畠山義隆
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 弘治2年(1556年) |
死没 | 天正2年(1574年)7月12日 |
別名 | 義高 |
戒名 | 幽徳院殿宗栄大禅定門 |
幕府 | 室町幕府能登国守護 |
氏族 | 畠山氏 |
父母 | 父:畠山義綱、母:六角義賢娘 |
兄弟 | 義有(義慶?)、義隆、随林 |
妻 | 正室:三条家の娘 |
子 | 春王丸 |
畠山 義隆(はたけやま よしたか)は、能登国の戦国大名。能登畠山氏の当主。七尾城城主[1]。
生涯
[編集]畠山義綱の嫡子として誕生[2](『長尾家譜』では長男)。母は六角義賢の娘[2]。異母兄・二本松義有(伊賀守)は、妾腹のため二男とされた[3]。弟に随林[4]。
永禄8年(1565年)3月、父・義綱の後継を巡って家中が分かれる[5]。義綱と重臣・遊佐続光らは、異母兄・義有を擁立しようとし、これに対して、飯川義宗(肥前守)や長続連らは正室の子である義隆を支持した[5]。
同年4月、父・義綱は、後継者問題や自身の行状のこともあり、家臣によって能登を追われ、越後国の上杉謙信を頼った[5]。以後、義綱は、上杉氏の援助により、複数回にわたり七尾城復帰を目指すことになる[6]。
義隆は重臣に擁立され、13歳で七尾城主となった[7]。
天正2年(1574年)7月12日、遊佐続光により毒殺された(『本朝通鑑』ほか)[8][9][10][11](「栃尾市史資料」では、天正4年(1576年)としている[12])。
19歳(一説に18歳)[10]。法号は幽徳院殿宗栄大禅定門[10]。
このとき2歳だった息子・春王丸(義春?)が跡を継いだ[13]。
天正5年(1577年)9月、上杉謙信は、七尾城を落とした後、義隆の未亡人・三条氏を上野国厩橋城城主・北条高広(北条景広?[14])に再嫁させた[15]。その際、謙信は「出家の身分として世話如何と思えど」との言葉を残している[11]。
異説
[編集]- 永禄9年(1566年)、父・義綱と祖父・義続が重臣によって追放され、兄とされる義慶が家督を継ぐと、二本松氏を名乗って兄の補佐役を務めたとも言われる(若年の義隆が実際に兄を補佐できたかどうかは疑問である)。
- 義隆と義慶は同一人物説もある。しかし、上杉家の史料に「義高」と表記しているものもあり、別人の可能性も否定できない。
脚注
[編集]- ^ 片岡 1968, p. 32.
- ^ a b 片岡 1968, p. 142.
- ^ 片岡 1968, pp. 142–143.
- ^ 片岡 1968.
- ^ a b c 片岡 1968, p. 27.
- ^ 片岡 1968, pp. 27–28.
- ^ 片岡 1968, p. 153.
- ^ 林春斎他「巻第七十二」『標記本朝通鑑』《正親町天皇》博文館、1897年2月、51頁。NDLJP:771708/55。
- ^ 片岡 1968, pp. 153–154.
- ^ a b c 片岡 1968, p. 32,194.
- ^ a b 松谷 & 196-, p. 7.
- ^ 松谷 & 196-, p. 16.
- ^ 片岡 1968, p. 194.
- ^ 北國新聞社『加能女人系 上』
- ^ 松谷 & 196-, p. 7,16.