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ノート:推古天皇

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豊御食炊屋比売の読みについて

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日本書紀と古事記での記述名の読みについて疑問が生じます。当時の文には読み仮名がついていないでしょうに、なぜ「豊御食炊屋比売」(古事記)と「豊御食炊屋姫」(日本書紀)とで読み方を変えているのでしょうか。「とよみけかしきぎやひめ」でネット検索してみました。こちらのサイト以外はすべてWikipediaからのコピーでした。左記のサイトでも同じ読みの違いを行っていたので、記述された方の情報源だったのかもしれません。しかし他の根拠が出てこない以上、読みの違いは修正すべきではないかと思うのですがどうでしょう。ちなみに、ネット検索では「とよみけかしきやひめ」が一般的なようです。「豊」(とよ)「御」(み)「食」(け)「炊」(かしき)「屋」(や)「姫」(ひめ)と素直な読み方です。Qazzx 2007年6月9日 (土) 10:55 (UTC)[返信]

岩波文庫の『古事記』(倉野憲司校注 2004年2月5日 第70刷発行)209ページの推古天皇の条の読み下し文の読み仮名がそうなっているから誰も修正しなかったのだろうと思います。当時の発音や読み方は誰も分からないわけですが、どこかのサイトよりも信用できるものであろうと考えますが。。。--Asuka 2007年6月9日 (土) 16:25 (UTC)[返信]

  • 素直な読み方でいいのかも、です。「炊」(かしき)を(かしきぎ)とは、いいませんものね、私の蔵書の昭和18年発行の天皇の陵墓の解説本[1]には、「豊御食炊屋姫尊(『とよみけかしやひめのみこと』)と謚し奉る。」とあります。で、(かしぎ)か(かしき)だと思料します。岩波文庫に{きぎ}と書いてある記述は校正後濁点をつけて、濁点なしの分を単に除去しなかったのではと考えられます、この類の天皇のお名前についての記述は戦前の書籍は、非常に厳格でして、誤謬は許されず正確性も高いと承知しております。papamaruchan22 2007年6月10日 (日) 04:20 (UTC)[返信]
  • ^ 比企修著「皇陵新志」発行1943年、日本出版配給・166頁・推古天皇
  • 本文の読みは、「き」が多いですね。訂正しておきます。私はどちらでもいいのですが、岩波文庫本の『古事記』の読みは「かしぎ」になっています。先にも書きましたが、当時の発音や読みは誰も聞いたことがないわけですし、研究者が研究の結果の読みをつけているので、本によって読みが違ってもいいと思います。ほかに『日本書紀』の読みはどうなっているのでしょうね。並べて書いておけばいいのではないでしょうか。--Asuka 2007年6月10日 (日) 08:20 (UTC)[返信]

    国立国会図書館の近代デジタルライブラリー( http://kindai.ndl.go.jp/ )で閲覧できる、本居宣長訓『古訓古事記』は、「トヨミケカシキヤヒメノミコト」と振ってありますね(1874年刊と1875年刊の2件が収録されていて、前者は220頁に、後者は下巻の56頁に目的の記述部分があります。前者はかすれぎみなので、後者の方が見やすいです)。
    3通りの読み方が、いずれも信用度の高いと思われる出典とあわせて情報提供されたわけですから、どれかを選ばなくても3つとも出典明記の上で列記すれば良いと思います。
    Asukaさんに質問なのですが、岩波文庫の『古事記』には、「かしきぎ」と「かしぎ」の双方があるということでしょうか?--oxhop 2007年6月10日 (日) 12:42 (UTC)[返信]
    先日も書いたとおり、「岩波文庫本の『古事記』の読みは「かしぎ」になっています(2007年6月10日 (日) 08:20 (UTC))」。
    岩波文庫本『古事記』の凡例に「読み下し文は、日本古典文学大系『古事記』のそれに基づいたが」とあり、「原文は古典文学大系『古事記』に拠って誤植を直した程度である」とありますから、ちゃんと校正がされていると考えられますので Papamaruchan22氏 がいう「岩波文庫に{きぎ}と書いてある記述は校正後濁点をつけて、濁点なしの分を単に除去しなかったのではと考えられます」とは思いません。さらに、「岩波文庫に{きぎ}と書いてある記述は」といっていますが、岩波文庫に「きぎ」と書いてあるとは私はいっておりません。また、2007年6月10日 (日) 08:20 (UTC)の私の発言「私はどちらでもいいのですが」は「かしき」でも「かしぎ」でどちらでもいいということです。推古天皇の和風諡号を当時の人がどう発音したかは誰にも分からないわけですから、訓み方が書いてあれば別ですが、研究者によって色々な説・読みがあって当然だろうと思います。--Asuka 2007年6月11日 (月) 10:48 (UTC)[返信]
    • すみません。6月9日のQazzxさんとAsukaさんお2人のお話の流れでは、あすか様は、209ページを直さないから「かしきぎ」だ。といっているのかと私も思ってました。じゃぁどこにきぎと?悩んでしまってます。確認なんですが岩波は{かしぎ}なんですね。読み方は色々あるのが当然でしょうが私としては、素直に読下してもきぎはどうにも理解出来ず出典は何なのかなと思っている次第です。で、岩波が{かしぎ}であるならQazzxさんのおっしやるように、「他の根拠が出てこない以上、読みの違いは修正すべきではないかと思うのですがどうでしょう。」という提案は、検討考慮していただきまして改稿してもいいのかと、、、。papamaruchan22 2007年6月11日 (月) 13:20 (UTC)[返信]

