女[7]」「豊御食炊屋姫[7]」「炊屋姫[8]」など、名前の取り扱いに関する方針や文脈によって様々に書かれる。

571年(欽明32年)、額田部は18歳で異母兄である敏達天皇のキサキとなった(この時点では敏達天皇の即位前である)[9][注 7]。『日本書紀』の記録では、575年(敏達4年)に息長真手王の娘広姫を皇后に立てたが、同年中に広姫が崩御し翌年に額田部が皇后となったとされる。ただし、日本において「皇后」という地位が確立されるのは7世紀末のことであり、実際には額田部が生きた時代に「皇后」や「夫人」といった天皇のキサキたちの序列が明確に存在していたわけではない[10][11]

『日本書紀』によれば、額田部は敏達天皇との間に菟道貝蛸皇女聖徳太子妃)・竹田皇子小墾田皇女押坂彦人大兄皇子妃)・鸕鶿守皇女尾張皇子(聖徳太子妃の橘大郎女の父)・田眼皇女(田村皇子(後の舒明天皇)妃)・桜井弓張皇女(押坂彦人大兄皇子の妃・来目皇子の妃)の2男5女を儲けた[10][注 8]

585年5月(『日本書紀』による。『古事記』では584年4月)に敏達天皇が崩御した。その直後から額田部や蘇我馬子物部守屋などの間で激しい権力闘争が争われた[12]。蘇我馬子と物部守屋は敏達天皇の殯宮で執り行われた儀礼において互いの拙さを嘲笑い、対立姿勢を露わにした。この両者の対立は敏達朝期から仏教の受容への賛否と言う形で生じており、これは崇仏論争とも呼ばれる。両者の対立が崇仏を主題とし、仏教の支持者としての蘇我氏と仏敵としての物部氏の存在を強調する筋立てとなっているのは、この記録が「飛鳥寺系縁起」から来ているためで、実際には政治闘争が繰り広げられたものであるともいわれる[13][12]

即位

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敏達天皇の崩御から20日後、額田部の同母兄の橘豊日(用明天皇)が即位した。『日本書紀』「用明紀」は治世が短期間だったこともあり、その内容は「仏教関係記事がわずかに挟まる以外はほとんどが守屋討滅事件で占められ、全体が物部氏滅亡の物語といっても良い」(義江[14])ものとなっている。

586年(用明元年)夏5月、敏達天皇の殯宮に異母弟の穴穂部皇子が皇后を「おか(姧)」そうとし、殯宮に入ろうとするという事件が発生した[注 9]。この時、敏達天皇の寵臣であった三輪逆は門を固めて穴穂部を入れず、穴穂部が7度に渡って門を開けるよう要求しても応じなかった。穴穂部は三輪逆が自分の入場を阻止したことは無礼であると怒り、蘇我馬子、物部守屋両名もこれに同意した[16]。その後、穴穂部は物部守屋と共に兵を率いて三輪逆を討伐すべく「磐余の池辺」を囲んだが、三輪逆はこれを察知して「後宮きさきの宮」(額田部の「別業(なりどころ)」の「海石榴市宮(つばきちのみや)」)に隠れた。しかし、同族によって密告され、三輪逆は最終的に穴穂部の命を受けた物部守屋によって殺害された[17][16]

用明天皇の治世は短く、587年5月21日[注 10]に病没した。死の床にあって用明天皇は仏法帰依の是非を群臣に問うたという。『日本書紀』では仏法を受け入れなかった敏達天皇に対して、初めて仏法への帰依を明言した天皇として用明天皇が位置づけられている[18]。用明天皇崩御の翌月、穴穂部と物部守屋が挙兵を企てたが、587年(用明2年)6月7日に額田部は即座に穴穂部および宅部宣化天皇の皇子。穴穂部と親しかったとされる)の誅殺を命じるを出し、即座に両皇子は殺害された[19]。翌月、蘇我馬子は諸皇子と群臣を集めて物部守屋討伐を主張し、軍勢を集めて河内の物部守屋の本拠地を攻めた。物部守屋は射殺され、その配下は四散した[20]

