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畠山義隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
畠山 義隆
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 弘治2年(1556年
死没 天正2年(1574年)7月12日
別名 義高
戒名 幽徳院殿宗栄大禅定門
幕府 室町幕府能登国守護
氏族 畠山氏
父母 父:畠山義綱、母:六角義賢
兄弟 義有(義慶?)、義隆、随林
正室:三条家の娘
春王丸
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畠山 義隆(はたけやま よしたか)は、能登国戦国大名能登畠山氏の当主。七尾城城主[1]

生涯

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畠山義綱嫡子として誕生[2](『長尾家譜』では長男)。母は六角義賢の娘[2]。異母兄・二本松義有(伊賀守)は、妾腹のため二男とされた[3]。弟に随林[4]

永禄8年(1565年)3月、父・義綱の後継を巡って家中が分かれる[5]。義綱と重臣・遊佐続光らは、異母兄・義有を擁立しようとし、これに対して、飯川義宗(肥前守)や長続連らは正室の子である義隆を支持した[5]

同年4月、父・義綱は、後継者問題や自身の行状のこともあり、家臣によって能登を追われ、越後国上杉謙信を頼った[5]。以後、義綱は、上杉氏の援助により、複数回にわたり七尾城復帰を目指すことになる[6]

義隆は重臣に擁立され、13歳で七尾城主となった[7]

天正2年(1574年)7月12日、遊佐続光により毒殺された(『本朝通鑑』ほか)[8][9][10][11](「栃尾市史資料」では、天正4年(1576年)としている[12])。

19歳(一説に18歳)[10]。法号は幽徳院殿宗栄大禅定門[10]

このとき2歳だった息子・春王丸(義春?)が跡を継いだ[13]

天正5年(1577年)9月、上杉謙信は、七尾城を落とした後、義隆の未亡人・三条氏を上野国厩橋城城主・北条高広北条景広?[14])に再嫁させた[15]。その際、謙信は「出家の身分として世話如何と思えど」との言葉を残している[11]

異説

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  • 永禄9年(1566年)、父・義綱と祖父・義続が重臣によって追放され、兄とされる義慶が家督を継ぐと、二本松氏を名乗って兄の補佐役を務めたとも言われる(若年の義隆が実際に兄を補佐できたかどうかは疑問である)。
  • 義隆と義慶は同一人物説もある。しかし、上杉家の史料に「義高」と表記しているものもあり、別人の可能性も否定できない。

脚注

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  1. ^ 片岡 1968, p. 32.
  2. ^ a b 片岡 1968, p. 142.
  3. ^ 片岡 1968, pp. 142–143.
  4. ^ 片岡 1968.
  5. ^ a b c 片岡 1968, p. 27.
  6. ^ 片岡 1968, pp. 27–28.
  7. ^ 片岡 1968, p. 153.
  8. ^ 林春斎他「巻第七十二」『標記本朝通鑑』《正親町天皇》博文館、1897年2月、51頁。NDLJP:771708/55 オープンアクセス
  9. ^ 片岡 1968, pp. 153–154.
  10. ^ a b c 片岡 1968, p. 32,194.
  11. ^ a b 松谷 & 196-, p. 7.
  12. ^ 松谷 & 196-, p. 16.
  13. ^ 片岡 1968, p. 194.
  14. ^ 北國新聞社『加能女人系 上』
  15. ^ 松谷 & 196-, p. 7,16.

参考文献

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  • 片岡樹裏人『七尾城の歴史』七尾城の歴史刊行会、1968年7月1日。NDLJP:3448891 (要登録)
  • 松谷時太郎「上杉謙信公と栃尾」『栃尾市史資料 第十集』、栃尾市教育委員会、196-、NDLJP:9536761 (要登録)