    本文に書いてあった「かしきぎ」が間違いだと思いましたので6月10日に「本文の読みは、「き」が多いですね。訂正しておきます。」と書いているのですが。何度も繰り返しますが、「かしき」でも「かしぎ」でも、また、二つの読みを書いても、私はこだわりません。--Asuka 2007年6月12日 (火) 08:24 (UTC)[返信]

    お返事ありがとうございました。ようやく誤解が解けました。
    結論としては、「かしき」「かしぎ」の2通りについては典拠があるが、「かしきぎ」については典拠がないので、「かしきぎ」とされている部分は直す、ということで解決ですね。
    現時点でこの記事には読みがついているのが、(1) 冒頭部に(なぜか)書いてある『古事記』の書き下し文、(2) 「和風謚号」の節、(3) 「基礎データ」の節、の3カ所ありますが、読みは1カ所で良いと思います。記事の構成自体、ちょっと検討した方が良いようにも思います。--oxhop 2007年6月13日 (水) 12:29 (UTC)[返信]
    そうですね。oxhop さんのおっしゃるとおり3箇所の記述は多いですね。問題提起されたQazzxさんのお出ましがありませんが。記事の構成自体再構築がいいんでしょうね。今後ともよろしくお願いします。papamaruchan22 2007年6月14日 (木) 00:07 (UTC)[返信]

    東アジア初の女性君主であることについて

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    中国は則天武后(在位:690年 - 705年)、朝鮮半島は善徳女王(在位:632年 - 647年)が、それぞれ最初の女性君主なので、出典など要らない。推古天皇(在位:593年 - 628年)は文句なしの東アジア(中日韓)初の女性君主である。--Yume149 2011年9月6日 (火) 23:28 (UTC)[返信]

    卑弥呼は女性君主じゃないんですか?--122.215.123.105 2011年9月7日 (水) 06:47 (UTC)[返信]
    • うぅん~どうかなぁ君主って天皇・皇帝・天子なんかの事だし、、。国家の概念がないと君主とは言わないんだよね。いずれ此処は卑弥呼のページではないしね。papamaruchan22 2011年9月7日 (水) 11:18 (UTC)[返信]
    飯豊青皇女を天皇と認めるかどうかでも変わってきますね。--モンゴルの白い虎 2011年9月9日 (金) 13:55 (UTC)[返信]
    • たしかに29代の欽明天皇まではいわゆる記紀時代の伝説的天皇としての位置ずけですね。まぁたしかに実在の件まで突き詰めてもいろいろ意見があるしね、まぁ、女性君主の件はこのくらいにしていいでしょう。初の女性君主ってことで、、。papamaruchan22 2011年9月27日 (火) 06:37 (UTC)重複抹消2011年10月6日 (木) 01:07 (UTC)[返信]
    • 「文句なしの」ではなく、文句は色々つけようがあるということです。その上で、但し書きをあれこれ付けて、初めて「東アジア初の女性君主」といえる、というわけです。但し書きの部分をおろそかにしなければ、「東アジア初の女性君主」と明記しても一応は構わないと思います。--モンゴルの白い虎 2011年9月29日 (木) 14:53 (UTC)[返信]

    「東アジア初の女性君主である」という記述に関してですが、疑問があります。最も大きな疑問は、「推古天皇よりも先に卑弥呼という女性君主が存在したのではないか」という点です。上の議論の中で、「君主って天皇・皇帝・天子なんかの事だ」、「国家の概念がないと君主とは言わない」と述べている方がいますが、天皇や皇帝じゃなくても「君主」と言いますし、卑弥呼が統治していた邪馬台国も「国家」と言えるのではないでしょうか。そう考えると、「東アジア初」と表現するのは正しくないと感じます。--Wpjapanuser2012会話2012年11月14日 (水) 17:59 (UTC)[返信]