物部守屋討滅の翌月、額田部と群臣が泊瀬部皇子(崇峻天皇)に即位を勧め、即位の礼が執り行われた[21][20]。蘇我馬子を始め群臣の地位はそのまま維持された。しかし、5年後の592年(崇峻5年)、天皇が献上されたイノシシを指して「いつの日かこの頸を斬るように、自分がにくいと思うところの人を斬りたいものだ[22]」と述べたことを聞いた蘇我馬子は、崇峻天皇が自分を嫌っていると警戒し、11月3日[注 11]に崇峻天皇を暗殺した[21][23]

この結果空位となると、群臣は額田部に即位を勧めた。『日本書紀』「推古紀」の記載では、額田部は当初これを辞退し、3度請われて遂に豊浦宮において即位したとされる[24]。この時彼女は39歳であり、日本(倭国)史上初の女性の大王(女帝)となった[25][注 12]

推古朝と蘇我氏・聖徳太子

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推古天皇の絵画

『日本書紀』によれば即位元年である593年5月15日(旧暦:4月10日)に、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として国政を委ねたという[24]。実際には6世紀末当時、「皇太子」という地位・称号はまだ存在していなかったため[26]、『日本書紀』の厩戸皇子の立太子記事をどのように理解するかについては様々な議論がある[注 13]。『日本書紀』によれば即位した推古天皇は太子とした厩戸皇子に国政を委ねたとされる[24]。こうした古代の記録やその後の聖徳太子信仰の影響もあり、伝統的に推古朝の政策は「聖徳太子」が主導したと考えられてきたが、現在では伝説的な聖徳太子像の解体と合わせて、こうした見解には再検討が進められており、推古天皇自身の主体性や蘇我馬子の存在などが再評価されている[30][31][32]。実際にはこの時期には推古天皇、蘇我馬子、厩戸皇子の3名が政権の中枢を構成したと考えられる[33]

推古朝では日本史上重要な様々な政策が行われた。その一つが仏教の振興である。589年(推古2年)、推古天皇は「三宝興隆」の詔を発した[24]。三宝とは仏・法・僧を意味し、これは崇仏論争以来の仏教を巡る争いを終結させ、国家の方針として仏教を受容することを宣言するものと位置づけられる[33]。三宝興隆は推古朝初期の基本方針であったと見られ、各氏族に大王のための造寺が要求された[34][33]。仏教寺院の建立は単なる先進文化の受容というのみならず、王権に対する忠誠の証明でもあった[33]。造寺活動を先導していたのは蘇我氏であり、蘇我馬子は既に崇588年(崇峻元年)には法興寺(飛鳥寺)の造営を開始していた。法興寺は596年(推古4年)に伽藍が完成し、推古14年(606年)または推古17年(609年)に釈迦如来像が安置された[33]

遣隋使

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589年にが中国を統一し南北朝時代が終了すると、百済新羅が相次いで隋に遣使した。こうした国際情勢を受け、600年に倭国(日本)からも隋への遣使が行われた(遣隋使[35])。これは倭国と中華王朝の通交としてはほぼ120年ぶりのものである。この遣隋使は倭国の風俗について説明した際に「此れ太だ義理なし」として煬帝から諭され、また服制の不備などもあり失敗に終わった。この時の遣使は『隋書』のみに記録されており『日本書紀』には残されていない。一般的に、失敗に終わったことが『日本書紀』に記載されていない理由であると考えられている[36][37][38][注 14]。この失敗は倭国側に大きなカルチャーショックを与えたと見られ、恐らく遣隋使の帰国直後から様々な改革が行われた。603年には冠位十二階の制定[注 15]、604年に宮門出入りの際の礼制と憲法十七条の制定、605年には服制の整理が行われている[37][41][注 16]。これによって外交儀礼を執り行うことが可能となり、また相手国の外交担当者が自国の官品制と互換可能な官位制度が整えられた[43]。一連の改革を経た607年(推古15年)、制定された冠位十二階で五位にあたる大礼の地位を帯びた小野妹子に派遣した。大礼は後の令制における正六位に相当する[43]。608年4月には帰国した小野妹子らと共に隋から派遣された答礼の使者裴世清が倭国を訪れ、一連の外交儀礼が実践されて小墾田宮で隋の国書が奉呈された[44]。同年9月に再び小野妹子が遣隋使として派遣され、倭漢直福因ら学生4名と新漢人日文ら4名の学僧が随伴した[45]。これら随伴した留学生らはいずれも渡来系氏族出身で、仏法を修めることが彼らを派遣した主たる理由であった[45]。遣隋使は以後も断続的に派遣されたが、618年には隋が滅亡したため614年の犬上御田鍬らの派遣が最後となった。隋に代わったへの遣使(遣唐使)の派遣は推古天皇の崩御後しばらくの時間を経てから実施されることになる。

