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畠山義統

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
畠山義統
時代 室町時代後期 - 戦国時代前期
死没 明応6年8月20日1497年9月16日
別名 義純
戒名 大寧寺殿大彦徳孫大禅定門
官位 左衛門佐
幕府 室町幕府相伴衆能登守護
氏族 畠山氏
父母 父:畠山義有、母:賀茂神社社家竹内氏の娘[1]
兄弟 義統政国
正室蔵春院
義元慶致松波義智
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畠山 義統(はたけやま よしむね)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将守護大名室町幕府相伴衆能登守護。能登畠山氏の第3代当主。2代当主畠山義忠の嫡男畠山義有の嫡男。弟に政国。子に義元慶致松波義智

生涯

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永享12年(1440年)頃に父が祖父に先立って戦死(文明5年(1473年)の記録に、義統30余歳という記録があるので、義統が誕生して間もないころだと思われる)したため、祖父より世子として指名された。そして享徳4年(1455年)に祖父が隠居したため、家督を継いで当主となった。ただし若年のため、祖父による補佐をしばらくは受けた。

応仁の乱では畠山義就を支持して山名宗全が総大将である西軍に与し、細川勝元畠山政長の東軍と戦った。応仁の乱が終わると能登に帰国し、以後は在国大名として守護大名としての権力再編・強化に務めた。文明11年(1479年)頃には越後守護上杉房定婚姻関係(具体的な婚姻関係は未詳)を結び、越中侵攻を企てる。長享元年(1487年)、加賀一向一揆が起こると加賀守護富樫政親を支援した。

やがて、延徳2年(1490年)に能登門徒による義統暗殺計画が発覚し、義統は越後守護代長尾能景と連合して越中・加賀の一向一揆と開戦する。だが、一揆側は畠山一族の勢力削減を図る管領細川政元の支援を受けており決着はつかなかった。

義統は文化人でもあり、応仁の乱で荒廃した京都から多くの文化人が能登に下向してきたため、能登は大いに繁栄した。明応6年(1497年)8月20日、鹿島郡府中の屋敷において死去。跡を嫡男の義元が継いだ。


偏諱を与えた家臣

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脚注

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  1. ^ 畠山義統の生母と姉妹とみられる女性が同じ賀茂神社社家である鳥大路家に嫁いで後に「今小路」と称される女性を生んだが、後に大内政弘が「今小路」を側室に迎えた際に従兄弟である義統が一旦養女としている。「今小路」は後に大内義興の生母となった(藤井崇『大内義興』戎光祥出版、2014年、P34-35)。