    • Wpjapanuser2012様建設的なご意見歓迎です。で、それはね、邪馬台国という国家の概念は、魏史倭人伝などで使われている国(くに)とは、当時の中国漢文でいう国(こく)=などで囲われたの町のことなんですよね。国家の概念がないと君主とは言わないのはご存知かと思います。国家の王様は君主ですけど、、卑弥呼を君主とする記述はまだ見ておりません。ただ、意見的にはモンゴルの白い虎さんの 2011年9月29日 (木) 14:53 (UTC)の意見に近いのですがね。papamaruchan22会話2012年11月17日 (土) 08:11 (UTC)[返信]
    卑弥呼が直接的に統治していた「邪馬台国」自体は、古代中国にも存在した「邑」と呼ばれるような都市国家ないし都市より少し大きな範囲の国家だったかもしれません。しかし、卑弥呼は魏から「倭の国王」として認められ、「親魏倭王」としての金印を授与されていますので、邪馬台国という一つの小さな領域(九州あるいは近畿地方)を超えて、倭(日本)全体にまで間接的には統治権が及んでいたと考えられるので、当時の倭国全体の頂点たる「君主」とみなして良いのではないでしょうか。当時の倭には様々な小国家が乱立しており、中には本当に一都市レベルの国家もあったでしょうが、卑弥呼はそれらの上位に位置しており、倭国全体を直接的ではないにせよ、間接的に統治していた君主とみなして良いと思われます。--Wpjapanuser2012会話2012年11月19日 (月) 14:45 (UTC)[返信]
    • そうですねぇ。金印の表記は当然承知しております。まぁここは卑弥呼のページでもないので、、邪馬台国の国家形態のお話はあちらでしてもいいかと存じます。卑弥呼を君主と呼ぶには、何か出典があればいいですがね。卑弥呼自身は古くは神功皇后と同一人物に比定されていたのですが明治以降倭姫命とか倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)説等があり今だ決着を見ておりません。倭国全体も統一に至ったのは大和朝廷になってからのような、、で、彼女が古代天皇家の誰か一員だとするのであればあるいは君主と称してもいい場合があるかもです。「日本全体にまで間接的には統治権が及んでいたと考えられる」とか倭国全体の頂点たる「君主」とみなすには独自研究と言われないようにクリアする、何か出典が欲しいと思ってます。それから卑弥呼は巫女の性格で聖俗二重政体を取っていましたので厳密にはその点でも君主なのかというところもあります。いずれここは卑弥呼のページではないのでこのあたりで失礼いたします。今後の研究の参考になれば幸いです。papamaruchan22会話2012年11月20日 (火) 01:40 (UTC)[返信]
    「出典」ということに関してですが、卑弥呼の場合、古代中国の文献(魏志倭人伝)などの記述は出典に該当しないでしょうか?少なくとも、魏は「倭国」という国家を認知しており、その君主として卑弥呼を認めていました。逆に、「推古天皇が東アジアで初の女性君主である」という根拠となる出典はあるのでしょうか?--Wpjapanuser2012会話2012年11月20日 (火) 11:04 (UTC)[返信]
    • Wpjapanuser2012さんの疑問提起は当然のことです、ただ拙papamaruchan22会話)はYume149さんが 2011年9月6日 (火) 23:28 (UTC)に述べた意見に賛成しています。君主として認めていたかどうかまでは今の我々は忖度できません。それは、まず大和朝廷以後の国家といわゆる邪馬台国(こく)とは違うと思料します。その上で卑弥呼が神功皇后だとか○○皇女だとか説に立てばその意味においての位置づけだと夫や親の天皇が君主なので卑弥呼本人は厳密に言えば君主とはとは言えないのではないかと思ってるわけですし、邪馬台国自体が魏からすれば国(コク)という位置づけです。意味が後の大和朝廷なんかとは少しく違って中華では朝貢してくる周辺異民族は柵で区切られた集落も既に国なんでしてね、国家の形態が成されているかは問題とされていません。記紀時代の以前は天皇でさえ伝説的天皇としての位置ずけですね。実在の件まで突き詰めてもいろいろ意見があるし、卑弥呼が君主かどうかは正直ここで論ずるには私自身は荷が重いのでこれ以上突き詰められないです。で、推古以前の女性の王たちの存在が曖昧なままですので本稿では、初の女性君主と言う表現になってるのでしょうね。出典としては推古天皇を Ben‐Ami Shillonyは実在する最初の天皇として著書の中で『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎(翻訳)、78頁。『最初の「天皇」は女性だった』と述べたりしてるしね。papamaruchan22会話2012年11月21日 (水) 14:22 (UTC)[返信]
    とりあえず、提示された書籍を、本文の「推古天皇は東アジア初の女性君主である」という記述部分の「出典」として付記しておくことにします。ただ、その書籍の記述に関してですが、「推古天皇以前の君主(例えば、卑弥呼など)は存在が曖昧であり、実は国家の頂点ではなく、君主の妻や娘という立場であった可能性があるので、東アジア初の女性君主とは言えない」とは直接的に書かれていないんですよね?だとすると、この推論はあなたの独自研究ということになるのではないでしょうか?--Wpjapanuser2012会話2012年11月22日 (木) 16:41 (UTC)[返信]

    なんだろうねぇ、立場の可能性なんかでなく皇后や姫だから君主ではありません(クリックしてウィキの神功皇后とか当該ページへ行ってみてください)。で、推古天皇をして「最初の天皇は女性だった」とする書籍があることで私の出典は示しました。で、推古女皇は紛れもなく日本初の女性天皇です天皇は主君です。これをまず抑えといてください、実在が確認できる最初の女帝です。聖徳太子を随に派遣しましたよね。卑弥呼に比定されている神功皇后は仲哀天皇の倭姫命とか倭迹迹日百襲姫は垂仁や孝霊のだから君主ではありませんし、存在も伝説になります。卑弥呼が君主かどうかは卑弥呼のページでしたらいかがですか私は実力も経験もないのであそこにはまだ行けない。存在のないのを証明せよとするサタンの証明もしたくない。papamaruchan22会話2012年11月23日 (金) 11:04 (UTC)[返信]