国史の編纂と崩御

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『日本書紀』によれば620年(推古28年)、聖徳太子と蘇我馬子は共に『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂して献上したとされる[24]。これらの歴史書は『日本書紀』以外に記載はなく、『日本書紀』内でもこの後に言及されるのは「皇極紀」で乙巳の変(645年)の際に焼失し『国記』の一部が火中から取り上げられたというものである[46]。このため、その内容について判明していることは何もなく、推古朝における国史編纂の実態がどのようなものであったのか詳細はわかっていない[46]。620年(推古28年)が欽明天皇の50年忌にあたることなどから、この国史編纂事業は世襲王権として欽明王系・蘇我氏の地位を確立し、欽明天皇を称揚する意図の中で行われたものであったとも考えられ、あるいは620年に編纂されたという年代設定自体が『日本書紀』編纂時のものである可能性もある[46][47]

その後、厩戸皇子が薨去した。『日本書紀』の記録では推古29年2月5日のことであるとされているが、法隆寺系の史料では皇子の死が推古30年2月22日[注 17]であることを示しており、現代ではこちらが一般に採用されている[48][49][50]

624年(推古32年)、蘇我馬子は葛城県(かづらきのあがた)は自らの本居(うぶすな)であるとして賜ることを願い出た。推古天皇は馬子に配慮しつつこれを退けたが、その際に自らについて「朕は蘇何より出たり」と述べており、推古天皇が蘇我氏に対して強い帰属意識、同族意識を持っていたことを示すものとして注目される[51][52]

そして626年6月19日(推古34年5月20日)、蘇我馬子も薨去した[53]。馬子は桃原墓(ももはらのはか)に葬られたと『日本書紀』は伝えるが、これは奈良県明日香村石舞台古墳であるとするのが通説である[54][55]。同じく『日本書紀』によれば、その造営のために蘇我一族がことごとく集まって宿営していたという[56][57]

628年4月15日(推古36年3月7日)、75歳で小墾田宮において崩御した。崩御前日に、女帝は敏達天皇の嫡孫の田村皇子(のちの舒明天皇)を枕元に呼び、謹しんで物事を明察するように諭し、さらに聖徳太子の子の山背大兄王にも、他人の意見を納れるように誡めただけで、後継者の指名は避けたようである。

陵・霊廟

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(みささぎ)は、宮内庁により大阪府南河内郡太子町大字山田にある磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)に治定されている。子の竹田皇子との合葬陵墓で、宮内庁上の形式は方丘。遺跡名は「山田高塚古墳」で、方墳または長方墳である。

日本書紀』では推古天皇36年(628年)3月の崩御ののち、同年9月に遺詔により「竹田皇子之陵」に葬ったとするが、所在地・陵名に関する記載は無い[58]。一方で『古事記』では、「御陵在大野岡上、後遷科長大陵也」として「大野岡上」から「科長大陵」への改葬の旨が見えるが、こちらには竹田皇子との合葬に関する記載は無い[58]。『延喜式諸陵寮では、推古天皇陵は遠陵の「磯長山田陵」として記載され、河内国石川郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町で陵戸1烟・守戸4烟を毎年あてるとする[58]。『扶桑略記』では康平3年(1060年)に「推古天皇山陵」で盗掘があったという[58]。その後、元禄の探陵の際には堺奉行が現陵の存在を報告している[58]。なお、現陵近くの二子塚古墳を真陵に比定する説もあるほか、改葬前の陵(大野岡上)については植山古墳奈良県橿原市)に比定する説がある。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

