コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

島田清田

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
島田 清田
時代 平安時代初期
生誕 宝亀10年(779年
死没 斉衡2年9月18日855年11月1日
官位 従五位上伊賀守
主君 嵯峨天皇淳和天皇仁明天皇文徳天皇
氏族 島田臣→島田朝臣
父母 父:島田村作
藤原冬嗣
テンプレートを表示

島田 清田(しまだ の きよた)は、平安時代初期の貴族のち朝臣正六位上・島田村作の子。孫に島田忠臣良臣がいる。官位従五位上伊賀守

出自

[編集]

神八井耳命の五世孫の武恵賀前命の孫にあたり、成務朝尾張国島田上下2郡(現在の愛知県名古屋市天白区島田)の悪神を平伏し復命後に島田臣の氏姓を与えられた仲臣子上の後裔とされる皇別氏族多臣の一族で、尾張国丹羽郡出身の地方豪族である丹羽臣と同祖とされる[1]

経歴

[編集]

若くして大学寮に入学し経書史書を広く学ぶ[2]文章生試に及第したのち、大学少属・大宰少典内蔵少属を歴任。この間、弘仁4年(813年)には多人長による『日本書紀』の講書を受けた一人として名を連ねている[3]弘仁14年(823年)朝臣姓に改姓する。

淳和朝に入ると少外記次いで大外記を務める傍ら、勘解由判官下野権掾を兼帯、天長6年(829年)には従五位下に昇叙された。またこの間、『日本後紀』の編纂にも参画している。仁明朝では大外記・宮内少輔治部少輔・伊賀守を歴任した。文徳朝仁寿元年(851年)従五位上に至る。

斉衡2年(855年)9月18日卒去享年77。最終官位散位従五位上。

官歴

[編集]

六国史』による。

脚注

[編集]
  1. ^ 『新撰姓氏録』右京皇別下
  2. ^ 日本文徳天皇実録』斉衡2年9月18日条
  3. ^ 『日本書紀私記』
  4. ^ a b c d 『外記補任』

参考文献

[編集]