    「神功皇后=卑弥呼」という説に立脚すれば、「卑弥呼は君主の妻であって、君主そのものではない」という理屈は成り立ちます。しかし、「神功皇后=卑弥呼」という説は、様々な説の中のひとつに過ぎないわけであり、その説をまるで確立された定説であるかのような前提で議論を進めるべきではありません。推古天皇が「日本初の女性天皇」であることに疑問はありません。しかし、「推古天皇が日本初(あるいは、東アジア初)の女性君主であるかどうか」となると、「それ以前に卑弥呼という女性君主がいたのではないか」という上で述べたような疑問が出てくるわけです。とりあえず、「卑弥呼は神功皇后である」という前提で議論をするのは止めてください。--Wpjapanuser2012会話2012年11月23日 (金) 15:12 (UTC)[返信]
    • だったら卑弥呼が君主であったという検証可能の出典をあなたが出せば良いまでのこと。上の意見をよく読んでくれないかなぁ。前提とか定説でなく皇后であれば君主じゃないよと言っただけ。卑弥呼自身は古くは神功皇后と同一人物に比定されていて、さらに、明治以降倭姫命とか倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)説等があり今だ決着を見ておりません。と断った筈だよ。古代日本では律令制の用語法としての古代国家は天皇を意味しており、そのため国家を「ミカド」と訓ずることもあったんです。あなたが推古天皇が日本初の女性天皇であることに疑問はありませんと言いながら、それでも卑弥呼を君主と言いたいのかここで議論してもその意義を見いだせないというのが正直なところです。さらにここは卑弥呼のページじゃない。追伸魏志倭人伝による邪馬台国の記事の編者は日本列島に来てないし、それより約40年前に日本を訪れた使者が聞いたことを歴史家が書いたと言われています。どこにあったかもわからないので今だ論争中なのをあなた自身分かっていながら卑弥呼を君主だというのは論点としても困難だと思うね。papamaruchan22会話2012年11月24日 (土) 11:39 (UTC)[返信]
    「卑弥呼が君主である」という出典としては、上に述べたとおり、『魏志倭人伝』が挙げられます。それに対し、「卑弥呼=皇后」説というひとつの「仮説」を持ち出して、「卑弥呼は君主ではない」、「だから、推古天皇が東アジア初の女性君主だ」と推論を進めるのは独自研究です。推古天皇が日本初の女性天皇と記述することは問題ありませんが、東アジア初の女性君主と記述するには、根拠となる出典が存在しない以上、独自研究となり、Wikipediaには記述できないので削除対象となります。--Wpjapanuser2012会話2012年11月24日 (土) 14:33 (UTC)[返信]

    削除しても別にいいよ。でも、貴方が卑弥呼が君主である検証可能な出典を示してからと言いたい。示して頂ければすべて済むことだしね。倭姫命とか倭迹迹日百襲姫の卑弥呼説も否定する根拠も示してしてくださいね。ただ何度も言うけどここは卑弥呼のページではない。あちらでやってねと言いたい。papamaruchan22会話2012年11月25日 (日) 11:14 (UTC)[返信]

    誤解されているようですが、「卑弥呼が君主であるかどうかを示すこと」と「推古天皇が東アジア初の女性君主であるかどうかを示すこと」は別問題です。この項目は、「推古天皇」の項目であり、「推古天皇は東アジア初の女性君主である」と記述する側に出典を示す責任が生じるのです。出典を示せないのであれば、記述は削除されるというのがWikipediaのルールということです。この問題(「推古天皇が東アジア初の女性君主である」という出典を示すこと)に、卑弥呼が君主であるかどうかは関係ありません。--Wpjapanuser2012会話2012年11月25日 (日) 17:08 (UTC)[返信]
    誤解云々という言葉を相手に使うのはかなわないねぇ。卑弥呼が推古天皇より以前の女性君主と述べるからには、関係なしでは済まないのです。
    1. 魏志倭人伝の記述からは卑弥呼が君主かどうか結論できますか。そうではないのです。卑弥呼を君主と呼ぶ出典にはならないのです。倭人伝は君主たるかどうかまで斟酌してません。西暦239年に邪馬台国といういわゆる周辺部族から使いが来てそれに金印を授けたと言ってます。
    2. 金印をもらったら君主なんてことはないしね。金印はそれより以前の西暦57年に倭奴国でも後漢から授かったよね。漢倭奴国王を誰も君主だなんて言ってませんしね。
    3. 卑弥呼には熊襲酋長説なんかもありますよね。
    4. 西暦350年頃ようやく国内が統一され国家が形成されました。それ位後は君主という表現が出てきます。
    5. 古代日本では律令制の用語法としての国家=天皇=ミカド=君主です。
    6. ベン教授の書籍[1]では推古天皇は『最初の女性「天皇」だった』と述べてます。
    7. 我が国で君主とは古代から今上陛下まで連綿と天皇のことであり、ほかに君主はいません。
    8. 飯豊青皇女については10ヶ月程度政治に携わったとも言われてますが践祚してませんし、歴代天皇にカウントされてません。
    9. 推古天皇は593年に即位してます。中国は則天武后(在位:690年 - 705年)、朝鮮半島は善徳女王(在位:632年 - 647年)が、それぞれ最初の女性君主なので東アジア(中日韓)初の女性君主でしょうね。

    あなた様が熱心なのでお返事が長くなりましたが本来的には、専門書を見てね程度でもよかったのかもしれませんがね、、。

    出典

    1. ^ 『君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎(翻訳)、78頁。

    papamaruchan22会話2012年11月26日 (月) 07:48 (UTC)[返信]