在位年と西暦との対照表

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系図

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27 安閑天皇
 
28 宣化天皇
 
29 欽明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石姫皇女
(欽明天皇后)
 
上殖葉皇子
 
30 敏達天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
31 用明天皇
 
33 推古天皇
 
32 崇峻天皇
 
穴穂部間人皇女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大河内稚子媛
(宣化天皇后)
 
十市王
 
押坂彦人大兄皇子
 
春日皇子
 
大派皇子
 
難波皇子
 
聖徳太子
(厩戸皇子)
 
来目皇子
 
当麻皇子
 
殖栗皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
火焔皇子
 
多治比古王
 
 
 
 
 
 
茅渟王
 
 
 
 
 
栗隈王
 
山背大兄王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
多治比嶋
多治比氏
 
 
 
 
 
 
35 皇極天皇
37 斉明天皇
 
36 孝徳天皇
 
美努王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
有間皇子
 
橘諸兄
(葛城王)
橘氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蘇我堅塩媛
 
29欽明天皇
 
石姫皇女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
33推古天皇
 
30敏達天皇
 
広姫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大俣女王
 
押坂彦人
大兄皇子
 
糠手姫皇女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉備姫王
 
茅渟王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
35皇極天皇
37斉明天皇
 
 
 
34舒明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蘇我遠智娘
 
38天智天皇
 
蘇我姪娘
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
40天武天皇
 
 
41持統天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
49代以降
 
 
草壁皇子
 
 
 
 
43元明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
44元正天皇
 
藤原宮子
 
42文武天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光明皇后
 
45聖武天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
46孝謙天皇
48称徳天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


推古天皇を描いた作品

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小説

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  • 『紅蓮の女王 小説推古女帝』光文社 1978年 (黒岩重吾)、(『黒岩重吾長編小説全集』月報 1976年11月-)のち中公文庫

脚注

[編集]

