伊賀国
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伊賀国 | |
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■-伊賀国 ■-東海道 | |
別称 | 伊州(いしゅう)[注釈 1] |
所属 | 東海道 |
相当領域 | 三重県西部(伊賀市・名張市) |
諸元 | |
国力 | 下国 |
距離 | 近国 |
郡・郷数 | 4郡18郷 |
国内主要施設 | |
伊賀国府 | 三重県伊賀市(伊賀国庁跡) |
伊賀国分寺 | 三重県伊賀市(伊賀国分寺跡) |
伊賀国分尼寺 | 三重県伊賀市(長楽山廃寺跡) |
一宮 | 敢国神社(三重県伊賀市) |
伊賀国(いがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。
歴史
[編集]- 律令制以前
- 律令制以前は伊賀国造の領域であったとされる。
- 飛鳥時代
- 令制国設置に伴い当国域をも含む伊勢国が成立し、その後680年(天武天皇9年)に伊勢国から分立した。当初は2郡だったが、後に阿拝郡、山田郡、伊賀郡、名張郡の4郡になった。
- 室町時代・安土桃山時代
- おおむね仁木氏が伊賀守護をつとめたが、支配力は緩く、地侍による自治が進むが、織田氏により制圧された(天正伊賀の乱)。
- 第二次天正伊賀の乱ののち、伊賀3郡を織田信雄が、残りの1郡を織田信包が領することになった[1]。
- この頃に600を越える土塁付の屋敷が作られ、忍者の発生へとつながった。徳川家康が「神君伊賀越え」を実行したことでも知られる。
- 江戸時代
- 江戸時代には藤堂家の領国の一部となり、伊賀国一帯は伊勢津藩の領土となった。
近世以降の沿革
[編集]- 「旧高旧領取調帳」の記載によると、明治初年時点では国内の全域が伊勢津藩領であった。(197村・110,843石余)
- 明治4年
- 明治5年3月17日(1872年4月24日) - 安濃津県が改称して三重県となる。
国内の施設
[編集]国府
[編集]→詳細は「伊賀国庁跡」を参照
国府は阿拝郡に所在した。現在の伊賀市坂之下字国町にあたる(北緯34度48分9.05秒 東経136度9分28.46秒 / 北緯34.8025139度 東経136.1579056度)。1989年(平成元年)から1994年(平成6年)にかけての発掘調査により、I-IV期に分類される8世紀末から11世紀半ばにかけての遺構とともに、「国厨」の墨書を有する土器が検出された[2]。政庁域は40メートル強四方で、主要建物群として正殿・前殿・左右脇殿の「品」字状の配置が認められている[2]。これらの遺構は、2009年(平成21年)7月23日に「伊賀国庁跡」として国の史跡に指定された[3]。
国分寺・国分尼寺
[編集]- 伊賀国分寺跡 (伊賀市西明寺字長者屋敷、北緯34度45分31.41秒 東経136度9分13.02秒 / 北緯34.7587250度 東経136.1536167度)
- 国の史跡。東大寺式伽藍配置で、推定寺域は東西約220メートル・南北約240メートル。上寺山国分寺(伊賀市坂之下)が後継を称する。
- 伊賀国分尼寺跡
- 国の史跡「長楽山廃寺跡」(伊賀市西明寺字長楽寺、北緯34度45分27.60秒 東経136度9分27.19秒 / 北緯34.7576667度 東経136.1575528度)に比定される。伽藍のうち金堂・講堂のみが検出されている。龍王山菊昌院法華寺が後継を称する。
神社
[編集]- 総社:不詳
- 伊賀市府中に府中神社があるが、若宮八幡宮が明治以後に他神社と合祀されて改称したもので、総社ではないとされる。
- 一宮:敢國神社(伊賀市一之宮、北緯34度47分14.52秒 東経136度9分50.18秒 / 北緯34.7873667度 東経136.1639389度)
- 二宮:小宮神社 (伊賀市服部町、北緯34度46分46.78秒 東経136度8分31.08秒 / 北緯34.7796611度 東経136.1419667度)
- 三宮:波多岐神社 (伊賀市土橋、北緯34度47分55.93秒 東経136度8分49.02秒 / 北緯34.7988694度 東経136.1469500度)
- 『伊賀記』(伝・北畠親房著)に「里人称之三宮。又号波太伎社之宇都可明神説見于上」とあるのが初見。
守護所
[編集]守護所は、「府中」「こふ」と呼ばれた現在の伊賀市の東条・西条あたりと想定されている。
安国寺・利生塔
[編集]地域
[編集]郡
[編集]江戸時代の藩
[編集]藩名 | 居城 | 藩主 |
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伊賀上野藩 | 伊賀上野城 | 筒井定次(20万石、1600年~1608年)。改易により廃藩 |