    出典として、『君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎(翻訳)、78頁を挙げられていますが、その出典に直接的に書かれていることは、上記の中の「推古天皇は『最初の女性「天皇」だった』」という部分に関してだけですよね?
    他の項目に関しては、あなたの独自の推論ですか?それとも、何かの文献で歴史学者が主張している内容でしょうか?
    「金印をもらったら君主なんてことはない」、「我が国で君主とは古代から今上陛下まで連綿と天皇のことであり、ほかに君主はいません」という主張は、どの出典に書かれていることでしょうか?それとも、あなたの独自の推論でしょうか?--Wpjapanuser2012会話2012年11月26日 (月) 08:53 (UTC)[返信]
    • あれっ此処は卑弥呼のページじゃあ無いので言わなかったけど
    1. 貴方Wpjapanuser2012さんは、「『親魏倭王』としての金印を授与されていますので邪馬台国という一つの小さな領域(九州あるいは近畿地方)を超えて、倭(日本)全体にまで間接的には統治権が及んでいたと考えられるので、当時の倭国全体の頂点たる「君主」とみなして良い」と言ったったよね。だから貴方の推論に対して、金印を貰えば君主なのか?それは違うよといったまで、その否定例として漢奴国王の志賀島から発見された金印の例を示しましたがなにか。
    2. 貴方の上記独自推論を否定したら当方を独自の推論と言って返すのはディベート以外の何物でもない。どこに貴方の倭国全体の頂点たる「君主」とみなして良い論拠を証明できるものがありますか。
    3. 卑弥呼が倭国を「間接的に統治していた君主」とみなして良いと思われますとのことですが卑弥呼の間接的統治とは具体的になんですか。質問するばかりでなく疑問点に答えてほしいし、それが話し合いになるわけ。
    4. 天皇機関説など持ち出すまでも無く天皇は世襲による君主だろうね。わが国において天皇以外の君主を寡聞にして知らないので教えてくれませんか。いずれ続きをするとすればその後で。papamaruchan22会話2012年11月26日 (月) 10:46 (UTC)[返信]
    繰り返しますが、卑弥呼が君主かどうかは関係ないのです。私が、この項目の「推古天皇が東アジア初の女性君主である」という部分に関して疑問を感じたきっかけのひとつとして、卑弥呼の存在があったと述べてるだけです。卑弥呼が君主であろうとなかろうと、「推古天皇が東アジア初の女性君主である」と明確に記述された検証可能性を満たす出典が必要ということです。「卑弥呼が君主だ」と私が証明できなければ、書いても良いという性質のものではありません。Wikipediaの方針・ガイドラインなどを良く理解してください。--Wpjapanuser2012会話2012年11月26日 (月) 11:05 (UTC)[返信]

    (インデント戻す) コメント 横から失礼しますが、推古天皇が東アジア初の女性君主であると直接書いた信頼できる情報源における出典がない限り、そのような記述を書くべきではないと私も思います。卑弥呼が君主であるかどうかはこの場合無関係で、間接的な材料で推論しても、それは独自研究になってしまいます。Wpjapanuser2012さんが不用意に卑弥呼云々を持ち出してしまったのでややこしくなってしまったようですが、これ以上の議論は無用であると考えます。--立花左近会話2012年11月26日 (月) 11:56 (UTC)[返信]

