藤原乙牟漏
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藤原 乙牟漏 | |
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第50代天皇后 | |
皇后 | 延暦2年4月18日(783年5月23日) |
皇太后 | (追贈)大同元年5月19日(806年6月9日) |
誕生 | 天平宝字4年(760年) |
崩御 |
延暦9年閏3月10日(790年4月28日) |
陵所 | 高畠陵(長岡陵、京都府向日市) |
諱 | 乙牟漏 |
諡号 | 天之高藤廣宗照姫之尊 |
氏族 | 藤原氏(式家) |
父親 | 藤原良継 |
母親 | 阿倍古美奈 |
配偶者 | 桓武天皇 |
子女 |
平城天皇 嵯峨天皇 高志内親王 |
身位 | 夫人 → 皇后 |
藤原乙牟漏(ふじわら の おとむろ、760年〈天平宝字4年〉[1] - 790年4月28日〈延暦9年閏3月10日〉)は、日本の第50代天皇・桓武天皇の皇后。平城天皇・嵯峨天皇の生母となった[2]。藤原鎌足の玄孫にあたる。
親族
[編集]父は藤原式家の藤原良継、母は阿倍粳蟲の娘で尚侍兼尚蔵(就任時期不明)・阿倍古美奈。山部親王の許に入内し、宝亀5年(774年)8月に小殿親王(後に改名して安殿)を産んだ。[3]
生涯
[編集]天応元年(781年)4月15日には山部親王が即位して桓武天皇となり、延暦2年(783年)2月5日には無位から正三位に叙される。2月7日には夫人(ぶにん)となり、4月には皇后に立てられる。同4年(785年)には安殿親王(後の平城天皇)が立太子される。
延暦5年(786年)には神野親王(後の嵯峨天皇)を産む。同8年(789年)には高志内親王を産む。同9年(790年)閏3月10日に31歳[1]で崩御し、高畠陵(長岡陵、京都府向日市)に葬られた。大同元年(806年)には即位した平城天皇により、皇太后を追贈された。『続日本紀』によると「后性柔婉にして美姿あり。儀、女則に閑って母儀之徳有り」と記されており、「乙牟漏皇后は美しい方で、温和なお人柄であられた。礼儀正しく、良き母であられた」という意味である。
脚注
[編集]- ^ a b 『一代要記』[1]に薨年三十九とあり、これに拠るなら天平勝宝4年(752年)生まれということになる。高島正人は、父藤原良継や桓武の年齢、平城の出生年(続日本紀の記述どおりだとすれば満13あるいは14歳で出産したことになる)からすれば、こちらのほうが合理的だとしている。高島「奈良時代における藤原氏一門の女性」『奈良時代諸氏族の研究』p.397。
- ^ Ponsonby-Fane, page 62.
- ^ Nussbaum, Louis-Frédéric. (2005). "Fujiwara no Umakai" in Japan Encyclopedia, p. 211, p. 211, - Google ブックス; Brinkley, Frank et al. (1915). A History of the Japanese People from the Earliest Times to the End of the Meiji Era, p. 203., p. 203, - Google ブックス
- ^ 遺跡地名表 (PDF) (向日市埋蔵文化財センター)。
出典
[編集]- 高島正人「奈良時代における藤原氏一門の女性」『奈良時代諸氏族の研究』所収、吉川弘文館、1983年、ISBN 4642021183