注釈

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  1. ^ 『古事記』では戊子年3月15日
  2. ^ 在位期間は特に推古時代と呼ばれる。
  3. ^ 神功皇后を含まない。また、飯豊青皇女執政したとして宮内庁では天皇と称される。
  4. ^ 『古事記』推古天皇段には「妹(いも)、豊御食炊屋比売(とよみけかしぎやひめ)命、小治田(をはりだ)宮に坐しまして、天の下治らしめすこと、三十七歳(みそじまりななとせ)なりき。分注、戊子の年の三月十五日癸丑の日に崩りましき。)御陵は大野の岡の上にありしを、後に科長(しなが)の大木陵に遷しき」(『古事記』)とある。小治田宮奈良県高市郡
  5. ^ 現代では、学校教科書を始め聖徳太子ではなく厩戸皇子という表記が一般的に用いられる傾向にある。これは聖徳太子が非常に伝説化された存在であることに注意を向けるためであるが、馬厩戸皇子あるいは厩戸王という名前も、同時代において使用されていたことが実証されている名前ではなく、伝説的な存在としての聖徳太子に対して、そのモデルになった史実上の人物を指すことを特に意図して使用される名前である[1]
  6. ^ とよみけかしきやひめのみこと、豊御食炊屋姫尊という表記は『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命。炊屋姫尊とも。
  7. ^ 『日本書紀』敏達紀では、571年(欽明天皇32年)に異母兄の渟中倉太珠敷皇子(敏達天皇)の妃となり、575年(敏達天皇4年)11月の皇后広姫崩御を承け、576年4月23日(敏達天皇5年3月10日)、皇后に立てられた。「敏達14年8月乙酉朔己亥(『古事記』分注では「甲辰年四月六日崩」)」(8月15日
  8. ^ 『古事記』の記録では敏達天皇と額田部の間の子は次の8名である。静貝王(別名、貝蛸王)、竹田王(別名、小貝王)、小治田王(おはりだ)、葛城王、宇毛理王、小張王(おはり)、多米王、桜井玄王(さくらいのゆみはり)[10]
  9. ^ 古代において天皇崩御後の誄の奏上は複数回にわたって行われていた[15]
  10. ^ 用明2年4月乙巳朔癸丑(4月9日)
  11. ^ 癸卯朔乙巳(旧暦11月3日)(592年12月12日)
  12. ^ ただし、神功皇后飯豊青皇女を歴代から除外した場合。
  13. ^ 荒木敏夫のまとめによれば、古代日本の皇太子をどのように理解するかについての先駆的な研究は本居宣長によるものである。宣長は『古事記伝』において日本の太子(ヒツギノミコ)は中国のそれとは異なり、複数存在していた例があることを指摘し、様々な要素を勘案しつつ天皇の「大御心」に適う者が太子となったと指摘した。20世紀前半には家永三郎の研究がその後の皇太子研究の基礎となったが、その中で家永は本居宣長の理解をヒツギノミコ理解も継承しつつ、日本における立太子の初例として聖徳太子(厩戸皇子)の立太子を位置づけ、また聖徳太子の摂政就任が、後世の摂関政治大日本帝国憲法皇室典範の規定するような法的根拠を持ったものではなく、太子が「万機を摂行する」というのが当時の「習俗」であり、摂政とは皇太子の地位が持つ属性の一つであったと論じた。第二次世界大戦後、井上光貞は中国の影響と皇室への権力集中の中で皇太子制度の前段階として古来の慣習法としての継承制度である大兄制を見出し、聖徳太子の立太子を次の天皇たる皇嗣であると同時に統治権の代行者でもあるという皇太子の観念の成立を示すものと見た[27]直木孝次郎は「皇太子」と言う語が日本で成立したのは天武朝期の飛鳥浄御原令(689年)であり、それに先行する制度としての「太子」制(厩戸皇子の立太子がその確実な初例とされる)を想定した[28]。荒木敏夫は、古代の日本において「王位」を巡る争いが頻発している一方で、太子(ヒツギノミコ)位を巡る争いが皆無であるなどの理由から、皇太子という地位自体が飛鳥浄御原令によって成立したのであり、それ以前の太子とは制度的に存在するものではなく、出自や実力を考慮しつつ究極的には人格によって体現されたものであるとして、厩戸皇子(を含む、律令制以前)の立太子の史実性に疑問を投げかけた[29]
  14. ^ この600年の遣隋使は『隋書』記録が残されていることから、このため600年の遣隋使を九州の出先機関からの非公式の使者と見るなど、その史実性を巡って議論があったが、今日では概ね実際に遣使があったと考えられている[36][39]
  15. ^ 冠は宮廷における地位の高低を明示する役割を持っていた[40]
  16. ^ 森公章は率直に「大恥をかいたことが、この遣使の『日本書紀』への不記載の理由であろう」とし[38]吉田孝もまた「倭の使者は、どんなに恥ずかしい思いをしたことだろう。隋の広大な都、倭とは隔絶した文明を眼前にして、倭の使者の受けたカルチャーショックの大きさは、私たちの想像を絶するものがあったろう」と述べ、「推古朝の国制改革は、600年の遣隋使のカルチャーショックを、おそらくは起点としたのである」としている。[42]
  17. ^ 622年4月8日