    • コメントそうですね。私自身はウィキに長く滞在してるけれども先達には一定の敬意を示しまた新しい人にも「ガイドラインなどを良く理解せよ」等と対話を困難にする言辞には気をつけてます。立花左近さんの仰せのとおり不毛な議論は私の本意ではありません。ただ本稿記事の一定の妥当性は担保されていると存じます、古代日本では律令制の用語法としての国家=天皇=ミカド=君主です、国家そのものを帝(ミカド)と音訓してます、従って推古は最初の女性天皇ですから=最初の女性君主です。少し歴史に親しんでいれば半常識的なことなので独自論ではないのです、ことさら取り立てて直接記載されてないのです。また 即位年593年から申しまても、則天武后の690年、善徳女王の632年より前であるので東アジア初の女性君主と言う表現(私の投稿ではないのですが)で本文に掲載されているのでしょう。papamaruchan22会話2012年11月26日 (月) 12:46 (UTC)[返信]
    私よりはるかに前からご活動されておられるのですから申すまでもないことと思いますが、Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」 です。今回のように疑問が出された時点で、出典が提示できなければ記述を残しておくわけにはいかないでしょう。--立花左近会話2012年11月26日 (月) 13:12 (UTC)[返信]
    えぇそうですね。Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」 は織り込み済ですです。そもそも「推古天皇よりも先に卑弥呼という女性君主が存在したのではないか」という点で疑問提起があったので卑弥呼はちがうのではと丁寧に問題解決に答えてこちらの疑問も合わせて提示していたら今更卑弥呼が君主かどうかは関係ないのですと言われても困惑してしまうということであります。推古天皇が日本初の女性君主であるだけに、推古以前の女性君主の存在がなく証明できません。厳密な君主としての出典ではありませんが、上の議論では最初の女性天皇としての出典を示してます、国家=天皇=ミカド=君主ですので十分な傍証にはなると思います。私自身の記事建てではありませんが存在しないものを証明する悪魔の証明に挑戦する意義も意欲も残念ながら持ち合わせていないです。歴史の記事を多数新規立稿しましたが、特に古代以前の人物はこの点がややこしいです。立花さんとお話できて多謝とするところです。papamaruchan22会話2012年11月26日 (月) 14:05 (UTC)[返信]
    こちらこそ、余計な口を挟んで失礼いたしました。余計ついでに、「推古天皇は日本初の女性天皇だった」、「 推古天皇の即位は則天武后や善徳女王の即位より前である」、ゆえに「推古天皇は東アジア初の女性君主である」とするのは、Wikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成に当たるのではないかと思います。「傍証」でも駄目で、とにもかくにも、「推古天皇は東アジア初の女性君主である」とはっきり書かれた出典がなくては、そのような記述を載せるわけにはいかないと思います。「少し歴史に親しんでいれば半常識的なことなので独自論ではないのです、ことさら取り立てて直接記載されてないのです」とおっしゃられても、不特定多数の人間が自由に編集し、また利用するというウィキペディアの特性上、通用するものではありませんし、ましてや、そのような編集者同士がここで議論したところで、結論が出せるものでもないでしょう。重ね重ね、失礼を申し上げました。--立花左近会話2012年11月26日 (月) 15:38 (UTC)[返信]
    • 失礼ではないですありがとうございますと言いたい。合成に当たるかどうかは論評しません。正直経験上傍証も捨てたもんじゃないと思うときもあります。ただね、歴史的に卑弥呼が君主として証明できるものでもないし、関係ないとのことですから推古以前がない。推古が最初ってことの確実な出典としては歴史年表を推挙します。それぞれの各国初の女性君主の即位年が掲載されている事実は残るんだよね。既に当該箇所に出典の付与は皮肉なことに対話者が行っているのですが。いずれあなた様の言う結論が、年表というツールですんなりと解決したりしてね。papamaruchan22会話2012年11月26日 (月) 16:13 (UTC)[返信]
    年表に前後関係が載っていても、文章として推古天皇が東アジア初の女性君主であるということが載っていないと出典にはならないので、すんなり解決はしないと考えます。逆に、明確な出典さえ見つかれば、すぐにでも堂々と載せることができるでしょう。そもそも信頼できる情報源に明確に書かれていないことをわざわざ載せる必要はないですし、もしそれが自明なことならなおさらでしょう。同じことの繰り返しになるのでこれ以上の議論はご勘弁下さい。--立花左近会話2012年11月26日 (月) 23:52 (UTC)[返信]
    うん、たしかに出典を探すのをしないのは怠慢のそしりを免れないかもです。また年表をどう捉えるかは少しく方向性が違いますね。つまり年表の件についてはですね、どれが最初とか即位の順番とかを我々が執筆する上で検証出来ますのは、前後関係が掲載されている査読の済んだしかるべき識者の監修した、しかるべき出版元の年表本となります。これが価格が高い。二万以上はするんですよね。国史大年表などは「海外文献と遺物から作成した日本関係年表」で事象の羅列だけじゃないんです、西暦紀元前から西暦四〇〇年までは、中国・朝鮮半島などの史料および日本に存在する金石文を中心にまとめてあるはずです。年度の比較でも出典とできると思うので時間のあるとき古代女性史系も含めて調査してみます。いろいろサジェスト感謝します。私もこれにて。papamaruchan22会話2012年11月27日 (火) 02:43 (UTC)[返信]
    これまでにさせていただくつもりでしたが、信頼できる情報源を出典としても、年度の比較のみである限り、それをもって推古天皇をアジア最初の君主とするわけにはいかないと考えます。例えば仮に卑弥呼が君主であるという出典が見つかったとすると、推古天皇を東アジア最初の女性君主とするわけにはいきませんが、かといってしても、卑弥呼が東アジア最初の女性君主とするわけにもいきません。あくまで推古天皇なり卑弥呼なり、あるいは他の誰であってもですが、その人物が東アジア最初の女性君主であると明記されている出典がない限り、それをウィキペディアには記載すべきでないということです。なお、どこにお住まいか存じませんが、『国史大年表』なら大きな図書館には置いてあると思います。ご購入の必要はありません。同じことの繰り返しになっていますので、本当にこれまでとさせていただきます。--立花左近会話) 2012年11月27日 (火) 03:09 (UTC)  うっかりして誤ったことを書いてしまったので訂正。卑弥呼が君主であるとする出典があるだけで、推古天皇は東アジア初の女性君主でないとするのも、独自研究になってしまいますね。また、一方で卑弥呼が君主であるという出典があり、他方で推古天皇が東アジア初の女性君主であるという別の出典があったとすると、後者の出典をもって推古天皇の項に東アジア初の女性君主と記載しても問題はないということになります。まあ、公平性のために卑弥呼を君主とする出典もあることを注記した方がいいかもしれませんが、卑弥呼が東アジア初の女性君主とする出典まではないならば、その必要はないかもしれません。と、仮定の話をしても仕方ありませんので今度こそ退散いたします。--立花左近会話2012年11月27日 (火) 03:54 (UTC)[返信]

    (インデント戻す)この出典でこの書き方でしたら全く文句のつけようはありません。が、ここまで書くのはちょっとどうかと思います。「女帝・女王」=「女性君主」としていいのか、この文脈でははっきりしないです。余計なことは書かない方がいいかと。--立花左近会話2012年11月29日 (木) 13:55 (UTC)[返信]

    失礼、もちろん横田氏がこの本で推古天皇が東アジア初の女性君主であるとも明確に述べているなら別です。現物を見ていないので。機会があれば自分で検証してみます。--立花左近会話2012年11月29日 (木) 14:03 (UTC)[返信]

    脚注によれば、「横田健一(著)『古代王権と女性たち』、吉川弘文館、1996年1月発行22頁引用ー『女帝・女王は当時の東アジア世界にはまだいなかった。新羅第二十七代の善徳女王が王位についたのが六三二年のことで、推古天皇崩後四年目のことである。』」とのことですので、「女帝・女王」に関しては、この横田健一の説によれば、推古天皇が東アジア初ということになるでしょう。しかし、「女性君主」とは書かれてないようですね。「女帝・女王」と「女性君主」は別概念ですので、「女性君主」と書いてしまったら独自研究に当たるかと思います。念のため、表現を「女性君主」から「女帝・女王」に変更することにします「東アジア初の女性君主」という部分に関してコメントアウトしておきました。--Wpjapanuser2012会話2012年11月29日 (木) 22:52 (UTC)[返信]

