土方雄隆
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛永19年(1642年) |
死没 | 元禄4年6月12日(1691年7月7日) |
改名 | 雄高(初名)、雄隆 |
別名 | 通称:監物 |
墓所 | 大阪府貝塚市森の青松寺 |
官位 | 従五位下山城守、伊賀守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱→綱吉 |
藩 | 陸奥窪田藩主 |
氏族 | 土方氏 |
父母 | 土方雄次、内藤忠興娘 |
兄弟 |
雄信、雄隆、雄賀、林貞辰、鵜飼兼治、 六郷政信継室、伊藤某室 |
妻 | 小出吉重娘 |
土方 雄隆(ひじかた かつたか)は、江戸時代前期の大名。陸奥窪田藩3代(最後の)藩主。官位は従五位下・山城守、伊賀守。
生涯
[編集]寛永19年(1642年)、2代藩主・土方雄次の次男として誕生。
病弱であった兄・雄信に代わり世子とされ、万治2年(1659年)に徳川家綱に拝謁し、延宝7年(1679年)11月27日の父の隠居により跡を継ぐ。正室は小出吉重娘。このとき、弟・雄賀に2000石を分与したため、1万8000石となる。同時に従五位下、山城守に叙任し、天和元年(1681年)に伊賀守に叙任する。
天和2年(1682年)、家臣の林氏の養子となっていた弟・貞辰を仮養子として跡を継がせようとしたが、国許の家臣は他家に入った貞辰ではなく、雄信の子の内匠に跡を継がせるように進言した。貞享元年(1684年)、雄隆はこれを受け入れて、内匠を養子にするために伴って参府したが、江戸の家臣は貞辰を推しており騒動となった。貞辰が幕府大目付に提訴し、また雄隆の側室の射殺事件が起き、そのため7月22日に改易となり封地は収公され、雄隆は越後国村上藩主・榊原政邦預かりとなった。貞辰は伊勢国久居藩主・藤堂高通預かりとなり、内匠は八丈島へ流罪となった。家臣の多くも処分され、騒動の仲裁を受けたがそのまま放置したとして雄隆の義弟・筑後国松崎藩主・有馬豊祐も改易処分となった。
改易の4日後、弟・雄賀に雄隆の財産と江戸藩邸備蓄金5万両が与えられ、子孫は1700石の旗本として存続した。内藤政貞はこの雄賀の次男にあたる。