津藩 | 伊賀上野城(城代) | 藤堂家(22万950石→27万950石→32万3950石→27万3950石→27万950石、1608年~1871年) 藤堂氏は、伊賀・伊勢2国を領有し、本城は伊勢津城であったが、伊賀上野城にも城代をおいていた。 |
人物
[編集]国司
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伊賀守
[編集]- 阿直敬
- 葛井人根
- 池田足床
- 六人部佐婆麻呂
- 陽侯令珍
- 久米子虫
- 葛井河守
- 伊勢子老
- 長尾金村
- 広田王
- 礪波志留志
- 尾張弓張
- 甘南備継成
- 賀茂大川
- 伊賀朝光
- 島田清田
- 平経盛
- 平知忠
- 橘成季
- 二条定高
- 源光清従五位上
伊賀目
[編集]- 佐婆安麻呂
- 山部馬養
- 高屋某
- 都努長濱
- 平経盛
伊賀史生
[編集]- 韓国佐美
- 大石大鯖
- 針間斐太麻呂
守護
[編集]鎌倉幕府
[編集]- 1184年~1186年 - 大内惟義
- ?~1204年 - 山内首藤経俊
- 1204年~1205年 - 平賀朝雅
- 1247年~1275年 - 千葉頼胤
- 1275年~1312年 - 千葉胤宗
- 1312年~1333年 - 千葉貞胤
室町幕府
[編集]- 1337年~1339年 - 仁木義直
- 1339年~? - 千葉貞胤
- 1340年 - 桃井直常
- 1342年~1343年 - 千葉貞胤
- 1346年~1347年 - 仁木義長
- 1347年~1350年 - 高師冬
- 1351年 - 千葉氏胤
- 1351年~? - 仁木義長
- 1352年~1353年 - 細川清氏
- 1353年~1360年 - 仁木義長
- 1365年~1380年 - 中条元威(長秀)
- ?~1433年 - 仁木国行
- 1433年~? - 山名時熙
- 1470年~1477年 - 仁木氏
- ?~1487年 - 仁木貞長
- 1491年 - 仁木氏
戦国大名
[編集]伊賀国には有力な戦国大名は誕生しなかった。当時伊賀は群雄割拠の状態で、守護として入国した仁木兵部少輔も柘植氏に討たれた。のち仁木氏が国人達によって追放された後、阿加、山田、阿拝の3郡は六角氏、名張郡は北畠氏によって間接的な支配が行われた。 天正9年(1581年)、直接的な支配を目指した北畠信意(織田信雄)により平定されている(天正伊賀の乱)。
- 織豊政権の大名
武家官位としての伊賀守
[編集]- 江戸時代以前
- 江戸時代下野壬生藩鳥居家
- 江戸時代信濃高遠藩内藤家
- 江戸時代尚庸系永井家
- 江戸時代伊賀守流藤井松平家
- 江戸時代越後黒川藩柳沢家
- 江戸時代出羽本荘藩六郷家
- 江戸時代その他
- 秋元喬房(従五位下):武蔵川越藩第2代藩主
- 井伊直存(従五位下):越後与板藩第4代藩主
- 板倉勝重(従五位下):板倉家宗家初代。江戸町奉行、京都所司代
- 板倉勝静(従五位下):板倉家宗家13代。備中松山藩第7代藩主。老中首座
- 木下俊治(従五位下):豊後日出藩第2代藩主
- 木下俊在(従五位下):豊後日出藩第5代藩主
- 桑山元晴(従五位下):大和御所藩初代藩主
- 真田信利(従五位下):上野沼田藩初代藩主
- 土井利寛(従五位下):越前大野藩第3代藩主
- 戸田氏長(従四位下):美濃大垣藩第5代藩主
- 戸田忠盈(従五位下):下野宇都宮藩第3代藩主、肥前島原藩初代藩主
- 内藤忠重(従五位下):志摩鳥羽藩初代藩主
- 土方雄隆(従五位下):陸奥窪田藩第3代藩主
- 森川重政(従五位下):下総生実藩第2代藩主
- 分部嘉治(従五位下):近江大溝藩第2代藩主
伊賀国の合戦
[編集]- 1184年:三日平氏の乱 (平安時代)、源氏(大内惟義) x 平家(平家継)
- 1204年:三日平氏の乱 (鎌倉時代)、鎌倉幕府軍(平賀朝雅) x 平家(若菜五郎)
- 1579年:第一次天正伊賀の乱、伊賀衆(藤林長門守、百地丹波、滝野吉政等) x 織田信雄
- 1581年:第二次天正伊賀の乱、織田信長軍(織田信雄、丹羽長秀、滝川一益、蒲生氏郷、筒井順慶、浅野長政、堀秀政等) x 伊賀衆
- 1600年:上野城の戦い、西軍(毛利秀元、新庄直頼他) x 東軍(筒井定次)
- 1876年:伊勢暴動、一揆軍 x 官軍
地理
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 上野市史編さん委員会 編『上野市史』上野市、1961年10月10日。NDLJP:2988948。(要登録)
- 伊賀町役場 編『伊賀町史』伊賀町役場、1979年2月22日。NDLJP:9569972。(要登録)
- 角川日本地名大辞典 24 三重県
- 旧高旧領取調帳データベース