    あのねぇ。コメントアウトはいかがかと思う。∴なぜならばこのページの意見の流れから言うとね。条件付きながら東アジア初の君主とする意見はモンゴルの白い虎さんと Yume149さんとわたしの三名です。無視して良いとは思わないけどね。それから「女帝・女王」と「女性君主」は別概念ですという意見はそれこそ独自の見解なんです。さらに言うとね。佛教大学の山口教授の言によれば我が国の君主は古くから「天皇」と呼ばれてきました。[1]と言い切っておられます。君主は天皇なんです。国語辞典[2]レベルなんです。再度引用を提示しますね『女帝・女王は当時の東アジア世界にはまだいなかった。新羅第二十七代の善徳女王が王位についたのが六三二年のことで、推古天皇崩後四年目のことである。』とありますよね、別概念だったら強調箇所同士の比較を文献に載せてない。同概念だから比較してるのです。「おおきみ」「帝」が天皇と称することになったことなどいまから説明していっても理解されないのでは話にならないし、私の初稿でもないのであまり私自身執着はないけれども。そんなことで前に削除しても別にいいよなどど言いましたけど、いろいろウィキ上での学習の参考になればと思ってお話しているだけなんだれどね。

    1. 出典
    1. ^ 山口修著『天皇最長不倒の帝王。』1994年PHP研究所刊。54頁・ISBN4-569-54542-4
    2. ^ 国語辞典講談社版久松潜一他監修

    papamaruchan22会話2012年11月30日 (金) 13:47 (UTC)[返信]

    改めて色々な書籍(東アジア史関連も含めて)を見直してはいますが、いまだ推古天皇を東アジア初の女性君主と明確に書いたものにはお目にかかれません。違う書籍の記述を継ぎはぎしてこうだとおっしゃられても、それは発表済みの情報の合成になるというのが私の意見です。コメントアウトは極めて穏当な処置で、私は(出典が提示されない限り)除去でもいいと思っています。そもそも、凡そ名の通った辞典・事典類の「推古天皇」の項にもないような記述を、わざわざここに載せる必要があるのかも疑問です。それほどこの記述を残すことにこだわられるのなら、ぜひ明確な記述のある出典をお示しいただきたいです。条件付きで東アジア初の君主とする意見が三名とおっしゃいますが、合意は多数決ではありませんし、それもたかだか3対2の僅差ではありませんか。必要でしたら、コメント依頼でもしてみますか?--立花左近会話2012年11月30日 (金) 16:55 (UTC)[返信]
    ああ、それから申し上げておきますが、オオキミと天皇の違いのような基本的なことは承知しております。天皇という称号がいつから使用されるようになったのかの諸説も知っていますし、和風諡号と漢風諡号の問題、あるいは邪馬台国と卑弥呼に関する一連の議論も知っています。天皇と皇帝の違い、王と皇帝の違い、日本と中国とヨーロッパの女帝の違いなども心得ているつもりです。ですから、Papamaruchan22さんのご意見には個人的には納得できるところもあれば、疑義もあります。しかし、所詮ウィキペディアの編集者は某管理者のような方は別としてどこの誰か分からないのですから、そんな編集者同士でああだこうだと学術的な論争をしても客観的な説得力はありませんので、そのようなことをするつもりはありません。ゆえに出典が必要だと申しております。--立花左近会話2012年11月30日 (金) 17:19 (UTC)[返信]
    • 立花さんいろいろどうもお手数かけます。あなた様の言われることとか出典のことも理解できるし、もっとものことです。従いまして載せなくてもいいけれども過去ログもあるしね。 横田健一(関西大学名誉教授)によれば日本最初の女帝推古天皇が即位したとき「女帝・女王」は当時の東アジアにはまだいなかったと述べています、さらに天皇は君主であるとはっきり書いてある書籍もあります。天皇=君主ですので「女帝・女王」=「女性君主」としていいというのは国語辞書レベルなんだけれども合成だよとなるとどうも悩ましいですね。そもそも対話者が「卑弥呼」が魏志倭人伝に記述あるだけで君主だろう、でそれが出典である。との意見が出されたので色々グダグダしくなり、ガイドラインを理解しろとか概念がどうのとかなんてことまで言われても私は「釈迦に念仏状態」でありますので本来参考書を見てね程度で済ませれば良いのですがね。前に一応君主って事にして過ごしておいたのですが、卑弥呼が以前にいるじゃないかとのことでした。それについて違うと認識されればいいので、いろいろ問題ありますが詮無きことですのでここでは私自身は終わりにしましょう。papamaruchan22会話2012年12月1日 (土) 07:02 (UTC)[返信]
    こちらこそ、再三にわたり失礼いたしました。私もこれにて退散させていただきます。どなたに限らず、信頼できる情報源による合成でない明確な出典が見つかれば、いつでも記述を復帰して下さい。--立花左近会話2012年12月1日 (土) 12:13 (UTC)[返信]
    • お世話様でした。最後に コメント (学者の方々が書いた書籍の中から女帝とか女性君主の語句を取り出しても所詮は趣味で書いているウィキですので)今回の例は一言一句書いてないと載せてダメとの見解だとこうなるという例で仕方ないのかもしれませんが、合成の捉え方などは本当にこれでいいのかは私の勉強不足でよく理解してないし、ほんとにガイドラインを咀嚼しないと(ゴンリの例はもともと以前から難解に書いてある)私のとらえ方としては疑問がありますがね、、。蛇足のダソクですが。「女帝・女王」と「女性君主」は別概念ではなく、英和辞典ではenpressとは「君主としての女帝」と邦訳されてます。(ウィキペディア英語版でもenpress)従って「推古enpress」は君主としての女帝です。横田教授他によれば推古enpressが東アジア初ということですから。本文のあの記述は独自研究とまで言い切れないと思ってます、英訳でenpressで一個の横田記述だけでも女性君主そのものを表し合成などはないですし、私も加工してない。特定の観点を推進もしてないのですが。私だけここで述べてもしょうがないです。女帝=女性君主は英和辞典レベルなので歴史年表に書いてあればそれが出典の充分条件たりうるとの立場でもありますが、、、。気を長く持って記事掲載の書籍が見つかれば立花さんがおっしゃるとおり記述を復帰させて下さいませ。ことさら学者の先生にとっては半分当たり前なのでこれがなかなか、、。ほかの方にもご意見があるでしょうが参入がないのでこのへんで失礼します。papamaruchan22会話2012年12月2日 (日) 06:53 (UTC)[返信]
    終わりにするとおっしゃりながら何度も同じご意見を繰り返されるので、こちらもつい発言してしまうわけですが、疑問なのはそこまでして残す必要のある記述なのかということです。Papamaruchan22さんの論旨は理解しているつもりですが、私は推古天皇が東アジア初の女性君主であると明確に書いた出典をいまだに発見できません。出典にないものは書くべきではないと思いますし、女帝=女性君主が辞典レベルとおっしゃるなら、「推古天皇が即位したとき東アジアに「女帝・女王」は当時の東アジアにはまだいなかった」という記述で主旨は十分伝わるはずですから、そのままで何の問題もない。わざわざ女性君主と念を押さなければならないとすれば、それは辞典レベルではないことの証左になってしまうのではないでしょうか。それと件の記述ですが、申し訳ありませんがまだ実見する機会が得らていないため前後の文脈がわからないのですが、これだけ見たところでは疑問がないわけではない。というのも例の卑弥呼がいわゆる『魏志倭人伝』に女王と書かれていることは紛れもない事実なので、女帝はいなかったとしても女王はいたのではないか。たぶんかぎ括弧が付けてあるのがミソで、それこそ女性君主の意味で女帝・女王を定義しているのかもしれない。ですがそうなると、何の注釈もなく(もちろん、元の出典の前後に書いてなかったら勝手に注釈を付けるのは言語道断ですが)この記述を載せてもいいものかと思わないでもないです。ましてや、この横田さんがこの文脈で女王をどういう意味で使っているかも分からないまま、他の人の出典をもって、あるいは辞典レベルで女帝=君主なのだという理屈で拡大解釈するのはいかがなことかと思わざるを得ません。さしあたり、出典がある以上はそのままの主旨で記述を載せるのは反対いたしませんので、それ以上のことをお書きになられたいのでしたら、別の出典を見つけて下さい。
    ところで、過去の議論参加者の方に呼びかけをなさるのは構いませんが、公平を期すためにはコメント依頼の方がよかったのではないでしょうか。まあ、あまりやり過ぎるのもフォーラム・ショッピングになる恐れがありますし、私としては本当にこのぐらいにさせていただきたいのですが。繰り返しになりますけれども、どなたに限らず、信頼できる情報源による合成でない明確な出典が見つかれば、いつでも記述を復帰して下さい--立花左近会話2012年12月2日 (日) 09:51 (UTC)[返信]