出典

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  1. ^ 石井 2016, pp. 3-7
  2. ^ a b c 義江 2020
  3. ^ 義江 2020, p. 2
  4. ^ 義江 2020, p. 4
  5. ^ 乕尾 1997, p. 1367
  6. ^ a b c 義江 2020, p. 6
  7. ^ a b 倉本 2015
  8. ^ 坂本 1979
  9. ^ 義江 2020, p. 21
  10. ^ a b c 義江 2020, pp. 23-24
  11. ^ 吉村 2020, p. 119
  12. ^ a b 義江 2020, pp. 31-32, 41
  13. ^ 倉本 2015, p. 45
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  15. ^ 義江 2020, p. 51
  16. ^ a b 義江 2020, p. 50
  17. ^ 『日本書紀』「用明紀」
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  19. ^ 義江 2020, p. 61
  20. ^ a b 義江 2020, p. 62
  21. ^ a b 『日本書紀』「崇峻紀」
  22. ^ 『日本書紀』「崇峻紀」、和訳は宇治谷孟訳に依った。
  23. ^ 義江 2020, p. 68
  24. ^ a b c d e 『日本書紀』「推古紀」
  25. ^ 義江 2020, p. 70
  26. ^ 倉本 2015, p. 58
  27. ^ 荒木 1985, pp. 1-19
  28. ^ 荒木 1985, p. 146
  29. ^ 荒木 1985, pp. 129-172
  30. ^ 鈴木 2018, p. 62
  31. ^ 石井 2016, pp. 32-33, 97-108
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  33. ^ a b c d e 鈴木 2018, p. 63
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  35. ^ 義江 2020, pp. 96-99
  36. ^ a b 義江 2020, p. 99
  37. ^ a b 吉田 1997, pp. 87-89
  38. ^ a b 森 2006, p. 215
  39. ^ 吉田 1997, p. 87
  40. ^ 吉田 1997, p. 88
  41. ^ 義江 2020, pp. 100-103
  42. ^ 吉田 1997, p. 89
  43. ^ a b 義江 2020, p. 104
  44. ^ 義江 2020, pp. 107-112
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  46. ^ a b c 関根 2020
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  48. ^ 石井 2016, p. 201
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  50. ^ 倉本 2015, p. 72
  51. ^ 倉本 2015, pp. 58, 74-75
  52. ^ 義江 2020, p. 141
  53. ^ 倉本 2015, p. 75
  54. ^ 倉本 2015, p. 77
  55. ^ 義江 2020, p. 143
  56. ^ 『日本書紀』「舒明紀」
  57. ^ 倉本 2015, p. 78
  58. ^ a b c d e 磯長山田陵(国史).

参考文献

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  • 荒木敏夫『日本古代の皇太子』吉川弘文館、1985年1月。ISBN 978-4-642-02158-6 
  • 石井公成『聖徳太子 実像と伝説の間』春秋社、2016年1月。ISBN 978-4-393-13587-7 
  • 倉本一宏『蘇我氏 -古代豪族の興亡』中央公論新社、2015年12月。ISBN 978-4-12-102353-7 
  • 国史大辞典吉川弘文館 
    • 黛弘道 「推古天皇」石田茂輔 「磯長山田陵」(推古天皇項目内)
  • 坂本太郎『聖徳太子』吉川弘文館〈人物叢書〉、1979年12月。ISBN 978-4-642-05001-2 (1985年新装版)
  • 鈴木正信 著「第3講 蘇我氏とヤマト王権」、佐藤信 編『古代史講義』ちくま書房〈ちくま新書〉、2018年1月。ISBN 978-4-480-07117-0 
  • 関根淳『六国史以前 日本書紀への道のり』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー 502〉、2020年7月。ISBN 978-4-642-08385-0 
  • 乕尾達哉古代参議制の研究」、京都大学、1997年3月、NAID 1100023692042019年9月8日閲覧 
  • 森公章『東アジアの動乱と倭国』吉川弘文館〈戦争の日本史1〉、2006年12月。ISBN 978-4-642-06311-1 
  • 義江明子『推古天皇』ミネルヴァ書房、2020年12月。ISBN 978-4-623-09017-4 
  • 吉田孝『日本の誕生』岩波書店岩波新書〉、1997年6月。ISBN 978-4-00-430510-1 
  • 吉村武彦『新版 古代史の基礎知識』角川書店〈角川選書〉、2020年11月。ISBN 978-4-04-703672-7 

外部リンク

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