    出典が見つかりました[1]前後の文脈・記述とあわせて反映をお願いします(文がガタガタになりそうなので気を使ってるつもりです)。4週間まっても反映がない場合はこちらで適当な場所に反映します。なお、この記事の監修は竹田恒泰さんだそうです。

    出典

    1. ^ 馬場, 千枝「天皇125代を継承した皇室の歴史」『一個人』第157号、KKベストセラーズ、2013年、83頁、ISBN 4910115790634{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。2013年5月4日閲覧。「東アジアにおける女帝の先駆けだった」 

    --Mizuhara gumi会話) 2013年5月4日 (土) 02:58 (UTC) 訂正--Mizuhara gumi会話2013年5月7日 (火) 11:01 (UTC)[返信]

    ご提示の『一個人』を見ました。まず、当該ページの本文では、天皇の男系継承と女系天皇についての記述の中で「我が国最初の女帝、推古天皇」とありました。「東アジアにおける女帝の先駆けだった」という記述は、欄外の「聖徳太子絵伝」に描かれた推古天皇即位の画の説明文で、前後に何の説明もありませんでした。本節の議論は推古天皇を東アジア初の女性君主と書いていいかどうかということですが、女帝=女性君主とするのは前述のように問題がありますので、これらをもって東アジア初の女性君主とするわけにはいきません。また、先駆けとは必ずしも最初の一人を意味するとは限らず、ワン・オブ・ゼムというニュアンスの場合もありますが、この説明文だけではそれがどちらを意味しているのかもはっきりしません。よって、あえて書くとすればそのまま「東アジアにおける女帝の先駆け」とする以外ないと思いますが、そのような曖昧な記述を載せるべきかどうか疑問です。また、『一個人』の記事は、竹田恒泰さんに馬場千枝さんが取材して書いた文章のようでしたが、竹田恒泰さんは明治天皇の玄孫にあたる方で、神武天皇実在説を唱えられていらっしゃるなど、一般の歴史学者の方の通説とは異なったご意見をおっしゃる方でもあります。馬場千枝さんは加来耕三さんとの共著を出版されているライターの方ではいらっしゃいますが、学者の方ではありません。その点からも、この雑誌の記事のみをもって出典とするのは、少々弱い感じがします。--立花左近会話2013年5月7日 (火) 06:55 (UTC)[返信]
    レスありがとうございます。どうやら「信頼できる情報源による合成でない明確な出典」では無かったようですので上のコメントは取り消しにしておきます。--Mizuhara gumi会話2013年5月7日 (火) 11:01 (UTC)[返信]